閉じ込めてすべてを奪いさり
彼女も帝に恋したことはなかった。
長い付き合いで情もあり嫌ってはいない、むしろ好意を抱いている。彼が魅力的な男であることはまちがいないからだ。
しかし、帝は仕事熱心な人がそうであるように、統治することに全精力を使い、そこに女が入る余地がない。彼に愛情を求めても無意味だということだ。それがわかっているだけに、淑華は他の妃たちより少し冷静だった。
はじめて夜を過ごした後、しばらく、淑華は彼の寵妃の座を
それも、しかし、遠い過去の話だ。
今では帝が部屋を訪れることは少なくなった。
ただ、まったく来ないという月もない。訪れる時は、ちょっと疲れたような様子で、「元気だったか」と彼は聞く。
ふたりは長い結婚生活を経た夫婦のように、馴れ合いの会話をして、お互いを慰めあう年齢になったのだろう。
壮年期を迎えた彼は、以前のように傲慢ではなくなった。
疲れると帝は淑華の部屋に訪れ、消耗したように深いため息をつきながら、酒を飲む。
半年前、もともと身体の弱かった皇太子が病死し、それを追うように皇后も亡くなった。戦友でもある皇后を失って、帝は少し老いた。
失ったのは皇后だけではない。この二十年のあいだに数人の妃を失っている。
病気であったり、自殺であったり、刑死であったり、その理由はそれぞれだったが。
後宮でもっとも長く帝の近くに侍る妃は、いつの間にか彼の乳母だった女性を除いて淑華だけになった。
「なあ、妃よ。国の統治なんてもんは、捨ててしまいたくなるな。よほど剣で戦うほうが楽なものだ。すべての責任を放りだして、どこかの山奥で静かに自由に暮らしたいと思わないか」
時に帝は何か説明をしようとして夢物語を口にする。それは、常に漠然とした言葉でしかなく、政治は楽ではないという愚痴のようなものだ。
「思ってもいないでしょうに」
「いや、わたしは老いたようだ」
「まだ、四十八歳です」
「そなたはいくつになった」
「まあ……、あなたは先ごろ若く新しい妃を迎えたばかりなのに、わたくしに年齢を聞くのですか?」
「ついでに聞くが、そなたの名を何と言った? もしかしたら、わたしの妃か」
彼が拗ねたような言い方をする。
「お忘れですか? 遠い昔に戦場から馬でさらわれてきた、哀れな少女です」
「哀れとは笑える。わたしに反抗する、こ生意気な少女なら覚えておるぞ。そなたを手に入れるのに、めずらしく逡巡したものだ」
「まあ、なんということ。帝に反抗するなど、畏れおおいことです」
「そうだ、そういう態度だ。そなたは今も昔もかわらない。時に狡猾だ。怒ることも、嫉妬することもないが。じつに狡猾な奴だ」
いつからだろうか。ふたりには無言の規則ができた。
決定的なことを遠回しに言って互いにはぐらかす。その決定的なことが明るみにでれば、ふたりの関係が終わることを恐れているからかもしれない。
彼は淑華を必要としていた。その理由を彼自身、理解していなかったが。
「女たちの愚痴には疲れる。そなたは良い。何も愚痴をいわず、常に穏やかでいてくれる」と、彼は釘をさす。
「みな嫉妬しているのです。帝を愛しているから」
「じゃあ、そなたは愛していないのか」
「ご存知でしょう」
愛などという甘い言葉など信じてないことを、という言葉を胸のなかにしまう。
淑華が争いに巻き込まれないのは、他の妃たちから寵妃とは思われていないことだ。
諍いや荒い言葉、嫉妬など、遠くから醒めた目で眺めている。彼を繋ぎ止めるために使われる多くの労力が、徒労にすぎないと諦観していた。
「そなたは、まだ子どもの頃からそうだった。心を隠すことが上手い。けっして嫉妬の顔を見せない」
「
「どうした」
「そろそろ、あちらに向かう刻限じゃないでしょうか? きっとお待ちでしょう」
帝は不満げな表情を浮かべるが、同時に安堵しているのもわかる。
「ああ、そうだな」
わずかだが取り乱したような、いたずらが見つかった少年のように口を窄める。
淑華は笑いだした。
「何を笑っておる」
「さあ、何かしら。そういえば、新しい妃はいかが?」
「いつもと同じだ。しかし、丞相の孫娘だ。知っているだろう。あやつは、やり手だ。後宮に妃を置いて、皇子を得たいのだろう。わたしは子ができにくいとは知らんのだろうが」
「お気の毒に……」
「それは、皮肉か」
帝には四人の皇子がいる。
亡くなった皇后が産んだ皇子が三人。貴妃が産んだ皇子が一人。後宮には多くの妃がいるが、帝の子を産んだのは、後にも先にも皇后と獄死した貴妃しかいない。
長男である皇太子は三十一歳で病死した。
ほかに皇后が産んだ第三皇子である
第二皇子は流刑地に送られた。
十八年前、後宮では謀反騒ぎがあり、皇太子の毒殺未遂が起きた。首謀者とされた
この事件後、子を産んだ妃はいない。
誰もがその理由を知りながら、知らないふりをしている。それこそ後宮の暗黙の了解だった。
つまり、皇后の手配によって、みな避妊薬を飲まされているのだ。
「わたしは子の縁が薄いようだ」
帝の言葉は皮肉でしかない。実情を知らないのか、あるいは、知っていてとぼけているのか。
「申し訳ございません」
「何がだ」
「帝に御子さまを捧げることができず、わたくしは役立たずにございます」
「貴妃よ。やはり、おまえは狡猾だな」
淑華は聞こえなかったふりをして、夜の庭へと視線を移す。
夜は長い。
中庭から虫の声が聞こえる。ときおり、愚かな虫がロウソクの炎に誘われて飛び込み、ジジジっと焼かれた。
そして──
先ほどから、ポン、ポン、ポンと雅な鼓を叩く音がしている。それに合わせて琴が、ことさら風雅な音色をたてる。
淑華と帝は無言のまま音に聞き入る。
脇息に置いた手に、帝の大きな手が重なった。少しだけ強く淑華の手の甲を握ると、それが合図のように立ち上がる。
「行かれるのですか」
「ああ、ゆっくり休みなさい」
帝は軽く肩を叩くと立ちあがり、部屋の戸口に向かう。彼が立ち去ったあとは、急に部屋が広く感じた。
鼓と琴の音はまだ聞こえる。
渡り廊下を歩いていく帝の足音が消え、しばらくして、鼓の音が止まった。
淑華は立ち上がると、
これから続く長い夜を暗示するような寂しさを感じる。いつものことなのに……、彼女の目もとがうるむ、けっして帝が知ることのない涙がひと粒こぼれていく。
「いつものことなのに」
ロウソクの炎を吹き消して寝台の上に疲れた身体を横たえる。
暗闇に目が慣れると、夜空の雲が切れたのか、月明かりが部屋に落ちてきた。
後宮に住む者たちが息をひそめて、帝がどの部屋に落ち着いたのか……、ある者は嫉妬に怒り、ある者は悲しみを覚え、ある者は闘志を燃やして探っていることだろう。
彼女たちの孤独を知ったからといって、淑華の孤独が減るわけではない。そのことが、少しだけ悲しかった。
帝が悪いわけではない。
淑華の求めているものを、彼が理解できないだけだ。
淑華は存在しない何かを求め、けっして得られないものだからこそ、そのことに傷ついてた。
(つづく)
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