私から、すべてを奪いさろうとして




 夜は更け、蛍を鑑賞しながら、ほろ酔い加減になった妃たちは、しどけなく乱れていく。


 夜の世界、安易な女たち……、笑い、媚びを売り、やっかみ、帝の寵愛を奪おうと狙う妃たちの攻防、寵愛を奪われまいと高慢にふるまうもの、無視されてなげくもの。

 あたかも、ここだけが世界の中心であるかのように、狭い世界で女たちは妍を競いあう。


 ここにいる若い妃たちにとって、帝の隣にいることが許されるのは誰であるか。それが重要であって。

棣林ディリン」と彼の名前を呼び捨てにし、ひときわ甘い声をあげる女が誰かということだった。


 ふいに、この馴染みのある世界が淑華は幻想に思え、なにもかも夢うつつのように彼女を孤立させた。


 威龍ウェイロンが淑華の背を指で軽く叩く。明らかに親しげな様子を、淑華はいつの間にか当然のように受け入れている。

 この共犯者のような関係すべては酒の言い訳にちょうど良いと、淑華は自分に弁解するように目の前の盃をいっきに飲み干した。


「これは……、後宮の現状がよく理解できます。ところで、あなたはこのような末席で他人事のように、あれを眺めるだけでいいのですか?」

「あれ、とは、なんのことでしょうか」

「それを聞かれるとは面白い。帝争奪戦に加わらないのですね」と、彼は笑った。

「わたくしに、帝の近くで酌をしてこいと」

「いえ、行かないでください」

「急に行きたくなってきました」

「まったく、本当に、酷い人だ」


 蛍の演出が終えたあと、行燈に再び火が入った。

 ひときわ灯火が多く明るい正面席に紅花ホンファと帝がすわり、そして、静麗ジンリー妃が帝の前に進み出て酌をしている。


 紅花ホンファが後宮に上がる前は、帝の寵愛を受けていたのが九嬪の地位にある静麗ジンリーだった。


 帝は表の政務で名君の誉れも高く、誠実に仕事をこなし、労苦を惜しまない男だ。しかし、後宮での彼はその憂さを晴らすかのように気まぐれだった。


 大陸を統一したばかりの頃は、帝の地位が盤石とは言えなかった。

 しかし、帝が朝廷の権力を確固たるものにすると、逆に後宮の妃たちの地位は不安定になった。

 妃の後ろ盾になる者に帝が忖度する必要がなくなったからだ。


 尚書の末娘である静麗ジンリーは十八歳で後宮にあがった。紅花より三年早く後宮にあがり、寵愛を得たのは二十歳のころ。細く切長の目が特徴の洗練された美人だ。

 紅花ホンファが後宮にあがったのは、彼女に遅れること三年。皇后を失う少し前だった。


 入内すると、すぐに紅花ホンファは帝の寵妃になった。

 彼女は二重の大きく潤んだ目が特徴の派手な美人で、紅花に比べれば、静麗は地味に見える。


 紅花は丞相の孫娘であり、静麗は尚書の末娘、後ろ盾の身分でも負けていた。


 そんな静麗ジンリーが焦っているのは、誰の目にも明らかだ。


 この宴で再び帝の寵愛を取り戻そうと、彼女は薄物の儒君で身を包み、こぼれそうな豊満な乳房を見せびらかすように、帝の前でしなを作っている。

「帝……」と、斜め横から甘えた声で酒を注ぐ。


 乳首が見えそうなほどはだけた衣装で帝の視線を釘付けにする、しどけない姿。

 それが、どこか痛々しく感じて淑華は目をそらした。その先に紅花がいた。


 紅花はわがままを言うことなく、帝にすがる静麗ジンリーに怒るでもなく、押しのけるのでもない。そして、時を見計らったように、すぅっと、その場で立ち上がった。


 そのまま席を立つと、ゆったりとした足取りで宴の中央を横切り末席まで歩いていく。彼女の真紅の衣装が、ひらひらとあざやかな色彩を放ち、歩くたびに香の匂いを撒き散らす。


 いつのまにか素足になっており、細い足首には鈴をつけていた。それがシャンシャンとすずやかな音を立てる。


 気の強い紅花が、静麗ジンリーと帝を残して遠ざかっていく。

 帝にしなだれかかっていた静麗は、強敵が去って、さらに身体をゆらして誘惑していた。


 紅花は芝居がかった態度で下座まで来ると、ひらりと帝を振り返る。その堂々とした身のこなしに、誰もが視線を奪われた。


 万寧宮は三方向の戸板を外して、外部に開かれている。

 帝のすわる上席だけは背後が壁になっており、外へは開かれていない。下座の回廊から階段を降りた場所には、楽団が敷物の上で音曲を奏でていた。


「止めて」と、紅花が楽団に合図した。


 音楽が止んだ。静かになった庭園で焚き火のパチパチという音が耳に心地よい。


 焚き火を背景に、紅花ホンファは右手にもった扇を音を立てて開き、顔を隠した。

 

