第2話 マルハナバチは先に

わたしは風景を見るのが好きだ。

植物、動物、昆虫、自然のあらゆるもの。

たとえば、もう少ししたら耳にうるさいあの、でっぷりと丸くふとったマルハナバチがぶんぶんと花と花とを渡るだろう。


知っているだろうか。

マルハナバチはあまり人に害はないらしい。

そして、本当に危険なハチは、必ずマルハナバチより後に活動し出す。

まるで、人がハチの羽音に慣れた頃合いを見計らってさっと一刺しするように。


わたしは、きっと危険なハチだった。

誰にとってかといえば、もちろん家族にとってだ。

4つ上の姉は、勉強もできなければ、髪を染めたり、ピアスを開けたりしてよく学校に呼び出される、いわゆる問題児であった。

いつもぺちゃくちゃと彼氏の話をしてうるさく、その陽気な髪色も相まってわたしの平穏を乱す。


だが、シングルマザーの母にしてみれば、明るく、活発で、交友関係も広く、年相応に異性と交際し、運動だって得意な姉を、無害で自分と同類、理解できる家族として信頼していた。


わたしは違う。

幼いころから読書や勉強が好きで、家では1人だまって部屋に籠っている。

きっと、母からみれば理解できない、暗く恐ろしい存在だったのだろう。


あの日もそうだった。


市営住宅の我が家は、母が可哀そうだと連れてきた猫が繁殖に繁殖を重ね、わたしが朝食を食べていると、テレビの裏、食器棚の上、雑多におかれた洗濯物の中から数多の視線を向けてくる。そんなニュースにもなりそうなゴミ屋敷一歩手前の家だった。


猫に罪はない。むしろ猫は好きだ。

でも、この母のさびれた心中を具現化したような雑多さは心底嫌いで、「さっさと学校に行ってしまおう」と朝食の食器を洗っていた、そのときだった。


いつもは私が早朝、学校に行ったあとに起きてくる母が、暗い階段の奥からぬるりと降りてきた。

そして唐突に、


「あなた、2年生になるのね」

「そうだよ」

「受験近くなるじゃない。高校とかどうするの。お姉ちゃんは制服がかわいいっていって私立に行ったけど、、、あの子らしいわよね」


母はそう言って、馬鹿にしたような笑顔を見せる。

姉を馬鹿にしたのではない。

わたしを、だ。


「お姉ちゃんは、これがしたい、あれがしたいってちゃんと言って、ちゃんとやり通すけど、ほら、あなたは違うじゃない。勉強したいから私立の中学行くって言って、せっかく塾にも入れてあげたのに、途中で辞めちゃって。お金もったいなかったわ。あなたっていつも中途半端だから」


わたしは煮えくり返りそうになるハラワタをぐっと抑えるように、母に背を向け腹を押さえた。


中途半端。

そうなのかもしれない。

でも、わたしにだって言い分はある。

塾に通って少し経ったころ、母はわたしに言ったのだ。

いつもはあなたと呼ぶくせに、その時は玲ちゃんと言って、


「本当に勉強好きよね、私には考えられない。でもいいわよね、ほら、何になってもらおうかしら、医者?弁護士?でも今は弁護士もうからないって言うけど、、、でも独立したら、事務員とかでお母さんのこと雇ってよ、お姉ちゃんもさ」


そのとき、わたしは塾をやめようと思ったのだ。


「お前のために勉強してるんじゃない!」

「お金のために医者や弁護士になれってこと?」

「この人は金のことしか頭にない」

「一生こいつらと一緒?」

「わたしは楽しいから勉強してるんだ、そんなためじゃない!」

「わたしのことだって将来の金づるで、今は投資してるにすぎないんだ」


そんな考えが小学生のわたしの頭の中を埋め尽くして、そんな目的のために塾代を払ってもらって母に借りを作るのは嫌だった。


そんな母が、どこから仕入れてきたのか、高校の話をし出した。


「ほら、なんだっけ、ナンバースクール?数字が学校名に入っているとこに入れば、東大とかの可能性もあるんでしょ?そこにしたらいいわよ。どうせやりたいこともないんでしょう?」


