傷つけられることを求める
世の中には、存在だけで人を惹きつける人間がいるようだ……、淑華はホッとしたが、なぜか苛立ちも感じた。
「貴妃さま」と、尚儀局の尚宮が耳もとで注意をうながした。
「帝が来られます」
渡り廊下の先から侍従たちを引き連れ、帝が進んでくる。これで宴をはじめられる。いざこざをあえて帝の前で蒸し返したいと思う者はいないだろう。
後宮に住む者、別の言い方をすれば、この場から生涯離れられない者たちは、ある境界線から踏み出さないことが暗黙のルールだ。
「これで席問題は終わりになりそうね。わたくしは末席にすわります」
「では、僕は、その隣りで良さそうだ」
「皇子さま」
帝が近づいており、彼の存在を忘れていた。
「さりげなく、お救いしたのに感謝の言葉もない」
彼の言葉を途中で掻き消し、内侍長が、「叩頭せよ」と命じる声がする。
その場にいる全員が床に額をつけた。その間を帝は、なにくわぬ顔で進んでいく。
北側の壁を背にした主席に帝がすわると、その左右の席を
淑華は東側の末席に腰をおろす。
二十年の間、彼女はこの狭い後宮で生きてきた。かつては、ここが牢獄のように思えたものだ。
しかし、何事も過ぎ去れば過去になる。
今は幸も不幸もない……、生きていればいい。それが時に、窒息しそうなほど苦しいとしても、生きているだけでいいと思うようになった。
帝が末席にすわる淑華を見た。彼の視線は、そのまま隣りの威龍に移り、何事もなかったかのように、ただ、「はじめよ」と告げた。
帝によって、御酒が振舞われ、わざとらしい
「優しげな外見とは異なり、あなたは、なかなかの策略家ですね」と、威龍が囁く。
「なんのことでしょうか?」
「そもそも帝の隣席など、どうでも良いことのように見えました」
「どうでもいいことじゃ、ないのですか?」
「この後宮で、そう言い切るとは、恐れを知らない方ですね」
「では、喧嘩すべきでした」
威龍は口もとに笑みを浮かべると、手酌で酒をついだ。
「貴妃さまに、一献、捧げます」
淑華はそれを無視して、手をあげ、尚宮に合図した。室内の灯火が宮女たちによって消された。明かりといえば、池に浮かぶ灯籠だけになる。
太鼓を一定のリズムで叩く音がした。
トントントントン……。
これこそ尚儀局とともに練った淑華の演出である。
太鼓の音だけを頼りに、白い仮面と薄く透ける白い衣装を身につけた妓女たちが、手に灯火を持ち宴の中央に入ってきた。
トントントントン……。
カクカクと不自然に全身を曲げ、奇妙な動きで妓女たちが舞う。
それは、舞というよりも、何かの儀式のようであった。
手にもつ灯りで、女たちの身体の線が透ける。
天女のようにも、悪霊のようにも見える舞姿は、今、都でもっとも流行している幻想的な『
「どうか、わたくしのことより舞を楽しんでください。北の大地では、なかなかご覧になれなかったでしょう」
「あなたの……」
そう言って、威龍は言葉をきった。
彼はそんなふうに思わせぶりな沈黙が多い。
トントントントン……。
単調に太鼓は音を刻む。妓女が舞う。
「僕が都から去った頃とは、まったく変わられてしまったようだ」
「覚えてらっしゃるの? 七歳でしたね」
「七歳だったことを覚えていたのですね」
淑華は返事をしなかった。
顔をあげると、帝と目があった。その目は灯火の炎に揺らぎながら、まっすぐに淑華を見つめている。
トントントントン……。
リズムを刻むだけの太鼓に
弦を打ち鳴らして響かせる琵琶奏者は、単調な太鼓に反発するように、大袈裟に掻き鳴らす。
クライマックスを迎え、音が激しくなるにつれ、妓女たちは震えるように小刻みに身体を動かす。
プツンと、音曲が止まった。
妓女たちが、その場に固まる。
暗転。
いつの間にか、池に浮かんでいた灯籠の灯りが消えており、妓女が手に持つ灯りを吹き消した。月明かりの下でも、室内は暗い。
琴の美しい音色が奏でられた。
ひとつ、ふたつ、みっつ……
ボタン雪のような光が空中に浮かび、それは多くの光となって広がっていく。中庭に放たれた蛍が宙を舞った。
職人が育てたホタルが夜空を照らす。
「ほおお」
幻想的な美に誰もが感嘆の声をもらした。
多くの蛍が舞う淡水の池に、淑華の思惑通りに人びとが目を奪われたとき、指がそっと、彼女の素肌に触れた。
淑華は驚いて息を止めたが、冷静に表情にはださず、振り返りもしなかった。
隣にすわる威龍は、彼女など眼中にないかのように池を眺めている。しかし、その指は、偶然を装って彼女の指先に軽く触れた。確かめるように、許しを求めるように。
彼の手だけが別の生き物のように、暗闇に紛れて指から手の甲へと移動して、手首を撫で、そのまま二の腕に触れる。
肌がカッと熱くなる。
振り払うべきだと思ったが、周囲に知られたくもなかった。
ため息とともに蛍に夢中になった妃たちの声が聞こえる。
「美しいですわ」
「なんて綺麗なんでしょうか」
池上に舞う蛍に感嘆する人びとのなかで、淑華だけが別の熱を感じていた。
「ばかな真似はやめなさい、皇子さま」と、彼女は唇を動かさず、振り返りもせずに囁いた。
「あなたは、本当にあの淑華さまでしょうか」
「あの、とは?」
蛍の光は弱く、彼の表情はわからない。
微妙な瞬間が過ぎ、長過ぎも短過ぎもせずに、すっと指が離れた。淑華が振り返ると、威龍は盃をもち、それを唇につけるところだった。
(つづく)
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