同時に私に憎悪されようとする





 思い出とは自分の都合で変わるものだろうか。

 あの春の日の……、はじめての夜は、つい昨日のように思える。しかし、すでに二十年近い年月が過ぎていた。


「力を抜いて」という帝の低い声がふとした弾みに頭に浮かび、ぎゃっと叫びだしたいほど居心地の悪さを感じる。


 あの夜、すべてが終わったあと、帝は両手で顔を包み、「かわいい子、眠ってしまったのかい」と、気怠そうに聞いた。


 淑華は痛みと恥ずかしさで目を閉じ、眠ったふりをしていた。


 今から思えば、そんな嘘は棣林ディリンに見透かされていただろう。

 しかし、頑なに彼女は目を閉じたままでいたのだ。


 棣林ディリンは、しばらくすると、なんでもなかったように軽いイビキをかいて眠ってしまった。


 ──眠ってしまった……。


 淑華にとっては嵐のような出来事だったが、彼にとって、それは日常に過ぎないのだ。


 そっと目を開けて彼を観察する。

 息がかかりそうな距離に整った彼の顔があった。すっと伸びた鼻の線、目尻にあるシワ、長いまつ毛、濃い眉。

 印象的な力強い顔で、鉄のように硬質だ。


「見惚れてないで、もう寝なさい」という、乾いた声が聞こえた。


 はっとして、掛布を持ち上げ顔を隠した。

 かすかな笑い声が聞こえ、淑華は全身が赤く染まるほど、恥ずかしく思った。


 あの日から、彼と濃い夜を幾夜も幾夜も過ごした。


 彼の女になったことが残念というわけではない。

 時に幸せを感じながら、一方でこれが長続きするはずがないともわかっていた。


 帝は多忙で、後宮には多くの妃がいる。


 彼が夜毎訪れる妃たちを、そして、訪れなかった妃たちの夜を想像することなど無意味でしかない。

 渡殿や中庭や池と同じように、感情などなく、そこに存在するというだけにすぎないのだ。







 今宵も、あの日と同じ薄暗闇に沈んでいる。


 差配役としての仕事が終わり、淑華は欄干にもたれ、酔いを覚ましていた。

 夜風が冷たく、『秋の間』に戻ろうと思うがきっかけをつかめない。

 

 ──わたくしは、いったい誰を待っているの。この心地よい風? それとも、生きることから救いだしてくれる何か? これからも、これから先も待つことばかりの人生でしかないのに。


 薄暗く影になった欄干で、いくら待っても、帝の足音が聞こえるはずがない。彼が戻ってくることは、もうないのだ。


 ホウー、ホウーっと、みみずくの鳴き声がわびしげに聞こえてくる。


 精彩のない鳴き声を聞いていると、すべてが懐疑的に思えてくる。


 ──まったく大人げないことだわ。さあ、淑華、立ち上がりなさい。


 欄干にもたれたまま、いつまでもこうしている訳にもいかない。立ちあがろうとすると、衣が裂ける音がした。


「あっ」と小さな声をあげ、彼女は欄干をつかみ身体を支えた。


 欄干の下に垂れた儒君の裾が、なにかに引っ掛かったのだろう。強く引けば、布地が切り裂かれそうだ。


 どうなっているのか確かめようと手を伸ばすと、途中で温かいものに触れ、ぞっとして手を引いこうとした。その手をつかむ者がいる。


「誰っ」


 後宮内は警備が厳しい。欄干の下に隠れるような悪党などいるはずはない。


「脅かしてすみません。声をかけづらかったのです」


 欄干の下から人が現れた。灯火にゆらゆらと見えるのは、威龍ウェイロンだ。


「そんなところで、何をなさっているのですか。どうか、手を離してください」

「渡殿の下の柱に挟まっている生地を、取って差し上げようとしたのです」


 この場合、それは奇妙な言い訳であって、彼は淑華の指先をつかんで離さない理由にはならない。


「誰かに見られては困ります。離してください」

「誰が見るというのです。それに、見られて困るのですか?」

「悪い噂に」と、言ってから、淑華は恥ずかしくなった。


 年下の皇子と話しているからといって、誰が誤解するだろうか。それこそ自意識過剰である。


 月明かりの下で見る威龍ウェイロンは野生動物のようだ。気ままで、凶暴で、孤高で、何ものにも縛られない。

 まるで、今にも飛びかかってきそうだと、淑華はものうい気持ちで考えた。


 淑華は欄干にしゃがんで、手をさしだしており、彼の顔は彼女すぐ近くにあって、どういう理由からか理解できないが、楽しそうな様子で手を離そうとしない。


 この場から大急ぎで逃げることができれば、何を失ってもかまわないというほど、淑華はあわてた。

 

「いい子だから、お願い。わたくしを困らせないで」

「子ども扱いをするんですね。では、駄々っ子になって離しません」

「皇子さま、お願いです。疲れているんです」

「あの退屈な宴が、あなたを疲れさせたのですか?」


 彼女は返事をするのをためらった。威龍ウェイロンは、からかって楽しんでいるように感じたからだ。

 

「夜もふけました。どうか、離してください」

「約束をしてくれたら、離します。お聞きしたいことがあるのです」

「どのようなことを」

「母のことです」


 彼の顔は白いというより青白く見えた。

 返事をする前に手が離れた。心の片隅で、それが惜しいように感じた自分を少し恥じた。

 人肌が恋しいのだろうか。

 それが、よく知らない青年のものであろうと、彼はどこか帝を感じさせる。


「欄干の釘にからまっていたようです」

「ありがとうございます。……それで、何をお聞きになりたいの?」

「こちらに降りてこれますか?」


 淑華は迷った。このまま立ち去ったほうがいい。その方が良いことに違いないのに。


「常識で考えれば、わたくしは帰ったほうがいいのです」

「どういう常識ですか?」

「それは、ここの空気にまざっているものです」


 言葉の途中で威龍ウェイロンが吹き出した。それはとても無礼な態度だったが、ひどく魅力的でもあった。


 この子は、と淑華は思った。

 女は誰もが自分に優しいと自信をもっている。なお、悪いことに、それが間違ってはいないことだ。


 帝は、いったい何を考えて、こんな爆弾を呼び戻したのだろうか。


 威龍ウェイロンに脅威を感じるなら北の大地から呼び戻したりしないだろう。淑華が知る限り、帝が愛し心に傷を残した妃がいるとすれば、それは第二皇子の母である暁華シャオホア妃にほかならない。





(つづき)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る