「わた、、、しは、、、、、、」


わたしは、いったい何になりたいんだろう。

何になれるんだろう。

きっと、何にもなれない。

小学校のとき塾をやめてから、確かに母の言う通り、逃げ癖がついた。

母の意のままになるのも嫌、でも、反抗する勇気もない。

こんな人間が、いったい誰のためになって、何を成し遂げられるのか。

それに、わたしには大きな、とてつもなく大きな欠陥がある。


「、、、、うん、、、考えとくよ」

「意志のない子ね、決まったら教えなさいよ」


そう言われて、私は逃げるように家を飛び出した。


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「大丈夫か?」


そうして、本当に痛くなってきたお腹と、どうしようもなく流れる涙を隠すように市営住宅の駐車場で蹲っていると、緑のブレザーを着た学生に声をかけられた。

確か、隣の七木山中学校の制服だ。


「家もどるの手伝おうか?」


その少年は、大きな瞳を細くして隣にしゃがんだ。

わたしは家になど戻りたくないと顔を必死に振り、そして、このくしゃくしゃの情けない顔を見られたくないと、なお顔を膝と膝の間にうずめた。


すると、隣にいたはずの少年の気配がいつのまにかすっと消えていた。

わたしがキツネにつままれたような気持ちで顔を上げると、少年は少し離れたところで何やらスマホを弄っていた。


「どう、、、したんです、、、か?」


わたしがそう聞くと、少年は振り向かないまま、


「うーん、腹痛には何がいいのか調べてたんだよ、、でもさ、鎮痛薬を飲めとか言ってさ、それないから困ってんだっつーの、って思わない?、、、、お、ちょっと待ってろ!」


そう言って、5分ぐらいだろうか、わたしはちょっとだけ痛みが和らいで、鏡で顔を確認するぐらいの余裕が出た時、さっきの少年が戻ってきた。


「ほら、これ飲め、ハチミツお湯で溶かしたやつだから!ダメだったら病院行けよ!じゃ!」


少年はついぞ顔を合わさず、コップだけ市営住宅の赤さびた階段に置いて走って行った。

わたしの目には、少年の顔が少しだけ赤らんでいたような気がした。


本当にハチミツをお湯で溶かしただけのその一杯は、ちょっとだけ甘く、少し苦かった。



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「コップ、洗って返すから、ありがとう」


ホームルームが終わって、わたしはすぐにそう言った。

転校生、それもイケメンときたら、きっとすぐに同級生に囲まれる。

だから、先に言っておこうと思ったのだ。

少し、ぶっきらぼうな言い方になってしまったかもしれない。


「いいっていいって、これからよろしくな」


お腹は大丈夫か、良くなったのか、そんなことも彼は言わなかった。

その僅かの配慮が、こんなにも嬉しいと思ったのは初めてだった。


彼の顔をもう一度見てみたい。そう思って横を向こうとしたとき、彼がひと際大きい声を出した。


「万太郎!万太郎!!!お前なんで無視すんだよ!」


転校生の彼、三國柚葵くんが誰かに向かって駆けて行った。

三國くんに集まろうとしていたクラスメイトもぎょっとして立ち止まる。


「うん?あれ?あれれ?なんで柚葵くんがここに?」

「お前寝てたのか?転校してきたの!」

「なんで?嬉しいけど」

「お前、相変わらず空気読めねぇな。隣の中学に来るんだから訳アリに決まってんだろ」

「訳アリ?訳アリってなんだろう、、、アウトレット?」

「変わんねぇなぁ、まぁそこが万太郎のいいとこだ」


三國くんが、マンタロウと呼ばれたクラスメイトの頭をガシガシと撫でる。

そのパンチパーマかと疑うような癖の強い短い毛が、なおアフロのように膨れ上がった。


わたし、知ってる。

確か生徒会役員で、成績はいつもトップの千田万太郎せんだまんたろう。そのジョークみたいな名前はよく耳にした。

やれ、女子トイレ覗いて鉢合わせた女子生徒を泣かせただの、不良学生にぼこぼこにされただの、警察に補導されただの、噂の絶えない生徒だ。

できればあまり関わり合いたくないし、理解できないやつだ。


「えーーー、三國くん、万太郎と仲いいの?」


1人の女子がこれを機にと会話に入る。


「うん、小学校から一緒でさ。こいつ、空気読めないしぼぉっとしてるけど、根はいいやつなんだよ。な、てかお前、また太ったな」

「うーん、毎日1時間散歩してるんだけどなぁ、痩せないんだよなぁ」

「散歩って、おじいちゃんかよ、走れよ」

「うん、頑張ってみるよ」


その二人の掛け合いに、クラスがわっと盛り上がった。

女子よりも小さくて、にんにくのような丸く低い鼻、それから太った体型と、ちりちりの髪、眼鏡。

キャラクターっぽいと言えば聞こえはいいが、要するにブサイクだった。


わたしはそんな周囲の風景をもう他人事のように見やって、あとはどうやってコップを返そうか、そればかりを悩みながら1日を過ごした。










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