私がすべてをあなたに捧げることを楽しみ



 凪いだ湖畔のように静かで変化のない後宮、時は常に同じように過ぎていく。


 戦乱の時代は遠い過去になり、二十年も過ぎれば、太平の世しか知らない者も多いのだが……。


「嵐が来るようです」


 呪いのような言葉を告げたのは、まじめ顔をした尚儀局の尚宮だった。

 儀式を司る局だからだろうか。この尚宮は、律儀なくせに浮世離れしたところもあり、占術が得意だと聞いている。


「嵐というのは、どういう意味かしら」

「貴妃さま、いえ……」と言って、彼女は淑華の顔をじっと見つめてから、言葉中途で切った。

「いえ、宴についてでございますが。皇后さま御崩御から半年で、派手な趣向も致しかねますが」

 

 彼女のいう嵐とは、第二皇子の帰還だろうと思ったが、そのままにした。「そうね。ともかく、宴では派手な趣向は必要ないわ」と答えるだけにとどめる。


 謀反人として一族が途絶えた唯一の生き残りが、十八年ぶりに皇宮に戻ってくる。


「それから、第二皇子さまをお戻しとか。宴にお招きするのでしょうか」

「帝からは、そのように聞いております」

「かしこまりました」


 尚宮が帝の確認を頼むのは、皇子が宴に出るとなれば、公式にも許されたことになるからだ。果たして、それが重大なことなのか、淑華は自問した。


 多くの人が誤解しているが、皇子に罪などない。

 七歳の子どもを罪に問うなど馬鹿げたことだと思ってもいる。当時、そのことで、帝に異を唱えたのは淑華だけだった。


「皇子さまを宴に招くのでしょうか。第三皇子さまも、第四皇子さまも酒席にお招きするには、まだお若いですが。第二皇子さまは成人なさっておいでです」と聞くと、「そうだな」と、帝の口もとがあがった。


 その顔は笑うというよりも嘲笑っているように見える。帝は、ときにこういう表情を浮かべる。

 たいした意味がないことも多いのだが。

 謎めいた態度に周囲は忖度して動く。


 淑華は彼の気まぐれと孤独、警戒心を知悉しており、こうした表情を浮かべたときは、用心すべき場合と、聞き流す場合の兼ね合いを理解していた。


「さては第二皇子さまを呼び戻されたのは、牽制する相手がいるのですね」

「おまえは深読みがすぎる。そのかわいい顔に騙されるものが多いだろうが。この後宮で敵をつくらないなど。その腹黒さを知らないようだ」

「買い被りすぎです」

「怒ったのか?」

「はい」


 帝は声をあげて笑った。今度は本当に楽しそうに見えた。


「席は、上席に設けろ」

「承知いたしました」


 皇后との間に第一子が生まれたとき、帝はまだ乱世の王として、大陸の覇権争いに多忙を極めていた時期だった。

 武力の優れた皇后は、戦乱の世を帝とともに駆け抜けながら子を産み、生まれた子は、居城に残され乳母や女官によって育てられた。


 そのせいか、第一子である皇太子はひ弱なところがあり、詩歌音曲に親しむ文化人に育った。


 皇太子毒殺未遂で将軍一族が処刑されたとき、皇太子は十七歳。

 もともと病弱で、繊細な彼の神経には耐えられなかったのか。その後の十八年を病の床に臥したまま、ろうそくの炎が消えるように他界している。


 第四子を産んだ後から、長いあいだ産後の肥立ちが悪かった皇后は、最後に錯乱したかのように「わ、わたしを許さないのね。あなた、あ、あなたは……」と呟いて皇太子の後を追った。


