決して裏切らないと嘘をつき





 池に設えた滝から、かすかな瀬音が聞こえる。

 虫の声に混じるせせらぎの音は風情があり、淑華の指示で池に浮かべられた灯籠が、さらに趣きを加えていた。


 淑華は欄干の下に降りて全体を眺めながら、尚儀局の尚宮と話していた。


 妃たちも個々に集まり、あとは帝を待つばかりという段階になって……。

 びくっとするほど、甲高い声が空気を切り裂いた。


 声の主が誰なのか、それは、すぐに知れた。キンキンと耳を突き刺す声の主は紅花ホンファだ。

 帝のまえで見せる甘ったるい声が、別の場所では、これほど耳障りになることに、淑華は、ある意味、感心した。


「なぜ、あたくしの席がここなのっ!」

「それは後宮の決まりにございます。紅花ホンファ徳妃さま」

「あたくしは帝の隣席じゃなければならないのよ」

「そ、それは……」と、女官が無駄にあらがった。


 紅花ホンファの決められた場所は、玉風ユーフォン賢妃の隣で、帝からひとつ離れていることに怒っているのだろう。


 彼女は若く、美しく、向こうみずな性格で、自分が常に世界の中心であるべきだと考え、それに恥じることはない。

 朝廷で力をもつ丞相の孫娘だから尚更だ。


 こうした未熟な女によくあるように、他人への思いやりに欠ける。

 同性には嫌われるが、男には得てしてかわいく映ることがある。小悪魔の性悪とは、こういう女のことだろう。さらに悪いことに、紅花ホンファは自分の魅力を本能的に理解している。


