第2部
第1章
あなたは孤独であることを望まず
宮廷を揺るがす事変は、今から十八年前、淑華が入内して二年目に起きた。
当時、帝は後宮に訪れると、
帝は贅沢とは何かを彼女に教えた。
豪華な食事、美しい衣服や、高価な玉やかんざしを与え、まるで愛玩動物をかわいがるように甘やかし、誰かに頼る心地よさを教えた。
「帝……、わたくし、楽しいわ」
「かわいい妃よ。いつまでもそうやって笑っておれ」
「あなたは楽しいの?」
「それが問題になるのか?」
帝はおおらかに笑ったが、少し眠そうでもあった。
淑華が彼を好もしく思うのに、時間はかからなかった。ここが後宮であり、帝には、当時、皇后のほかに六人の妃がいたが、誰よりも大事にされていると思った。
帝のうすく髭が伸びた浅黒い顔。濃い眉の下に隠れた鋭い目。均整の取れた身体つき。すべてが好もしく、彼の自信にあふれた動じない姿を頼もしく感じた。
部屋に来ると、帝は上の空の様子で彼女の頬に指を這わせて遊ぶ。
頬から、首筋、そして鎖骨をなぞって、指はさらに下に降りていく。それは女に慣れた男の偽りに似た愛撫……、そうした日々が続いたある日、彼女は十七歳だったが、ある種の知性と勘で悟った。彼には多くの妃がいて、自分はそのひとりにすぎないのだと。
その微妙な焦らし方や、愛し方を、彼に教えた女たちがいるのだと。
あの事件が起きたのは、その頃だった。
淑華は今でもよく覚えている。
その日も、昼までは、いつもと同じ平凡な日であることを疑いもしなかった。
「せっかくの桜も、この風では散ってしまうでしょうね」と、女官たちが、あちらこちらで桜の花びらを惜しむように話していたのを覚えている。
朝から風が強い日で、せっかく満開になった桜の花びらが渦巻くように散っていた。それは、ある種の啓示だったのだろうか。迷信深い人なら、なにもかもあらかじめ決定された事項だったと言うのかもしれない。
悲鳴のような声が響き、バタバタと動きまわる騒々しい声が届いた。
「桜の花びらでも、集めているのかしら」
「
「承知」
時に友であり、時に相談者でもある。
しばらくして楊楊は戻ってくると、拝手したまま目配せした。
「みな、下がりなさい」
十七歳とはいえ、寵妃である淑華に女官たちも敬慕の情を抱き、彼女の命には逆らわない。
全員が下がると、楊楊は彼女の隣りに近づき、耳もとに口を寄せた。
「どうしたの」
「大変なことが起きているようです。関わっては危険かもしれません」と、楊楊は小声で囁いた。
「皇太子のところでなにが起きたの?」
「侍医が来ていました。それに、尚食の女官たちが、青ざめて東宮御所の前でぬかづいていました」
「尚食の女官たち。つまり、昼の食事になにか問題があったのね」
ふたりは訳知り顔にうなづいた。
「毒かも……」
「黙って、
楊楊は仕入れてきた情報から類推して断定はしないが、ただ可能性を伝えた。
後宮の食事を司る尚食の者と侍医、そして、騒ぎになっているとすれば、食事になにか問題があったと考えるのが普通の流れだ。
「騒いでいる場所は?」
「皇太子さまが住まわれる万長宮のようです」
皇太子が寝起きや食事をする万長宮で騒ぎが起きている。類推するまでもなく、皇太子に何かが起きた。
その日、後宮内が緊張に包まれ、普段なら音曲が聞こえてくる部屋も静まりかえっていた。
後宮では、噂は、あっという間に尾ひれがついて広まる。
しかし、ここで毒殺を企てるのは容易ではない。
食事を司る尚食では、皇后の采配によって何段階にも毒が入らないような監視体制がある。もし、これが毒だとすれば、尚食で働く女官たちに命の保障はない。
