愛されることを欲し




 宮女たちによって万寧宮の戸板がパタンパタンと閉じられていく。後片付けを終えると、灯籠の火も消された。

 夜も深まり、暗がりに慣れた目には玲瓏とした月明かりが美しい。


 騒がしかった宴のあとには、もの悲しさがよく似合う。淑華はこの宴の後という雰囲気が好もしいと思った。


 かるく酔った身体、その気怠さに溺れる心地よさ。


 諍いはあったが、無事に宴を終えた高揚感もある。

 この数日の忙しさから解放され、疲れ果てているはずなのに、頭が異様に醒めていた。

 月明かりに照らされた庭を眺めながら、理由もない感情の昂りにほろりとした。すべてが夢や幻想の世界であって、これは現実ではないという思い。


 欄干に寄りかかっていると、楊楊ヤンヤンが声をかけてきた。


「淑華さま、すべての片付けは終わっております。そろそろお部屋に戻りませんと、お疲れでしょう」

「感傷的になる暇もないようね」

「お戻りにならないのですか?」

「ええ、いい夜だから。少しだけ夜風にあたって火照りを覚ましたいの。楊楊ヤンヤン、あなたも疲れたでしょう、さきに戻って休みなさい」


 楊楊ヤンヤンは両手を軽く胸の前にあわせると、何も言わず、拱手きょうしゅした。そのまま、渡り廊下を過ぎて部屋に戻っていく。


 以前も、こうして月明かりを眺めていたことがある。

 遠い遠い昔、十六歳になったばかりころだった。


 皇后も存命中だった頃で、淑華は宴のあと、今宵と同じように楊楊ヤンヤンを先に返した。


 遠い過去の、あの秋の夜。

 宴が終わったあとで、欄干にもたれ月を眺めていた。


 遠くなった故郷に思いをはせ、両親や兄弟を思い浮かべると、この豪華な宮殿が冷たい牢獄のように思えたものだ。

 寂しかった。

 涙が溢れそうになったとき、暗闇の向こうから何かがやってきた。


 それが何なのか、誰なのかはわからなかった。妃や女官でないことはわかる。

 渡り殿の板を踏む力強い足音は自信にあふれていたからだ。


 こんな歩き方をする者は、この後宮にひとりしかいない。女官や侍従たちは、音のないすり足で歩く。


 とっさに身を隠そうとしたが、そんな抵抗は無駄なことだとあきらめた。

 大柄な帝の姿が廊下の端に見えたとき、淑華は、なぜか運命を感じた。


 それまで帝が彼女の部屋に訪れることはなかった。

 淑華が若すぎると思ったのか、それとも、まったく女として関心がなかったのか。淑華は男女の夜の営みについて、漠然とした知識しかもたず、恐れもあり、帝が部屋に来ないことを、むしろ喜んでいた。


「ここで、なにをしておる」

「宴の熱を覚ましておりました」


 月明かりの下で見る帝は、常より優しく思えた。


「夜は冷える。さあ、おいで」


 差し出しされた手を取りたくはなかった。この先に待つだろうはずかしめが恐ろしかったからだ。


 背後に控えていた帝の侍従が、行燈を上に掲げると、彼の顔が見えた。薄暗闇に、ぼんやり滲む彼の顔は非現実的ななにか、この世のものではなかった。


「さあ、おいで」と、声が耳もとでした。

 

 甘い息が首筋にかかる。

 欄干にそって逃げる淑華にむかって帝が踏み出す。


「いや……」と、声をあげる彼女に、「わたしが嫌いか?」と、彼がたずねた。


 淑華は答えることができない。


「それとも、怖いのかな?」

「……はい」


 帝は近づくと有無を言わさず、彼女の身体をすくい上げ、軽々と抱き上げた。酒に混じった香料の匂いが鼻をくすぐる。


「この身体が誰のものか、教えてやろう」

「帝」

「さあ、かわいい妃よ。はいと言いなさい」


 回廊から渡殿へと、淑華を抱き上げたまま帝は自分の寝殿へと向かう。淑華の身体は小刻みに震え、それを止めることができなかった。


 これまで帝の主寝殿内に入ったことはない。

 この場所は帝の私的な寝所であり、普段なら帝は妃たちの部屋を訪れる。


 横抱きにかかえられたまま、淑華は寝殿まで運ばれた。

 

 侍従によって音もなく扉が開かれ、その先には色とりどりの薄ものをかけた几帳きちょうが置いてあった。

 几帳きちょうを通り抜けるごとに、薄ものが一枚一枚と、女官によってめくられていく。


 帝の腕のなかで、淑華は怯えながら、その様子を美しいと感じた。

 月夜には魔物が来て少女をさらっていくと、母から聞いたことがある。自分は魔物にさらわれていくのだと思った。


 この魔物は、しかし、彫が深く雄々しい顔立ちをしている。


 最後の薄ものが、まくり上がると、そこに寝台があった。

 絹糸で織られた敷物の上にそっとおろされる。無意識に抵抗しようとして、淑華は声を出した。


「しっ」と、帝が唇をおさえた。


 慣れた手つきで上衣を脱ぎ、半裸になった帝がかたわらに横になる。


「帝」

「口を閉じなさい」


 恐ろしくなって逃げようとした。絹の敷布がスルスルと滑っていく。


「怯えなくてもいい。おまえは、まだ若すぎるようだ」

「わ、わたくし」

「かわいい妃よ。そなたは、わたしのものだと申しただろう。しかし、今宵はこの幼い身体に触れるだけだ」


 再び逃げようとすると、帝は慣れた手つきで、淑華の帯を解き、儒君の胸もとをはだけさせる。

 

 あわてて、彼女は両手で胸もとを寄せる。抵抗してはいけないと思いながら、滑る絹の上で、逃げようとして、逆に抱き寄せられてしまう。


「さあ、わたしを見なさい」

「帝」

棣林ディリンだ。さあ、呼んでごらん」

「ディ、ディリン」

「そうだ。愛しい妃よ。心配することはない。今宵は何もしない。もう寝なさい」

「あ、あの」


 その夜、帝は何もしなかった。あっという間に、彼女を抱いたまま寝息を立てていた。彼女の隣りで夜を過ごしただけだった。


 帝が彼女のもとに訪れたのは、その半年後、すでに季節は春になっていた。


 



(つづく)

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