すべてを奪い、これは遊びにすぎないと逃げる
騎馬隊の先頭にひときわ目立つ男がいた。
大柄だからとか、堂々としているとか、適当な理由をつけることはできるが、すべて違うと淑華は思う。
生まれながらの支配者がいるとすれば、あの馬上の男にちがいない。
男は鋭い目つきで周囲を
どれほど大勢の人のなかにいても、あの男なら一瞬で注目を浴びる。
あれは
彼を見たことはないが、しかし、違うと勘が告げていた。
淑華は道の真ん中で立ったまま、動くこともできず、男から目が離せなくなった。
騎馬隊が近づいてくる。
風が起こり、風が吹く。
馬のひずめ音が、さらに高鳴る。
騎馬上の男は、淑華の横を通り過ぎるとき、身をかがめ軽々と彼女をすくい上げて馬に乗せた。
「何をしている。馬に踏みつぶされたいか」
淑華は声を出せなかった。
「あなたは?」
「
「怪物」
「ああ」と、彼は右眉だけを皮肉に上にあげた。「そうも呼ばれているようだな。そなたの父親はここの領主であろう、ちがうか?」
「ち、違います」
淑華の嘘を見抜いたかのように、男はおおらかに笑った。
血と鉄と硝煙にまじった汗の匂いがする。その匂いが、
この地に来るまでに、
すべてを喰らいつくすように群小国家を併合し、疲れも知らず、北の大国『魯国』を追って西側まで侵攻した。
『魯国』は西へ西へと追い詰められ、その、とばっちりを受けたのが、淑華の住む領土である。
西の群小国家のうちでは最大の領土と堅固な要塞をもつ地だったが、所詮は弱小領国だ。
魯国の大軍になす術もなかった。
城壁が陥落しようとした寸前、
彼に歯向かった最後の国、魯国は、そうして呆気なく滅んだ。
十五歳の
それが、大陸の覇者
人びとが噂する朱棣林とは。
曰く──
特殊なオーラを身にまとう怪物。
戦神に愛された大将軍。
生きているうちに伝説となった偉人。
凄惨で血生臭く、容赦ない敵への扱いには誰もが震え上がった。淑華の耳に届くのは、そうした恐ろしげな噂ばかりで、すくなくとも彼女が恋する対象としては別次元の存在であった。
その彼の馬に乗り、血生臭い胸にすっぽりと抱かれている。
軍馬に乗って進んでいく沿道では、みな
「わたしが恐ろしいか」
淑華は愛情深く育てられた恐れ知らずの娘である。「おそろしいか」と聞く朱棣林に首をふった。
「いえ」
「おもしろい娘だ。誰もがわたしを恐れるが、度胸がある。気に入った。どうだ、わたしの妃になるか」
「い、いや……、死にます」という語尾は民衆の喧騒に消えた。
当時の彼女は求めるものが何かを知りもせず、自分が世界の中心のように考える、思春期特有の矛盾した感情を抱いていた。
年齢を重ねた今なら理解できた。
あまりにも幼い若さとは、こうした気楽さにあるのだろう。
「ほお、妃になるより、死を選ぶのか。若い娘の生死とは軽いものだな。その答えは生の意味がわかってから、もう一度、聞こう。それまで、わたしの側に仕えよ」
淑華は首をまわして、彼の顔をあおぎ見た。
うすく髭が伸びた顔は日に焼けて浅黒く、濃い眉の下に隠れた目つきは鋭い。彼女と目が合うと、ふいに頬を緩めて笑った。
それまで、甲冑のように怖い顔だと思っていたが、白い歯をみせて笑うと道に迷った子犬のようで、ドキッとした。
──この人、近くで見ると、すごくいい顔をしている。笑うと怖いより、なぜか悲しげだ。
「返事は」
「わたくしの意見を聞いてくださるの?」
「聞かんな」
「そんな……、ひどい」
「確かに、ひどい。だがな、姫よ。それでも聞かれただけでも、光栄だと思うことだ」
淑華の屋敷まで騎馬隊は行進した。
屋敷の門前では、父や兄が膝をつき顔を伏せながら待っていた。
馬上から降りもせず、
愛する家族が地面に頭をつけて怯えている──。
父が怪物のまえでは、ひどく脆い存在に見えた。蹄の音が途絶え、しーんとした沈黙が落ちたが、
ジリジリと時が過ぎた。
先に声をあげたのは父だった。
「わが領地を
「うむ」
「
日頃の陽気な父からは想像できないほど、硬い声だった。
地面を転がる丸いものが何であるか気づいて、淑華は「ひっ」と声をもらした。
それは髪が乱れ、血に汚れた生首だった。
「恐ろしいか」
「いえ」
「あの首のように、そなたの家族が転がって欲しいか」
淑華は馬上から転げるように降りると、その場に叩頭した。
「
「立て」と、
「わたしを見よ」
叩頭したまま、淑華はなにを言うべきか必死に考えた。恐る恐る立ちあがる。
「どうか、わ、わたくしを、あなたさまの妃に」
彼女は十五歳だった。
(第1章完結:つづく)
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