おちつかない日が過ぎ、夕刻になって皇太子が病に倒れたという確かな情報が届いた。
「壁から覗いてきます」
「
事件のあらましが知れたのは数日後だった。
早朝、
「そんなに慌てて、どうしたの」
「
「警部(皇室直属の組織)ではなく、大理事?」
「そうにございます。皇太子さまはまだ寝台から起きられずにいらして」
「そう」
「怖くて。何が起きたんでしょうか」
皇太子の食事に毒が盛られた後、寵妃として権勢をきかしていた
「他に誰が」
「わかりませんけど、でも、暁華妃付きの女官も全員が囚われたそうです」
「第二皇子は?」
「たぶん、お部屋で謹慎しているとか。ちょっとわかりません」
この経緯が淑華には理解できなかった。
その後、暁華の父である将軍が数名の部下とともに都に到着し、謀反の罪に問われた。
後宮では皇后と
皇后の父は国を統一する前に戦死しており、帝の幼馴染というだけの後ろ盾のない皇后と、功臣でもある大将軍の娘である
しかし、皇太子毒殺未遂により、いっきに形勢は逆転した。
「
「姫さま、めったな事をおっしゃらないほうが。ところで、第二皇子さまのこと、お聞きになりました」
楊楊の情報では、
石畳の上で膝を折って、一寸も動かない皇子の姿に同情するものもいるが、なまじ関わりになっても累が及ぶと、遠目から見ているだけだと楊楊は話す。
「昨夜も? 雨が降っているけど」
「はい、そう聞いていますが、内侍の者が諭しても聞かないとかで。後宮の者たちも、関わりになるのが恐ろしいのか、誰も止めに入りません」
「皇子さまには、どんな処分が」
「それは……」
「昨夜は雨風も強かったのに、一晩中、石畳にすわっていたの?」
「そうらしいです。
「行きましょう。傘を用意して」
「淑華さま、関わりにならないほうが」
淑華は立ち上がると、
未明からどしゃぶりの雨がつづいていた。花冷えのする空模様で外は肌寒い。こんな悪天候に、皇子は外で嘆願していると思うと哀れさがます。
まだ七歳の皇子にとって、それしか方法が考えつかないのだろう。
渡殿や回廊を何ヶ所も通り抜け、後宮の門を抜けて、さらに永寧殿の門をくぐる。門の先に第二皇子の姿が見えた。石畳に小さな身体が雨に打たれて、うずくまっている。
淑華は皇子のところへ駆け寄った。
「皇子さま」
第二皇子は声も聞こえていない様子で、固まっている。ずぶ濡れの彼に傘を差し掛ける。
差しかけた傘にバタバタと音をたてて、容赦なく雨が降り注いでいる。こんな悪天候の下で、一昼夜、この少年はひざまづいていたのだ。
額を石畳につけ、白い衣装を身につけた小さな身体。
傘を差しかけたので、雨から守られた理由を少年は単純に知りたかったのだろう。硬い表情をしたまま、少し顔をあげた。
青ざめた顔に血の気はなく、一昼夜を飲まず食わずで跪いているとしたら。この身体では相当に応えているはずだ。
このままでは死んでしまう。
帝は、なぜ、このように自分の息子を放置したままにするのか。
「皇子さま、このまま雨に打たれていては、病に倒れてしまいます」
少年は健気に笑おうとした。
「……ち、父……上は?」
声が掠れた。
そのわずかな声を発することで、体力が途切れたのか、崩れ落ちるように、その場に倒れた。
トンという軽い音がする。
頭を打ったのだろうか、鼻腔からひとすじの血が流れ、それが雨水に滲んで広がっていく。
「皇子さま、皇子さま。誰か、来て。皇子さまが」
少年を抱きかかえると淑華は叫んだ。その声に呼応する者はいなかった。誰もが巻き添えになることを恐れていた。
(つづく)
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