私に孤独でいることを強いて
現在の後宮には十二人の妃がそれぞれの部屋に住んでいる。
淑華のような地方領主の姫、小国の公主や家臣の娘など、多くの娘は、まだ基礎が盤石ではない頃の帝にとって、人質の意味あいがあった。
これを正しく理解した皇后は、正しすぎるゆえに、妃たちに子ができるのを警戒した。
妃の後ろ盾が思わぬ野心を抱いては困る。
不妊薬を配布したのも、そうした理由があって、いわば汚れ仕事をした。帝は知らないふりをしている。こんなところが食えない男だ。
『この薬、とても苦いわ』
帝との初めての夜、尚食局の女官が薬を持ってきた。その苦さに淑華は顔をしかめた。
『飲まなきゃ、いけないの』
『淑華さま、お飲みくださいませ。皇后さまより、確認するように承っております』
『毒じゃないわよね』と、楊楊がずけずけと聞いた。
『畏れおおいことにございます。お身体に害のあるものではございません』
『楊楊、気にしないで。飲むわ』
その苦い薬は、その後、帝が帰ったあとには必ず処方された。聡い淑華は、これがどんな種類の薬であるか理解して、後宮の妃に子が生まれない理由を悟った。
さて、後宮には妃を世話する百人近い女官や宮女たちが働いている。
大陸を統一したのち、皇居は拡大しつづけ、今では、ひとつの町ほどの規模になった。規模が大きくなればなるほど、その組織も巨大化する。
後宮もそうだ。
妃たちが住む屋敷の管理、衣服や食事などの世話は、女官や宮女が担っている。
彼女たちは、それぞれが役所の五局に所属し、長は尚宮と呼ばれた。その上で尚宮を監督する責任者を『差配』とした。
差配とは、要するに後宮でもっとも権力をもつ人物になる。これまで差配は皇后が担い、後宮に君臨してきた。
皇后亡きあと、この差配を寵を争う若い妃に任せれば、嫉妬心から衣装や装飾品などの手配に邪心が入る。
皇后の喪が開けた一ヶ月後、『差配』を誰が担うのか憶測が流れるなか、内侍長が
「勅命である。
顔馴染みの内侍長が
「わたくしを狡猾というけど、帝こそ狡猾です」
「貴妃さま、そのようなことを。さあ、跪拝されて受け取ってくださいませ」
「
「き、貴妃さま。あの、これは帝よりの伝言にございます。『あの者は恐れ知らずなところがある。日頃は大人しく穏やかにしておるが、へそを曲げるとまずい。この詔を受け取らない場合は、そちが責任を取って首を掻き切れ』。そう申されて、このように短刀を」
「ほう、やるじゃない」
「受け取ってはいただけませんか?」
「取らないわ」
「では、書斎を血で汚す不敬をお許しくださいませ」
内侍長はみずからの首に短刀をつきつけ、楊楊があわてた。
「お、お、お待ちください」
「楊楊さま、お止めくださいますな」
「わたしめが代わりに受け取ります。淑華さまは今朝方から病にふせっており、このような名誉ある栄光に自ら浴せないことを残念に思っております」
「楊楊!」と、淑華が怒っているあいだに、楊楊が詔を受けていた。
安堵した内侍長が早々に立ち去ったのは言うまでもない。
新しい差配が結果として淑華であることに、ほっとする者は多かった。
後宮の妃たちは、閉じ込められて生活している。
時を、日々を、月日を、年月を、ただ狭い空間に閉じこもって過ごす妃たちは、気の遠くなる無為の時間に暇を持て余す。
その上、帝は男性的な魅力にあふれている。
情熱を持て余す妃たちは、いかに彼の寵妃になるかで競争し、争い、時に妃同士の殺傷沙汰になったりもする。
淑華ならば、中立的な立場で差配を行い公平さに欠けることがないと、多くの妃が思った。
つまるところ、競争相手と思われていない淑華は、どの妃たちとも関係がよい。
その夜、帝はひさしぶりに部屋を訪れ、にやりと笑いながら彼女に意向をたずねた。
「怒っているのか。そなたほど後宮を任せるに適任者はおらぬだろう。誰もが望む地位だ。そつなくこなせ」
「新しい嫌がらせですか」
「もうすぐ秋の恒例の宴がある、いつまでも差配役を空席にしておくわけにはいかんと思わないか」
「……思いません」
「なにか申したか」
