第2章

私に母のような優しさを求め




 

 朱棣林シュ・ディリンが遼国に凱旋したのは、大陸を統一した半月後だった。

 当然、淑華も一緒で、故郷を去る日……。

 見送りに出た家族や使用人たちの姿が徐々に遠ざかり、いつしか点となっても、まだ、彼女は馬車の窓から見つめていた。


 故郷と遼国は早馬で駈けても十日はかかる。そのことを忘れるために。


「いつまた、会えるでしょうか」


 ぼそりとつぶやいた楊楊やんやんの言葉が心に染み、彼女は答えることができなかった。




 半月後、一行は遼国に到着、大歓声に迎えられても、まだ、故郷の人びとがチラついた。


 見慣れた大地や森を離れるときは真冬だった。

 遼国は温暖な地域で、冬でも故郷より暖かい。身につけてきた毛皮の外套が必要なくなった。

 空気の違いで、別の国に来たのだと実感する。


 はじめて見る遼国の王宮は、幾重にも建物が連なる壮大な建築物で、これが大陸統一した国の都と城なのだと唖然とした。故郷の屋敷など、城とは言えないと、彼女は目を丸くした。


 唖然とするほど豪華だが見知らぬ後宮に入って、二間ある部屋に案内されると、淑華が最初にしたことは泣くことだった。

 彼女に従ってきた侍女の楊楊ヤンヤンも、そんな淑華を慰めるより一緒に号泣する方を選んだようだ。


楊楊ヤンヤン。あなたのほうが泣いてるって、どういうことなの」

「わたしめは孤児ですから。淑華さまのいるところが、ウッウッ、ウッ、家にございます。だからこの状況に、ウウッ、ウワアー、号泣します」

「わたくしのせいみたいに泣かないで。それに、そんな泣き方していたら、頭が痛くなるわ」

「どうぞお構いなく、ウウッ、お、お、お気遣いなく」

「あの男と寝なきゃならないのは、わたくしよ。ほら、また、泣きたくなったわ」

「そちらは、ウウッ、ウッ、そちらは逃げの一手で、泣き終わってから策を考えますから」

「さすが、楊楊、心強いわ。じゃあ、自信をもって泣いてなさい」


 しかし、ふたりの心配はまったく杞憂になった。

 後宮に部屋をあてがわれたが、それだけで日々は何事もなく過ぎていく。一日、一日とただ過ぎていくだけだ。


 帝として即位した朱棣林シュ・ディリンは、寵妃である暁華シャオホア貴妃のもとへ足繁く通うが、彼女たちの住む最奥の部屋まで来ることはなかった。


「これ、どういうことかしら」

「なんでしょうか。あてがわれた部屋も奥院の奥。『秋の間』ですよね。つまり、黄昏て過ごせって意味でしょうか」

「国では大陸一の美少女といわれた、このわたくしが無視されているの?」

「それは、怒りの方向性がまちがっているのではございませんか」

「何がいいたいの」

「ですから、そもそも、あの男に抱かれたくないと、駄々をこねて泣いていたのは淑華さまです」

「無視してもいいとは、言ってないわ」

「さすが、淑華さま。わたくしめは、とりあえず逃げの策をいくつか用意していましたが、逆に帝を呼ぶ手段を考えましょうか」

「この、バカ! 何を考えているの」


 そうして、月日は流れ、いつしか帝の存在さえも気にならなくなった頃。

 彼女は十六歳になっていた。

 少女から大人へと変貌し、女が蕾としての美しさを身にまといはじめた頃、内侍が彼女の部屋に訪れた。


「今宵、帝が参ります」


 伝達を聞いた侍女たちが慌ただしく働き、興奮を抑えられない様子で淑華の支度をする。ついにその日がきたようだ。


 それが恐ろしいのか、待ちわびていたことなのか、自分自身もわからなかった。ただ、その日が来たのだと、諦めにも似た感情をもった。


 帝は魅力的な男だ。


 後宮に住む女たちの誰もが彼を恐れ、敬い、愛を得ようと争っている。


 そんな男の側女となった彼女は、この日まで一年を待った。待ち続けるだけで過ぎても良いとさえ思っていた。

 しかし、彼は来る。


 それは、春の日の宵の口だった。

 花びらを浮かせた湯船で身体を念入りに洗われ、夜着を身に纏った彼女の姿は、美しい女を見慣れた侍女たちさえも感嘆の声がもれるほど、初々しく可憐だった。


「楊楊、どうしよう」

「今さら、逃げることもできません」

「役に立たないわね」

「逃げたいのでございますか?」

「楊楊、それもわからないの」


 行燈の灯りのもと、楊楊と話していると、内侍の声が聞こえた。


「帝が参りました」


 先触れの声とともに、大股に歩く彼の足音が聞こえる。

 それは、部屋の前で止まった。


「では、淑華さま」

「待って。ここにいて」

「まさか、ふたりでお相手を?」


 帝は逡巡もせず、慣れた様子で部屋に入ってきた。その姿を見て、楊楊は後退りして部屋から出ていく。


 淑華は寝台の上で緊張していた。胸の前に手を組み、両足をきつく合わせ、みじろぎもせず横になった。


 几帳にかかる布を開き、帝がなかに入ってくる。

 強い香の匂いが鼻をくすぐった。帝の香は独特だ。その匂いとともに彼が寝台に入っただけで、部屋の温度があがった気がした。

 淑華は我知らず身体が震えた。


「恐ろしいか」と聞かれ、首をふった。


 きつく閉じた目を開けると、すぐ近くに彼の顔があった。彼の鼓動が聞こえてくる。それは静かで規則正しく、まったく乱れもしていなかった。




(つづく)

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