そして、純粋で素直な愛を与えることを命じる




 屋根を叩く、どしゃぶりの雨に気を取られたように、皇子は窓から外を眺めている。そんな皇子の姿を、けぶる雨がひどくもろく儚い存在に見せていた。


 ──ああ、そうだった。母上の暁華シャオホア妃も、憂愁に満ちた表情を時に見せることがあった。あの姿に、わたくしは憧れたものだ。


「僕は、ずっと、この場で立っているのでしょうか」


 威龍ウェイロンの言葉で、皇子を失礼にも立たせたままでいることに気づいた。


「どうぞ、そちらの椅子におかけください」

「感謝します」


 威龍ウェイロンの態度は柔らかく自然で、その上、なんとも捉えどころがない。馬に乗って派手に都に登場したわりには、実際の彼は波ひとつ立たない湖面のように深閑としている。


 なんのために訪れたのか詮索しようとしたが、そんなことは、どうでもいいようにも思えた。


 若い女官たちと同じように、彼に魅入られていることに恥ずかしさを感じるが、視線を外せなかった。

 つい、見つめてしまう。

 さらりと背中に流れる黒髪、異国の血でも混じっているような白くきめ細かい肌。

 切れ長の目にほどよい色気があり、かざり気のない衣装は余計にその容貌の美しさを際立たせていた。


「お茶をご用意いたしました」


 楊楊ヤンヤンが気をきかせて茶を運び、威龍が腰をおろした椅子の卓上に茶器を置くと、淹れたての茶をそそいだ。


 楊楊も皇子に釘付けで、淑華がいることも忘れているようだ。

 思わず咳払いをして、淑華はたずねた。


「皇子さま、今日はどういったご用件で来られたのでしょうか」


 威龍は首を軽く傾けたまま卓にある茶器を手に取った。


「こちらは、なんの茶でしょうか」

「西域で取れる茶葉を使用しております」と、楊楊が答えた。

「貴妃さまの故郷の茶ですね。香り高い」

「わたくしの家をご存知なのですか」

「あなたが思っている以上に知っています」


 そう言ってから、威龍は椅子から立ち上がり、そのまま部屋を歩きまわりはじめた。


 楊楊が目配せした。


 ──なにが言いたいの?

 ──こんな魅力的な男、見たことがありません。

 ──楊楊、年甲斐もない。

 ──ご自分の顔を反省してから言ってください。


 ふたりでしかわからない無言の会話を続けているあいだ、威龍は室内の調度品に手で触れたり、撫でたり。それは非公式とはいえ他人と面会している態度ではなかった。


「ここに飾られた大壺は、貴妃さまの好みには合わないように思えますが」

「それは、皇后さまの戦利品のひとつです」

「そうですか。では、これも?」


 彼は部屋の奥に置かれた、執務用の机をさした。

 この書斎は淑華が差配の役目をするにあたって、『秋の間』に隣接した広い部屋を改良したものだ。調度品などは、もともと皇后の執務室にあったものを運んでいる。


「そうです」

「確かに、これもあなたには似合わない。頑丈な作りで使い勝手はよさそうですが」

「わたくしは気に入っています」


 淑華は彼の態度を咎めるかわりに、愛想よく答えた自分に舌打ちしたい気分だった。

 ともかく、これだけは確かだった。

 彼は、かなり年下のはずだが、ひどく大人びている。


「ご自分の好きなものを揃えても、帝は文句を言わないでしょう。欲のない方だ」

「借りをつくりたくありませんし、好きで差配になったわけでもありません」


 威龍は部屋を見ることに余念がなく、ときどき、手を触れては誰のものかとたずね、いつの間にか、ふたりの関係は美術館に訪れた客と館長のような立場になっていた。


「ご用向きをうかがっておりませんが」

「それが必要ですか?」

「わたくしは忙しいのです」

「そうでしたか。先ほどまで寝室にいらしたように思えましたが」


 楊楊がぷっと吹きだした。

 侍女を睨みながら、淑華は威厳を保つよう姿勢を正した。


「普段は寝室で仕事をしています」

「ずいぶんと怠けものなんですね。まさか寝そべりながら、公務をこなされているのですか」

「あなたは、とても失礼よ」と、言ってから弁解するようにつけ加えた。「いえ、そういう意味ではなくて」


 威龍が笑っていた。


「からかってらっしゃるのですね。楽しいのでしょうか?」

「はい、とても楽しい。こんなふうに気楽な会話をする相手はいませんでしたから」


 危険、危険、危険。

 心が警戒するようにと合図を送っていた。どしゃぶりの雨が屋根を叩くように、心臓も叩いている。

 

