一方で冷酷さをも望む
帝は寝台で横になると、片腕を曲げて頭を支え、楽しそうな様子で彼女を眺めている。
淑華はとっさに壁側に身体をずらして、くるりと背を見せ、できるだけ彼の身体から遠ざかろうとした。
狭い寝台がうらめしく、どうにかしてこの危機的状況から逃げることしか考えていなかった。
「怖いのかな」
その声は眠そうだった。
──これは質問なの? こんな時には質問されるものなの? 答えるべき、でも、答えたら親しげに見えない? どうしよう、どうしたらいいの。
頭のなかで答えのない疑問がぐるぐるとまわり、結果として淑華は不器用に首を横にふっただけで。そのかすかな動きで、まっさらな絹のシーツが擦れて音を出す。その音にさえびくついてしまう……。
白い夜着を身につけている自分の姿が、ひどく無防備で、このような衣をもってきた女官たちがうらめしい。
「さあ、わたしを見てごらん。そなたは臆病な子だったか?」
挑発するような
「こ、怖いことを、します?」
小さな声でつぶやくと、
「いや、怖くはない。最初は、怖くて、時に痛いかもしれんが。しかし、すぐに気持ちがよくなる」
寝室の灯りはほとんど消され、数本のろうそくのみ灯っていた。
そう、これは帝とのはじめての夜だ。
後宮中の妃が固唾をのんで様子をうかがっているにちがいない。
後宮の、それぞれの部屋は離れ、渡り廊下でつながるだけで、壁に耳をつけてない限り、室内の音は外へもれない。それでも後宮には独特な空気があって、帝がいる場所が常に中心であり、耳目を集める。
淑華は、そこかしこに耳があるような気がして落ち着かない。
「こちらを向きなさい。面白い話をしてやろう」
「話?」
「ああ、そうだ」
淑華が疑り深そうに寝返ると、彼は約束通り過去にした冒険の話を面白おかしく語りはじめた。
それは山で野宿した話だったり、美しい湖底に潜った話だったり、淑華が経験したこともない世界を、彼は冗談のように物語った。
淑華は、いつの間にか話に引きづり込まれていた。片腕で顎を支えながら話す
この人、なんていい顔なんだろうか。
ホウホウという野鳥の声が聞こえ、池に住む蛙の鳴き声も騒がしい。
「それで、帝は、その山に住む狼と仲良くなったの?」
「ああ、そうだ。食べられるかわりにな」
「それはよかった。帝がご無事で」
「
「ディ、ディリン」
「もう一度、呼びなさい、かわいい姫よ」
「ディリン」
彼女の声に誘われるように、
「そうだ、もう一度」
「ディリン」
「そなたの声は愛らしい。その唇で呼ばれるわたしの名は特別なものになる。淑華」
彼女の名前を呼びながら、優しくほほにくちびるを寄せると、そのまま口づけをする。
「名前を」
「ディ、ディリン。あの……」
彼の手が触れ、身体がほてり、妙な感覚がする。
その感覚に溺れそうになって、淑華は身体を硬くする。
「あ、あの、こんなことを」
「いいから、わたしの名前を呼んでおいで、さあ」
「ディリン。あの、こういうこと、できなくて」
「わかっているよ。では、わたしの冒険のつづきを話そうか」
ろうそくの仄暗い灯りのもとで、
彼の口は、それでも、まだ面白おかしく物語を語りながら、淑華の全身を、そっとまるで宝物のように、触れるか触れないほどの優しさでなでていく。
夜はどこまでも深い。闇がこれほど甘美なものだと、彼女ははじめて知った。
「ディリン、ああ、ディリン」
「そうだ。かわいい姫、もっと乱れて、名前を呼んでごらん」
「ディリン……」
「かわいい、子だ」
深い闇に堕ちていくように、彼女はどこまでも深く深く甘美に沈んでいった。
それが彼女の初夜だった。その後、しばらく、彼は淑華の部屋を訪れ、物語を語り、夜を過ごした。
後宮に入ってから、二十年という年月が過ぎていた。
今の
月日というのは主観的なものなのかもしれない。
いつまでもたっても、自分がよそ者のように感じ、自分がいるべき場所ではないという思いはぬぐいきれない……、いつの日かここではない、どこかへ行く予感がする。それが可能だとは想像もできないが。
ときどき、淑華は鏡の前で深くため息をもらす。年月が彼女に与えた影響を冷静に見つめながら。悲観することもなく、波も立たない湖畔のように、ただ、静かに見つめている。
今の姿に『虚しい』という感情にあてはめようか……、
ここは自分の居場所ではなかった。
(つづく)
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