 その後、迷信深い宮廷人は、非業の死を遂げた暁華シャオホア妃の呪いと噂するものもいた。


 第二皇子の都への帰還が人びとの耳目を集めたのは当然のことだろう。

 その上、彼の振るまいは、あえて注目を浴びようとしているかのように派手だった。


『十日夜の宴』の数日前、噂の第二皇子が都に到着したのだが、馬車ではなく、数名のお供とともに馬で駆けてきたのだ。


 街道を駆け抜ける颯爽とした姿は、深い印象を人びとに与え、多くの人を魅了した。

 その日は、王宮でも街中でも皇子の噂でもちきりになった。

 罪人として処刑されたが、根強い人気のある祖父張栄光チャン・ロンゴンの勇姿を彷彿した者さえいるという。


 そうして、朱威龍シュ・ウェイロンは帝に挨拶したのち、与えられた宮に入った。





 後宮がなんとなく浮き足立っていた『十日夜の宴』の前日。

 思わぬ人物が淑華の部屋にたずねてきた。


「貴妃さま、朱威龍シュ・ウェイロン皇子さまがいらしております」


 侍女の楊楊ヤンヤンの案内に彼女は少しあわてた。『十日夜の宴』を明日に控え忙しいという理由もある。


 これまで『秋の間』から出ることもなく、ゆったり過ごしていた彼女の日常が、宴の差配によって一変した。毎日、尚儀局や尚食局の尚宮から報告を受け、問題がないか点検し、監査しなければならない。


 今朝も目覚めたとき、身体が重く感じたのはそのせいだろう。


「え? 皇子さまがいらしたの」

「さようにございます。お通ししてもよろしいでしょうか」

「それは……」


 淑華は困惑した。どうしようか、断るわけにもいかないと困惑しているうちに、皇子が勝手に入ってきた。


 長い黒髪を前髪だけ白い紐でゆわえた皇子は、淑華の記憶にある美貌の暁華シャオホア妃に、たしかに生き写しだ。

 ゆったりと鷹揚とした態度は帝と似ているところもある。


 彼がかってに執務室に入るのを女官たちが止められないのは、おそらく神々しいまでに輝く彼に見惚れたからにちがいない。


 書斎に入ってきたとき、身につけた白い長袍チャンパオが風を含み、ふわりと揺れた。


 ──なかなかどころか、ものすごい美男子だわ。女官たちが騒ぐのも無理はない。


「貴妃さまに、ご挨拶申し上げます」


 皇子が流刑地とされた場所は、はるかに遠い北の酷寒地。年中、雪が降っているような寒い場所だ。

 だからだろうか。

 雪のように白い肌が透けるようで、肌は傷ひとつない。濡れたように輝く黒髪、整った容貌に濃い眉が男らしく、三白眼気味の目でにらまれれば、落ちない女はいないだろう。


 彼の存在だけで場の空気が華やかになる。


 淑華は動揺し、そして、笑いたくなった。

 

 後宮の宴で身にそぐわない大役をしていることも、朝早く、こうして不意の賓客を受けいれていることも。


「お久しぶりです、貴妃さま」

「久しぶり……、なのでしょうか?」

「お会いしたのは子ども頃です。お忘れでしょうか?」


 ひどく真面目くさって問いかけた彼の顔に笑みが浮かんだ。


「遠い昔ですが、後宮に住んでいた頃のことをよく覚えています。貴妃さまは儚げな美しい少女で、身につけた淡い色の儒君がお似合いでした」

「わたくしを覚えていらっしゃるのですか?」


 自分が馬鹿みたいだと思いながらも、動揺する気持ちを止めることができない。


 皇子は唇を閉じたまま右上に引き上げた。なんとも魅惑的な方法で、それが魅力的に映ると知っている様子で。


 淑華の質問に答えず、ただ、黙って彼女を見つめている。

 その沈黙に、なんとなく居心地の悪さを感じた。


 後宮では、誰もが無駄におしゃべりだと思う。彼女が黙っていても、会話に苦労することはないのが普通だ。


 沈黙は長引き、徐々に落ち着かない気分が増してくる。

 十歳も年下の子に動揺して同じ質問を繰り返すのは滑稽で、少し声が震えた。


「わたくしを覚えていらっしゃるのですか?」


 彼は肯定するように、やわらかくほほ笑んだ。


 それから、興味深そうに周囲を見回し、きゅっと口もとをすぼめた。まるで、友人の家を訪ねてきたかのような緊張感のない自然な態度だった。


 その時、ぽつり、ぽつりと屋根を叩く雨音がした。


 しばらくして、どしゃぶりになった。突然の雨に、女官たちがあわてて回廊に面する戸板をパタンパタンと閉じている。


 屋根を叩く激しい雨音は沈黙をさえぎり、淑華はほっとする一方で、ほっとした自分に屈辱を感じた。


「雨ですね」と、皇子はつぶやいた。

「ええ、雨です」


 それが、今、一番の重要事項のように彼は庭先を眺め、外の様子をうかがった。雨と言ったまま黙っている皇子に、淑華は奇妙に高揚する自分を感じた。




(つづく)

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