第3章

私に翻弄されることを望み




 翌朝には雨が止んでいた。

 雨水に洗われた空気は清々しく、宮女がつっかえ棒をして、パタンパタンと開いていく蔀戸しとみどの音や、金木犀キンモクセイの甘やかな香りや……。


 そんなこんなが、なぜか今朝は新鮮で、淑華は人生の幸せについて考えていた。


 全身が幸福感に満たされていく気がして、事実、彼女は幸せだった。そして、これは朝の麗しい空気のせいだろうと結論づけた。

 次の瞬間までは──


 窓の向こう側から、あざと可愛い声が聞こえる。


「帝のご聖徳でしょう? 今朝はすっきりとした青い空が広がっていますもの。良き日に恵まれて、今宵の宴が余計に楽しみになって参りました」


『春の間』から出てきた帝に、紅花ホンファ妃がねばっこい声で甘えている。その声はわざとらしく甲高い。

 他の妃に聞こえることを狙っているのだ。

 丞相の孫娘として甘やかされて育ち、気位も高く、野心家でもある。皇后位が空いた今、妃たちのあいだで静かな戦いが繰り広げられている。


 帝の返事は聞こえなかった。

 おそらく、あの無表情な顔で、何も言わずに去ったのだろう。彼らしいと淑華は思う。


 それは、これまでも繰り返し見てきた光景だった。

 現在、後宮に残る十二人の妃のうち、その半分は寵妃だったことがある。残りの妃は、これから寵妃になるか、それとも永久に顧みられないのか。あるいは、新しい妃が入ってくるのか。


 いずれにしろ、帝の寵愛が期限付きなのは、彼は誰にも情などもっていないからだ。

 帝は気まぐれではないが、どこか冷めている。

 女よりも政務や国に情熱を傾けていた。女は欲望を排泄するためのモノでしかない……。


 つまるところ、彼女の幸せが消えたのは、紅花のわざとらしい声のせいではなかった。

 この嫉妬と野心と、欲望にまみれた後宮を忘れることができたはずなのに、一瞬で現実に戻されたからだ。それは恥ずべきことのように思える。


「恥ずかしいことよね」

「淑華さま」と、楊楊が呼んでいる。

朝餉あさげの準備ができましたけれど。お食事が恥ずかしいのでしょうか」


 それには答えず、淑華は戸口まで歩いて、右手を壁につき身体を支え、外へと視線をうつした。


 回廊の向こう側を帝が堂々とした歩調で歩いている。その背に世界を負いながら、それを苦痛とも思わず、淡々と義務をこなしているのだろう。


 ピィピィピィーーー!


 百舌鳥もずが空高くで声をからして鳴く。


 帝が顔を上げて空を見上げた。

 その先に何か求めるものを探すように立ち止まった。それさえも皮肉のように淑華には思えた。心の奥に炎をたぎらせ、決して立ち止まることない彼は求めるものが明確だ。


 その精悍な横顔から感情が消える。機械人形のように視線を戻すと、断固とした足取りで前へ前へと歩いていく。


 かつて、『春の間』に住んでいた妃のひとりが、そんな帝を引きとどめたくて、強力な媚薬を盛ったことがある。

 それは、帝の身体に毒のような作用があった。妃は見せしめのように斬殺された。

 今の主、紅花ホンファがあの妃のような愚かな真似をしないとは言い切れない。


「どうなさったのですか?」と、楊楊が聞いている。


 すぐ目の先、満開の金木犀の黄色い花の間に、細長い帯のような白い絹が揺らいでいるのに気づいた。


「あれよ」

「取って参ります」


 楊楊ヤンヤンが回廊から降り、白絹を枝から外してきた。


「貴妃さま」


 捧げられた白い絹には、太く美しい文字がしたためられていた。


 ──『宮秋』をご覧になりたいですか?

 

 差出人が書いていないが、男文字だ。第二皇子であることはあきらかだった。文字の下に墨絵による銀杏の絵が描かれている。

 ささっと書き散らした様子に風情もあった。


『宮秋』とは、都で人気の芝居で、辺境の蛮人に嫁いだ姫の悲劇を物語にしたものだ。

 その物語を下地にした楽曲は縦笛により演奏されることが多く、哀愁に満ちた音色は、聴くたびに胸に響き、泣きたい思いを抱かせる。


「大胆なことを」

「どうなさいましたか、貴妃さま」

楊楊ヤンヤン。これを捨て……、いえ、なんでもないわ」


 白絹を胸もとに隠した。


(いったい、わたくしは何をしたいのだろう)