 それが合図なのだろうか、艶っぽい笛の音色が聞こえた。


 音色に合わせ、紅花ホンファの白い生足がゆっくりゆっくりと儒君をわってあらわれる。と、その足が消える。

 シャンシャンと足の動きに合わせて、鈴が鳴る。

 赤い表地に隠した色とりどりの儒君の下衣が、ふわりと翻った。


 すくっと立つ姿勢は女の淑華から見ても、はっとするほど魅力に溢れて麗しい。

 笛の音に、琴の旋律が加わる。ボーンボーンという低音が官能的に刻まれる。琵琶が重なる。


 紅花は顔を隠した扇を、そっと斜めに傾け、誘惑するように顔半分を見せた。焦らすように、誘うように。真紅の唇に不敵な笑みを浮かべ。


 琴が主旋律をたどり、笛が寄り添う。

 紅花は全身で音を奏でていく。身体がふわりと宙を舞い、四肢を曲げ、しなやかに身体をそらせる。

 まるで宙に浮いたかのような、たおやかな若い体躯。


 舞い、舞い、舞い、骨がないような柔軟な身体は、誘うように、扇情的に、官能的に、舞い踊る。


 帝との夜の床で、彼女がどんな姿態を晒すのか想像できて、淑華は思わず顔が赤らむのを感じた。


「これは」と、威龍ウェイロンが淑華の肩を人差し指で叩いた。

「なかなか、見ものですね」


 彼は、まるで興味なさそうな様子で褒め、淑華は吹き出しそうになって顔を伏せた。


「笑っているのですね。こんな場所で、あなたは静かに笑うだけですか?」

「わたくしも踊るべきでしょうか」

「いいえ、あのような舞は似合わない。ただ、あなたが寂しそうに見えましたから」

「年上の女を、そんなふうに揶揄やゆしてはいけないわ」


 紅花ホンファは人びとの目を奪い、妖艶に舞い狂う。


「あなたは……、あなたが帝に嫉妬しているようには見えません。そんな姿は見たくもないですが」

「どうしてそんなことをおっしゃるのでしょう。わたくしのことを知りもせずに」

「それは、僕が嫉妬するからです」


 音楽が最高潮に達し、紅花は舞いながら帝に近づく。帝は手にもった杯を口もとで止め、彼女に魅入っていた。

 

 すっと紅花ホンファは帝に近づき、腰をしなやかに曲げ、帝の手にある杯に真っ赤な唇をつける。

 帝が乱暴に彼女の口に酒を流し込んだ。

 ツゥーっと、唇からこぼれた酒の雫。それを、帝が手でぬぐい取る。


 紅花の赤い唇が笑みをうかべた。


 となりにいた静麗ジンリーは真っ赤に顔を染めたが、それは彼女だけではないだろう。

 あからさまな挑発に平静を装いながら、心穏やかではない妃も多いにちがいない。


 紅花ホンファは単なるわがまま娘ではないようだ。再び帝から離れ、白く美しい足を晒して、妖艶に舞う。


 息詰まるような空気のなかで、紅花がその場を完璧に支配した。扇を下げ、赤い唇を隠して目だけで男を誘う。


 威龍が大胆に耳もとでささやいた。


「帝に僕は嫉妬しています」


 華やかな妃たちの舞いや音楽、彼は、こうした雰囲気に酔って若者らしく大胆になったのだろうか。


「飲み過ぎたのね」

「いいえ、酔っているわけではありません。失礼なことを申し上げたのなら、謝ります」


 威龍は捨てられた子犬のような目をして彼女を見つめた。

 これは……。

 悪くないわと思う。

 淑華の心に残酷な感情が滲んだ。それが帝に対するものか、威龍なのか、あるいは自分自身に対するものかわからず、闇に隠れて彼を見つめ返した。


 笛の音が、ひときわ高音を奏でる。

 紅花の舞いがクライマックスを迎えようとしていた。彼女は、くるくると回転すると、そのまま南側の回廊までさがった。

 音楽が止む。

 紅花は池を背に膝を折る。そして、優雅に跪拝きはいした。


 一瞬の間があってから。


「よい舞であった」と、帝が褒めた。


 彼は几帳に寄りかかった姿で、ほろ酔い加減のようだ。乱れた襟もとから引き締まった胸が見え、ぞくっとするほど大人の自堕落な色気が溢れだしている。


「恐れ入ります」


 紅花は、ちらりと淑華と威龍ウェイロンをにらんで、自分の席に戻った。


「褒美を取らそう。何が欲しい」

「ご褒美ですか?」

「ああ、欲しいものを与えてやろう」

「本当に?」と、彼女は官能的に視線を流して、ほほ笑んだ。


 彼女は閉じた扇を、再びゆらりとあげた。その扇の先は、妃たちの顔を順番に示しながら移動して止まった。

 それは、まっすぐに威龍ウェイロンを示していた。


「では、棣林ディリンさま。かの者の生首をお与えください」




(つづく)



*****************


 いつもお読みくださって、本当にありがとうございます。明日は午後12時頃に続きを公開いたします。


 お星さま、応援コメント、レビュー。本当に嬉しいです。

 書く励みとなっております。ありがとうございます。

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