 威龍はふっと笑みを浮かべ、会話を別の方向へと切り替えた。


「北の大地に流されてから、ずっと多くのことを考えました。母や祖父のこと、父や、そして、……あなたのことも」


 淑華シューホアは人差し指を唇に持っていくと、「しっ」と皇子の言葉をさえぎった。侍女の楊楊ヤンヤンに目配せすると、彼女は他の侍女たちを部屋から下がらせた。


「僕を心配してくださっているのでしょうか」

「後宮であのことを知る人もほとんどいなくなりました。今さら噂を広める必要もないと思います」

「あなたは優しい方なのか、それとも、単に面倒がいやなのか。どちらですか?」


 淑華が後宮で敵も作らずにいるのは、優しいわけではない。面倒だからだ。

 何も返事をしないでいると、皇子は手を胸の前で組み合わせて拱手きょうしゅした。

 どことなく揶揄やゆしているように思える。


「どのみち、僕はこの後宮で厄介者です」

「そんなふうに、ご自身を卑下されるものではないわ」

「いえ、大いに卑下するつもりです。恐れ多くも兄を毒殺して謀叛を謀った一族の最後の生き残りですから」


 皇子の投げやりな言葉はあやうい。あの事件当時、この皇子はまだ七歳だった。

 

「当時は、まだ七歳でしたね」

「その年齢が子どもだと思っているのですか?」

「わたくしから見れば、泣き叫びたい年齢だったと思います。でも、生き延びたのですから」

「それは、僕が皇子で皇家の血を引いているからです。帝の血を流すわけにはいかなかった。それだけの理由で生かされました。そして、自分でも生きたいと思った、二つの理由があります」

「当時から、そうお考えでしたの?」

「七歳で大人になるしかなかったものですから」


 一族すべてを処刑され、わずかな供とともに皇子は雪に閉ざされた北の地に追いやられた。雪と氷に閉ざされた北の大地での日々。


 それが、どれほど心細く寂しいものか、彼女も理解できる。

 だからこそ、安易に「大変でしたね」とは、言えなかった。


 帝の女として見知らぬ国に嫁ぎ、知る者のいない後宮にはいったのは十五歳だった。その心細さは、しかし、北の大地に送られた皇子の比ではないと容易に想像できる。


 この美しい皇子は、その美しさに多くの傷を隠していると思うと、胸が痛かった。

 その傷を癒してやりたい。

 母親が息子に思うような感情を持つことは、悪いことだろうか。


「明日の宴では……、あなたがいてくださると思うと、心強く思います。僕に合図してくださいね。そうしてもらえると、とても嬉しい」

「合図?」

「そうです。たとえば、こうです」


 そう言って、彼は唇に人差し指と中指の二本を立てた。


「それに意味があるのですか?」

「ありません。しかし、そう約束してくだされば、意味が生まれます」


 淑華は吹き出した。


「ほら、物憂い顔しかできないあなたが、そうやって笑うこともできる」

「わたくしの何を知っているというのですか」

「たとえば、あなたの身に着けている儒君を見るだけでも。奥床しいということがわかります。他の妃たちのように、派手な模様でなく、その上、古い」

「使い古しを着ているだけです」

「なぜですか? 帝は派手な装いが好きでしょう。なのに、あなたは薄墨色の淡い儒君に身を包む」


 彼は甘すぎるほど甘い視線で彼女を上から下まで眺めた。彼の美しい顔では、それは暴力に近い。


「まったく」

「そうした生き生きとした表情が、本来のあなたの姿です。でも、普段は薄墨色に隠れ、誰にも注目されたくないようだ」

「そこは、ご期待には添えません」

「あなたは優しい方だったのに」

「いつ、わたくしが優しかったたのでしょう」

「もう覚えていないのですね」


 威龍の目が暗く光っている。その底なしの視線の奥にある何かに、我知らず震えがきた。


「先ほど申し上げた生きるための二つの理由。そのひとつは、あなたに、もう一度お逢いすることでした」


 思いもよらない言葉だった。


 この皇子の心には癒し難い暗い部分があり、おそらく彼自身もそれに気づいていない。きっと彼の心には何かが欠けている。


 それは自分に欠けているものと同じ性質のものなのかもしれない。




(第2章完結:つづく)

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