疲れ果てた私が降参することを強い




 淑華は二十年という年月を大きな敵を作らずに過ごしてきた。皇后亡きあと『差配』を任されたが、その権力を振りかざすわけでもない。


 彼女は人に嫌われることを恐れなかったが、人をことを恐れた。


 自身を押し殺し、耐えて……。

 それこそ人生を賭けるほどの値打ちがないと自覚して、朝、『今日も目覚めた』と思うのだった。


 ──まったく、なぜ、わたくしは……、この困った皇子を守ろうとして、紅花妃の反感を買ってしまったのかしら。今もこうして、わたくしを困らせるためとしか思えない様子でいる人に。


 欄干の下に立つ威龍は、年相応に無邪気に見えた。

 彼女はいやいやだが認めるしかなかった。この若い男は、あきらかに意図的に淑華にかかわろうとしている。

 宴で彼女の手に触れ、動揺させて、何かを得ようとしているのだ。それが、わかっていても惹き込まれてしまう。


「驚いていらっしゃるようだ」

「他にどんな態度をすれば良いのでしょう」

「降りて来てくださらないのですか?」


 皇子は、とろけるような声で言う。


 この声が単に純粋さの現れであって、若さからのものであれば良いと思う。これまでの彼の人生を考えれば、彼に純粋さが残っていることのほうが奇跡だろうが。


 ──わたくしは愚かな女のように振る舞っている。


「お礼を言いたくて、きっかけを待っていました。宴の余興で、徳妃のきまぐれな言動から守ってくださった。それで、うまい具合に衣が引っかかった機会を利用しました」

「わざと、あなたが引っ掛けたのですか?」

「酷い言い草だ。そんな男に見えますか?」


 その答えはあまりに明確であって、あえて言う彼の真意がはかりかねる。


「単純な理由です。わたくしは人との争いが見るのも、するのも好きではないからです」

「それが助けた理由なのですか?」

「他になんの理由もありません」

「さあ、そんな冷たい顔で言わないで……。もう許してください。真実を告白すれば、僕は怖かった。生首と言った紅花妃は、ほんの冗談だったかもしれないですが。父帝の真意がわかりませんから、もしかしたらと僕を亡き者にしたいのかと、邪推したのです」


 彼の声は軽く、からかっているようだ。あるいは、そう誤解させたいなら、それこそ滑稽なことで笑えてくる。


「帝は、そのような冗談を言う方ではありません」

「よくご存知なのですね。ほら、笑った」


 淑華は口もとに手を添えた。自分が笑っていると気づいてなかったからだ。


「本当に? ほら、笑ってはいません。ただ、今の状態は、ちょっと笑えますけど」

「そこは、笑うところじゃありません。不適切と思われることは不本意です」

「では、わたくしは戻るべきでしょう」

「意地の悪い方だ」


 皇子は外見よりも大人だ。

 流刑の地で苦労すれば、皇宮にいる甘やかされた皇族たちとは違うだろう。


 淑華は少し面倒になってきて、渡殿の奥にある狭い階段を降りると、威龍は彼女に手を差し出そうかどうか迷うような様子をした。


「さあ、降りました。夜も遅いし、わたくしは疲れています。ご用件を言ってください」

「もう少し向こうに。あまり見られて噂のタネになっても困られるでしょう」


 渡殿の下部には人が立てるほどの高さがある。そこは目立たない場所で、確かに、人目を引くことはない。


「お手間は取らせません。ただ、知りたいことがあるのです。十八年前のことですが」

「謀反のことですか」

「そうです」

「そういうお話を、わたくしに聞かれましても……」

「しかし、もう生きてる方では帝以外ではあなたしかいない。だから教えて欲しいのです。大将軍であった祖父は実直な人物で、謀反を起こすような人間ではなかった。母上は気の強い女性だったかもしれませんが、しかし、曲がったことのできない人でした。帝の寵愛もあつかったのは事実でしょうか?」

「ええ、それは……、帝は、貴妃さまを、それは深く愛されていたことは覚えています」


 だからこそ、帝は裏切りが許せなかったという言葉をのんだ。

 十五歳だった淑華にとって、二十六歳の暁華シャオホアは誇り高く美しい大人の女性だった。


 処刑が終わった後、影でいろいろな噂があったが、みな公には多くを語らなかった。ただ当時でも、将軍の謀反や皇太子の毒殺未遂をいぶかる人はいたが、みな、それに蓋をして声をあげなかった。


「母は二十六歳で、今の僕と同じ年頃だったのです。僕はまだ七歳でしたから、その意味がわからなかった。だから自分を責めました」


 あの事件は不可解なことが多かった。大陸が平定された二年後に、不意打ちのように謀反の噂が流れ、その後の展開はあまりに早かった。

 皇太子の毒殺未遂からはじまり、数日で謀反の主犯である貴妃と、その父である将軍まで罪を問われた。

 将軍は数名の護衛兵とともに都に戻って禁衛軍に囚われた。

 その後、一族は処刑。

 貴妃は毒杯を飲んでこの世を去った。


 なぜ、謀反を企てた将軍が、数名の護衛だけを連れて都に戻ったのか。囚われた貴妃を心配したのだろうか。


「本当に祖父は謀反を起こそうとしたのか、それとも、嵌められたのか。理由もわからず、何も知らされず、北の大地に送られた。あの日、大切な白磁の花瓶をわったから、それで、こんな罰を与えられたと、最初は愚かにも考えました」

「あなたは、まだ子どもでした」

「そうです、子どもでした。あの日を境に、これまでチヤホヤしてくれた人びとが、すうーっと逃げるように消えて腫れ物のような存在になった。いまでも覚えています。あなただけが声をかけてくれたのです。『耐えるしかない時があるのです』と。後宮に人は多いのに、優しく声をかけてくれたのは、あなた一人でした」


 あの時、この皇子は、あまりにも無防備な様子で、そして、傷ついて見えた。背中を優しく叩き慰めてやりたいと思うほどに。


「北の大地では、辛かったのでしょうか」


 威龍ウェイロンは右頬をあげて、皮肉な笑みを浮かべた。


「あの地は厚い雪雲に覆われて、ほとんど太陽が見えません。灰色のどんよりした雲ばかりの土地で、凍えるように寒かった……。しかし、それでも目を奪われるほど美しい景色もあったのです。真っ白になった大地に、風が吹き、きらきらした雪が舞って、その雪のなかに寝そべっていると、すべてが、どうでもいいことのように思えたものです」


 かつて帝が言った言葉が思い浮かんだ。彼は、めったに本心を見せないが、その日はちがった。


『わたしは自分の手を血に染めすぎた。多くのものと戦い、勝利を得て、なお自分の築いた世界でも血に染まっている……』


 その午後、帝に媚薬びやくを仕込んだ寵妃を、ためらいなく処罰したばかりだった。後宮妃が集められ、見せしめのように容赦なく処刑された妃の悲鳴が後宮に響いた。


 あの悲劇と同じように、帝はためらいなく自分の子を酷薄の地に送った。




(つづく)

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