その姿を憂いを秘めた目で見守る
「雪をご覧になったことはありますか?」
「いいえ」
淑華は性急すぎるほど性急に否定した。実際は子どもの頃、故郷で雪を見たことはあると言いたかったのだが。
たいして意味のない、途切れがちの会話を続けることで、ふたりの間に親密さが増すことを恐れた。
恐れた?
いったい自分は何を恐れているのだろう。この落ち着かない気分には馴染みがなくて。
急に淑華は笑いだしたくなった。
この全てが出来の悪い喜劇のようで……、『十日夜の宴』とか、帝を巡る争奪戦とか、その全てが嘘っぽく。どこかにいるであろう神が、退屈まぎれに悪さをして、のっぴきならない状況を作ったと思えてくるのだ。
欄干の下では積もった枯葉が、湿り気を帯び水分と泥で赤黒く染まっている。
足もとの枯葉を見つめながら、威龍との間に横たわる沈黙に優しさを感じてしまう。
──確かに、これは笑うしかないわ。わたくしのような年齢ならば、母親のような思いを抱くこともあるのだから。十代の小娘のように狼狽えるべきじゃない。
「わからないわ」と、彼女はつぶやいていた。
「なにがわからないのですか? 雪のことですか。それとも……」
彼女はまっすぐに彼を見つめ、「それともの方よ、たぶん」と諦めたようにほほ笑み返した。
長い時が過ぎたような気がする。しかし、それは、ほんの数分のことにちがいない。
威龍は笑みを浮かべた。
小首をかしげた威龍の姿に、彼女は帝の顔を重ねた。
確かに、彼は帝に似ている。
おそらく自分では意識していないだろうし、多くの者は
「あなたに見せてさしあげたい……」と、彼は低い声で言った。
「雪に埋もれた北の大地は厳しい世界ですが、一方では、とても美しいのです。とくに稀ですが晴天になった日。抜けるような青い空以外に何もない。永遠につづく白い大地は、人が汚すことを強く拒絶しているように感じました。風が吹き雪煙が立つと、この世とは思えない美しさです」
「ひとりで見ていたのですか」
「そう……。しかし、残念なことに長くは見ていられません。寒さに凍ってしまいますから。そんな時は、こんなふうに人肌が恋しくなります」
背が高いので、近くに寄ると顔ではなく彼の鎖骨が目前に見える。
帝と比べて、なんと若く、美しい肌をしているのだろう。
「北の地は美しいのですが、何もない寂しい世界でもあって。南の暖かい地のことを考えました。きっと自分は前世でよほど悪いことをしたんじゃないかと思います」
まさか、抱きつくつもりだろうか? と、淑華はもの憂げな気分で考えていた。
色っぽい
「皇子さま、手を外してください」
「どうして」
「大人をからかってはいけません」
「それほど、あなたは大人なんですか?」
「少なくとも、あなたより十年は長く生きていますから」
「それが、どれほどのことでしょう。たとえば、ご存知でしょうか。」
逃げようとすると、威龍は淑華の肩を押すような形にもう一方の手を置いた。
「皇子さま!」
「
「離して」
「黙って、人が来ました。ちょっとだけ静かにしていてください。宮女が……」
こんな時間に宮女が?
後宮の端にある万寧宮は
まして、今宵は『十日夜の宴』が開かれ、その後片付けも終わっている。
誰かが来るなど、普段ならありえない。
「あの」
「黙って」
池の方向から、砂利を踏む足音がする。軽い足取りで、これは衛士ではないだろう。
「隠れる必要などありません。何に怯えているのですか?」
「僕が怯えている?」
淑華は強引に彼の手をどけようとした。その手首を彼がにぎる。その手は、ごつごつしていた。
それは流刑地での過酷な生活を物語っている。
「困ります」
彼は駄々っ子のように肩をすくめると、「淑華、淑華」と、彼女の名前を二回呼んだ。せつなくなるほど悲しげな声で彼女は驚いた。
これは、いったい。
「いい子だから、さあ、
「いやです」
「どうか、困らせないでください」
「僕を見て」
淑華は迷った。
こんな状況になるなら、早くに部屋に戻るのだったと後悔もした。すくなくとも
ため息をひとつついて決心した。
彼女は顔をあげると、まっすぐに
月明かりで彼の表情がわかる。その顔は暗く、どこか寂しげで、それは十八年前、まだ七歳のころの彼を彷彿させた。
「さあ、どいてください」
「あなたは変わっていない。七歳のころに出会ったときと、まったく変わっていない。優しく、そして、厳しい」
(第一部完結:つづく)
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