「いえ、何も……。あなたは、いつだって後で許しを乞うだけですから」
「わたしは誰にも許しなど求めはしない。命じるだけだぞ」
淑華はため息まじりに、その場に叩頭した。
「不服そうだな」
帝はおおらかに笑った。
「妃よ、では頼んだぞ」
「だから、お断りしますと申しております」
そんなわけで、秋の月を鑑賞する『十日夜の宴』も、淑華が責任者となった。
『十日夜の宴』とは、内廷と外廷のさかいにある万寧宮で開催される、秋の定例の祝宴である。
帝を囲んで妃たちが楽しむものであり、宴自体は儀式を司る尚儀局が中心となって運営する。
差配の役目は、その全体の目配りだった。
というわけで、その日も差配になった淑華は、あくび混じりに尚宮の報告に相槌をうつはめになったのだ。
明るい日差しが窓から差し込んでいる。
『秋の間』には、寝室と居間以外に、差配となるにあたって書斎の部屋が追加されていた。
その日も翌日に迫った『十日夜の宴』を控え、淑華の前には謹厳実直を人の形にしたような尚儀局の尚宮が進捗状況を説明していた。
一刻(二時間)ほど報告を受けつづけ。
淑華は退屈のあまり、右手にもった扇で口もとを隠しては、あくびを噛み殺すしかなかった。
中庭からは鳥の囀りが聞こえ、報告は延々とつづく。
運営は例年通りで、大きな変化などない。
例年との違いは料理をどうするかくらいだ。料理については、尚食局から時期にあった献立が届いていた。
もし、淑華に野心があれば、独自色を強めるだろうが、たいていの場合、そうした変更は失敗に終わる上に、宮女たちに余計な仕事を増やし、評判が悪いと彼女は知っている。
「なにも問題はないようですね。このままで致しましょう」
「貴妃さま、最後に、ひとつだけお伺いしたいことが」
「なんでしょうか?」
「今回の式に、第二皇子さまをお呼びしていることにございます」
「お呼びしてはまずいのかしら」
「いえ、あの……」
実直な尚宮が言葉を濁すには理由があった。
第二皇子である
十八年前のことだ。皇子の母は皇太子を毒殺しようとしたとして謀反の罪に問われ、獄死した。
その後、一族郎党も処刑。
第二皇子は、まだ七歳ということもあり、処刑は免れたが極寒の地へと流された。
その彼が流刑地から戻ったのが数日前。
七歳で流刑となった
皇子の復帰に、多くの女官たちが、ざわざわと動揺していた。
皇子の母は絶世の美女として名をはせ、当時を知る女官は、それこそ天女が舞い降りたような、ずば抜けて優れた容貌をもっていたと噂する。
帝の寵妃として権勢を誇っていた彼女と淑華は二年ほど同じ時期を過ごした。
当時、
淑華も遠くから見かけたことがあるが、思わず振り返りたくなるほど、その美しさは際立っていた。
皇子は七歳当時も母に似た眩いばかりに美しい少年で、後宮の女官や宮女たちも、皇太子や第三皇子を差し置いて、彼をついかわいがる始末だった。
その上、
功臣を祖父にもち、寵妃を母にもつ第二皇子は、十八年前、皇太子をはるかに凌ぐ人気があった。
不穏な事件は皇太子が急な病に倒れたことにはじまる。
侍医によって、毒による症状と発覚したが、その犯行が第二皇子の乳母によるものだったのだ。
乳母の自白により、
その後、妃の一族は帝直属の秘密警察である
すみやかな詮議の結果、自白や証拠をもとに事件は明白となり、牢獄内で寵妃は毒を賜った。
毒死した妃の顔は、それでも生きているかのように、美しかったという。
この陰謀に加担した妃の父である
第二皇子は帝の血を引くという理由から、処刑は免除され、雪に閉じ込められた北の山岳地帯に流刑となったのだ。
一連の事件は、迅速すぎるほど迅速に収束し、何事もなかったかのように時が過ぎた。一年が過ぎる頃には、この事件について誰の口にも上がらなくなった。
すべてが闇の中に消えたのだ。
皇太子は一命を取り留めたが、なんとも後味の悪い結末ではあった。
その皇太子が病死し、後を追うように皇后も亡くなった。
そして……、悲劇の皇子が都に戻ってきた。
(つづく)
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