「貴妃さま」

楊楊ヤンヤン、装束を整えてから、万寧宮に参りましょう」

「かしこまりましてございます」


 隠した白い絹が熱を持っている。


『宮秋』をお聞きになりたいですか? その問いが心の棘になる。その理由が自分でも理解できない。

 

 それは、単なる言葉でしかないはずだ。


 普段の淑華は悲劇的な楽曲を聴くことを好まない。

 できれば、音曲くらいは祭りのような派手で明るい曲を聴いていたい。そうでなければ……、その先を続けることがためらわれた。


(愚かしい。十歳も年下の男に、なぜ感情が乱れるの)


 静かな湖面に、石が投じられ、その波紋のように心が揺らいでいる。


「愚かしい」と、今度は声に出して言ってみた。

「どうかなさいましたか?」


 怪訝な顔つきで、楊楊ヤンヤンが問うてくる。


「なんでもないわ。参りましょう。さあ、戦いの場を歩いてきましょう」

「堂々と」

「あなたもね」


 表の宮と内廷をつなぐ位置する場にある『万寧宮』。部屋からは渡り廊下でつながっている。問題はそこに行くまでだ。途中で妃たちの部屋の前を通りすぎなければならない。


 窓や戸口が開いていれば、「ごきげんよう」と軽く会釈しながら歩く。それが淑華には苦痛だ。


 これは彼女の部屋が後宮の最奥にあるからだが、そのことで淑華は常に帝に腹が立っていた。

 かといって表に近い部屋に入れば、多くの雑音が耳に入り、それも煩わしい。


 結局のところ、帝の配慮は正しいのだと認め、さらに小憎たらしいと思う。


「ごきげんよう、貴妃さま」

「いいお天気ね、静麗ジンリー妃さま」


 さわさわと枯葉が舞う渡り廊下を、彼女はゆったりした歩調で先へと進む。肘をささえて歩く楊楊が目で会話する。


 ──その調子です。走らないでください。

 ──もうちょっと早く歩いても。

 ──だめです。


 『万寧宮』に入って、忙しく立ち働く宮女たちをみて、やっと気が抜けた。


 すぐ尚儀局の尚宮が近づいてきて、説明をはじめた。ぼんぼりの位置や宴席の手配に抜かりはないか、淑華は冷静な目で、すべてに目配りする。


 このところ地方では大雨による洪水の被害もあり、王宮の財源も切迫しているという。後宮の宴で莫大な金を浪費すれば、民からも非難があがるだろう。


「できるだけ節約したものに、かといって、来る方々を楽しませる趣向をこらしましょう」

「仰せのとおりに致しました」

「蛍は集まりましたか」

「昨夜、水辺でおりましたものを、捉えております」


 尚儀局の尚宮は、その辺りの機微はよくわかっている。彼女は曲がったことのできない生真面目さがあり、その性格のために女官たちの管理は行き届いていた。


「滞りないようですね。礼を申します」

「貴妃さまのご指示で、わたくし共も働きやすうございます」


 宴の全体を俯瞰ふかんしながら、彼女とともに確認した。

 宴のために万寧宮は三方の戸板を外し、夜には蛍が飛ぶ中庭の池が鑑賞できるように、食事用の台を並べただけの質素な宴ではあるが、淑華のセンスが光っていた。


「では、宵の刻に」

「お待ち申しております」


 すべてを確認してから淑華はいったん部屋に戻った。

 




 薄暗くなりはじめて、淑華は再び万寧宮に向かった。


「貴妃さま」

「尚宮、では、はじめましょう」


 尚宮が右手を挙げて合図すると、宴のはじまりを告げる太鼓が鳴った。それを合図に、華やかな装いを凝らした妃たちが、しずしずと歩いてくる。

 

 夜の仄暗い灯火のなかで、色さまざまに咲き誇る妃たちの姿は、それだけで夢幻の美があった。たったひとりの男のために、けんを競うように。

 妃たちは装い、一夜の幻想を与えるために咲き誇る。


 鼓の音が響き。

 琴の音が波打つ。


 しずしずと、しずしずと。


 宴を見守りながら、それが成功することを心から願い、同じ心のどこかで失敗することをも願う。淑華は自分の心がわからない。


 この無為の刻限のために、ただ装うだけの女たちを眺めながら、むごいことだと思う。


 一粒の涙が、ほほを流れていく。


 今宵は満月。

 その月明かりの影で闇がひそかに息づいている。たとえば、欄干のしたから淑華の姿を眺める第二皇子威龍ウェイロンのように。




(つづく)

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