 愚かさゆえに、甘やかされ、甘やかされるが故に高慢。

 淑華は長い後宮生活のなかで、こうした属性の女たちを何人も見てきた。今も残る者もいれば、消えた者もいる。その境界線は案外と低い。


 彼女たちは、自分が境界線に立って綱渡りしていることを自覚できていない。


紅花ホンファさま。席次は規則で決まっております」と、勇敢にも尚儀局の女官はあらがっている。

「誰が決めたの、そんなこと」

「それは、後宮律に定められております」


 後宮に入って半年の紅花ホンファは寵妃で、徳妃の身分を与えられたにしても、地位的には三番目の妃でしかない。


 上座にすわる帝を中心に、皇后不在の今は四夫人が身分順に並ぶのがしきたりだ。帝から見て左の席は最上位の淑華であり、右側が玉風ユーフォン賢妃の席になる。


 その他の妃も身分によって席順は決まっている。今の後宮には正二品の身分である九嬪が三人。正四品の婕妤は三人、正五品の才人が二人いる。


 九賓以下の妃はみな若く十代から二十代の妃ばかりだった。


 座席の中央に腰をおろした玉風ユーフォン賢妃は今年で五十六歳。帝より八歳年上の妃で、帝の母后の側近だった。最初の女であり乳母でもあった。

 亡き皇后とは犬猿の仲だったという噂もある。


 十九歳で徳妃として召し抱えられた紅花ホンファからすれば、祖母ほどの年齢差がある玉風ユーフォンが、ぎろりと紅花ホンファをにらんだ。


「それを、わたしめに言っているのですか? 紅花ホンファ


 紅花は負けん気が強い。

 思わず唇を噛んだが、その顔はかわいらしいだけに、意地悪くも見える。一方、玉風ユーフォンは、はっきりした物言いをする手強い女で、歯向かう者には容赦ない。


 はっとした紅花は攻撃をやめ、別の手管を使いはじめた。下目遣いに玉風を見上げ、甘えるような声をあげた。


「いえ、ちがいますわ、玉風姐さま。あたくしの席が帝から遠いことが、悲しくて」

「それが」と、玉風はにべもない。


 このままでは劣勢になると気づいたのか、紅花は欄干下で宴の差配をしている淑華に狙いを定めた。


「ねえ、淑華さま。お聞きになって? わたくしたち、困っておりますの。でも、この宴を監督なさるのは淑華さまですから、当然、わたくしの席は帝の左でよろしいわよね」

「それは、あの」と、女官があらがった。


 尚儀局の女官が助けを求めて、淑華を見ている。紅花といえば、制止するまえに玉風の前を横切り、淑華の席に腰をおろした。


「こ、困ります。紅花ホンファさま」

「なにが困るの?」


 おずおずと抗議する女官を制して、聞こえよがしに淑華に視線を送った。


 その場にいる誰もが、紅花ホンファと淑華を交互に見た。ある者は意地悪く、ある者は怯え、ある者は楽しみながら。


 紅花はあきらかに淑華を侮っている。

 淑華はといえば、その場にいる全員の思惑が手にとるように、はっきりと意識できた。


 後宮を牛耳るためには、強さも必要であり、それを期待されもする。

 負け犬が尊ばれることはない。


 まったく……。

 淑華は、その瞬間、無理やり舞台にのせられた三文役者のように自分を感じた。


 年上の貴妃として、断固たる強い態度に出るべきなのか、あるいは大人の寛容さを示すべきなのか。その場合、負け犬としてではなく尊厳をもって。


 弱ければ侮られる。高慢な態度では反発されるだろう。衆目の場で、幼い妃と同じ立場でやり合うなど、考えただけでも頭痛がする。


 だから、こんな役目はいやだと、帝に再三、抗議したはずだ。


 なぜ、帝は彼女を放っておいてくれないのだろうか。わざわざ引きずりだし、責任のある立場を押し付けるから、愚かな駆け引きをしなくてはならない。


「助けて欲しいですか?」

 

 背後の闇から深く心地よい男の声がした。


「え?」

「助けて欲しいか、と聞いたんです」


 首筋にかかる息吹を感じた。振り返らなくても、その相手が誰なのかわかった。わかったことが少し恐ろしかった。


 かすかに沈香じんこうの香りがする。

 沈香は高価だが、それほど特別な香りではない。しかし、彼が身につけると、甘さと苦みに独特の香りが加わる。彼の体臭に混じることで、より洗練されるのだろうか。

 朱威龍シュ・ウェイロン

 彼が近くにいるというだけで心臓の鼓動が高まった。その理由が紅花より恐ろしい。


「助けられるの?」

「みくびらないでください」


 彼は暗闇から、すっと灯籠の横に姿をあらわした。

 その瞬間、場にいる全員の視線が花蜜に吸い寄せられる虫のように彼に集まった。


「どうです?」と、彼はいたずらっ子のように囁いた。

「任せてくださいますね」

「いいわ、任せる。適当に切り上げて」

「僕に例の合図を送ってくだされば」


 淑華は、しぶしぶ唇に人差し指と中指の二本を立てた。


 威龍はやわらかくほほ笑み、それから振り返ると、淑華に見せていた表情がすぅっと消えた。

 その顔はどこか虚無が漂い、それが嫌になるほど彼に似合っている。堂々とした足取りで回廊の階段を登り、室内の中心へと進んでいく。


 席次しか頭になかった紅花ホンファも、言葉を忘れたように呆然としていた。次に紅花のなかで、なにか大きな変化が起きたのだろう。野生動物が獲物を狙うような表情を浮かべた。

 つまり、目を見開き、ごくりと唾をのみ、無意識に髪に手を触れた。


「遅くなったようですね。朱威龍シュ・ウェイロンです」


 すずやかな声が響かせながら、万寧宮の内部に足を踏み入れた皇子。煌々と輝く灯りに、彼の美しい顔が浮かびあがる。


 若い妃たちは第二皇子の姿を見るのははじめてだろう。


 帝が来ていない宴の怠い空気が一変した。


 先ほどまでの小競り合いなど、すでに遠くかき消えてしまった。

 獲物を狙う猛獣のような目をした女たちのなかで、威龍ウェイロンは腹立たしいほど落ち着き払って進んでいく。


 すらりと伸びた均整の取れた体に、あざやかな薄黄緑色の長袍ちゃんぱおを身につけ、優雅に足をすすめる。

 一歩、一歩、歩くたびに長袍の裾がゆれる。


 彼は四人の皇子のなかで、もっとも帝の面影を色濃く残していると、淑華ははじめて気づいた。帝と同様に容姿端麗だが、少し線が細く、それゆえに美しく整っている。


 空気が熱を帯びた。

 池に白く薄いもやがたつ。その靄が池から漂い、皇子を包み、なにか人でない者のようにも見える。


『美しい』ものに危険があるのならと、淑華は思った。彼の姿こそ、まさに、その危険をはらんでいる。


「その規律によれば、僕の席はどこですか?」


 気さくな態度で彼が紅花ホンファに聞いた。


「もちろん、帝の隣ですわ」


 紅花がほほ笑んだ。彼女の耳たぶが赤く染まっているのは、寒いためでも、暑いためでもないだろう。


「淑華妃さま、あなたの席は、どちらですか?」


 美しい切長の目を流して、威龍が振り返ると聞いた。


「わたくしは、いろいろ手配がありますから、末席で」

「では、僕もそうしよう」


 誰かが抗議するまえに、彼はつかつかと末席に向かい腰を下ろした。

 身分をあらわす佩玉はいぎょくの房が、腰のあたりで揺れている。そのすべてが典雅だった。


 帝の隣席は空いた。


 しかし、その場所がもう最上席ではなく末席に見えたのは、威龍が避けたからで、その場にいたもの全員が彼の隣席にすわりたいと欲望していることが、あからさまだったからだ。


 


(つづく)

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