愛と誤解することを罰する




 誰もが、その言葉にぎょっとして、紅花ホンファから威龍へと視線を泳がせた。

 

「かの者の生首を」と、紅花は息を切らしていた。


 激しい舞の後、興奮した彼女の声が緩やかな宴を、いっきに重苦しい雰囲気に変えた。


 全身を汗で濡らし、満足気に紅花は赤い唇に薄く笑みを浮かべる。

 この危うさを彼女は何もわかっていないのだ。それは威龍ウェイロンも同じだろう。

 奇妙な興奮に包まれた空間で、淑華はいやになるほど冷静な自分に、心が冷えた。


 紅花の扇が示した先にすわる威龍。

 彼の傷ひとつない色白の肌に紅がさし、耳が赤く染まる。その姿はどこか儚げであり、おそらく誰もが守ってやりたいと思ったかもしれない。


 しかし、誰も言葉を発することができず、冗談にする貴重な数秒を無駄に失っていく。


 いったいなぜ、どんな意図があって、このような愚かな要求をしたのだろうか。

 一瞬、これは帝の指示か。それとも紅花の父である丞相の陰謀なのかと淑華は疑った。


 舞踏で息を切らし、汗をぬぐいもせず、紅花は熱に浮かれたような顔をしている。


 彼女は手で隠そうとしたが、まにあわずに漏れた薄笑いを淑華は見過ごさなかった。

 これは紅花のタチのわるい気まぐれ以外の何ものでもない。


 やはり彼女は何もわかっていないのだ。


 紅花は容姿に優れ、舞いや詩句などの才能にも恵まれ、丞相の家に生まれるという幸運も重なった。


 生まれがいいとか悪いとか、運がいいとか悪いとか。そう考えたとき、紅花ホンファは前者になり、威龍は後者であり、その男をいじめて楽しんでいる。もっと言えば、紅花に関心を持たないことに罰を与えたのだろう。


 だから、とっさに淑華が扇の先へと身体を乗り出したのは、この茶番劇を早く終わらせたいという意図でしかなかった。


「徳妃」と、かけた声が自分の考えていた以上に強かった。

「わたくしの生首などを、ご所望なのでしょうか」


 状況がのみこめず、紅花はうろたえた表情を浮かべた。


「あ、あなたの」

「この場の妃で地位がもっとも高いものといえば、貴妃であるわたくししかおりませんもの。わたくしの地位をお望みなのではありませんか?」

「いえ……」


 普段なら当意即妙な答えができる紅花であるからこそ、淑華は性急に声をかぶせた。


「ずいぶんと野心家ですね。でも、このような形で首を差し上げたくはございません。わたくし、死ぬときは突然であってほしいのです。自分の死を感じることもなく消え去りたいものだと思っております。予告されては、わたくしのささやかな願いがかないません」


 皇后亡きあと、後宮でもっとも身分が高いのは淑華で、その下には五十一歳になる玉風ユーフォンがいる。


 玉風ユーフォンは帝が少年だったころ、夜の手ほどきをした女性で、母后の側近でもあった。もともと高貴な家柄であり、帝のはからいで賢妃の地位を与えられ、余生を後宮の離れ屋で静かにおくっている。


 というわけで、徳妃である紅花の地位は後宮内で三番目だが、実質では二番目だ。


「貴妃さま。わたくしは」

「生首とは、そういう意味でしょう? 素晴らしい舞いの褒美に、わたくしめの地位と交換なさりたいのね」


 紅花は若い。若すぎる上に甘やかされて育ち、常に自分が中心でなければ苛立ち、神経をとがらせる。


「貴妃さま、あの、わたくしの扇の先を誤解なさったの? ちがいますでしょう。ほら、よくご覧になって」

「紅花さま。わたくしは年寄り扱いなさるのでしょうか、目はまだ悪くございません」

「年寄りだなんて。貴妃さまは、とてもお若くみえます」


『若く見える』と『若い』は似ているようで、その意味は天地ほどのちがいがある。その上、『まだ』と付け加えるなど、淑華は、その悪意に笑うしかなかった。


 この場の誰も紅花が扇で示した相手が淑華とは思っていないだろう。その先に皇子がいたことに、みな戸惑っているのだ。


 だからこそ、穏便に終わらせようとした淑華の芝居に、他の妃たちは、ほっとしたことも確かだ。

 もし、紅花が大人ならば、ここでやめるべきだった。


「だって貴妃さま、そのような誤解。わたくしが示しているのは」

「ですから、わたくしがお嫌いなの?」


 淑華はほほ笑みながら辛辣な言葉を口にする。言外に場を乱すなという警告を含めたが彼女は興奮で気づかない。

 

「もうよい。いい加減にしておけ、紅花。そなたは時に度を越すようだ」


 それまで言葉を挟まなかった帝が退屈そうに声をあげた。


 はあ……、と、心のなかで淑華は大きくため息をついた。

 これ以上、放っておいたら帝と戦うつもりでもあった。


 ──やっと、口を出したわね、まったく相変わらず、変わりもせず、いつものあなたね。


 帝は内心では、この状況を面白がっているにちがいない。彼には、そういった悪癖があるからこそ、ここまで様子を見ていた。


「まあ、棣林ディリン。わたくしが悪いのですか?」

「そうだ。そなたが悪い」

「いじわるだわ。わたくしよりも、長年つれそった貴妃さまが大事なんでしょう?」


 寝そべっていた帝は身体をおこした。戦乱の時代、彼は鬼神とも戦神とも呼ばれた。その研ぎ澄まされた顔が表情にあらわれたと思った瞬間──。


 バシンという大きな音がした。

 帝が紅花の頬を叩いたのだが、あまりの音に、それがなにかわからず、みな唖然とした。

 紅花は驚き、泣くことも忘れたようだ。


 凍りついた全員がその場に叩頭した。

 状況を読めない紅花だけを残して。

 彼女は不本意だったろう、その場にすとんと腰を落とした。


「夜もふけた。今日は大義であった。これで宴は終わりだ」

棣林ディリン。では、お部屋に参りますわ」と、頬を叩かれ、正気を失ったように青ざめた紅花は、それでも帝にすがった。


 淑華が宴の終わりを告げるため、右手で合図すると、太鼓がドンドンと鳴った。

 宴の終わりの合図だ。

 全員がすかさず立ち上がった。


『十日夜の宴』は終わり、万寧宮から、それぞれの部屋へと妃や侍女たちは去っていく。

 それぞれの思いを抱きながら、妃たちが歩くにつれ衣擦れの音がつづく。


「紅花、泣くな。たいしたことでもないであろう」と、すでに普段通りになった帝の声が遠くから聞こえた。





 宴の後、女官たちによって、片付けがはじまる。

 最後まで残って、その様子を淑華は監督していた。


 雪洞ぼんぼりが月明かりに白く照らされ、回廊の下では、もの想いに耽る威龍の姿があった……。




(つづく)


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