愛の言葉に癒されることを願い
「十八年前、あなたは……、助けてくださった、たったひとりの人です」
その言葉に淑華は困惑するしかない。
彼女は今も昔も、誰かが困っていると手を差し伸べずにはおれないところがある。
それは優しさというよりも、傷つきやすい心が、それを放っておけないからだ。人の痛みが自分のことのように辛く感じる。だからこそ、彼女は後宮にあって、人との付き合いを避けた。
女たちの熾烈な争いに傷つくからだ。
周囲の人びとは彼女を優しく温かいというが、淑華は、それを聞くたびに落ち着かない気分になる。
彼女は好かれたくなかった。
なぜなら、それは偽りの自分の姿のような気がするからで、本当の自分を知られて失望させたくないと思いがある。
当時、良心の赴くまま皇子のために走った淑華は、だから自分のそうした行動を強いて忘れた。
それはすでに過去であり、何もできなかったという後悔のひとつに過ぎない。
たいていの場合、人というものは、した事よりも、された事のほうが大きく印象に残るようだ。
このことが威龍にとって決定的な、それこそ悲劇的なほど決定的なことであっても、淑華にとっては通りすぎた過去であって、おうおうにして、こうしたすれ違いが男女の間を喜劇的にするのだろう。
欄干の下で周囲から隠されることに、淑華は困惑するだけだった。
抗議しようとすると、「しっ」と威龍が制する。
誰かが近づいてきた。
心臓の鼓動が激しく高なる。
それは人が来たからか、男の肌が発する熱を感じるからか。宴で飲んだ酒が身体中を駆け巡っているからか。
酔っている。たぶん、それが正しい答えだと……、そう思いたかった。
体温を感じるくらい近くで、「話さないで」と、威龍はいう。その低い声に心が波立つ。
欄干の近くを歩く足音が近づき、そして、何事もなかったかのように遠ざかる。
ほとんど抱きしめるような形で、威龍の左手が肩に触れ、右手は柱を押して彼の衣で彼女を隠した。
誰かは去ったが、それでも威龍は動かない。彼女が離れようとすると、それに抵抗するように、彼の息がかかる。
「あの日のことを覚えていませんか?」
威龍は会話のための会話をつづけている。
「……。あの日、僕は帝の許しを得ようと必死に跪いていました。愚かで、無駄な行いで、そのうえ無謀で、どうしようもなく子どもでした」
そっと顔を上げると、
表情は柔らかいが、どこか呆然とした雰囲気もある。今、自分がしていることに確信が持てないような、彼女を抱きかけ、その状況に戸惑いを覚えるうぶな青年のように見えた。
「あのころ、皇子さまは七歳でしたね。それが、立派な大人になられて」
「母親のような言い方には傷つきます」
「わたくしは、そういう年齢です。あの頃は十七歳でしたけれど。もう遠いむかしです」
「ええ、あなたは十七歳で、誰よりも勇敢で、僕は昨日のことのように覚えているのです」
侍従を呼び、皇子を部屋に運ばせて侍医に診せる。
「もう少し、あの場にいれば危険な状況でした、貴妃さま」と侍医は診断した。
石畳に跪き続けた少年の足は赤アザになって痛々しく、身体は生命に
意識を回復した頃、すでに一族は処刑されていた。
皇子は回復半ばで馬車に乗せられ、流刑地へと向かった。
「あの事件は、奇妙ではありませんか? 僕は何度も考えましたが、不可解でしかないのです。祖父は数名の従者のみを連れて都に駆けつけたのです。皇太子の毒薬未遂を聞いて、母を心配したのでしょう。それが、謀反にすり替えられた」
威龍の声は穏やかで、内容が不穏ではあるが、耳に心地よく、淑華は、胸の底からわきあがる感情に身をゆだねたくなった。
ほんの少し。
ほんの少しだけと言い訳しながら。
「せっかく戻れたのです。そのような事を考えない方が」
「心配してくださるのですか」
「そうです。不幸な出来事を見たくありませんから」
「それは残念ですが、必ず真相をあばいてみせます」
「では、復讐をするために戻ったのでしょうか?」
皇宮では外廷であろうと内廷であろうと、疑心暗鬼と陰謀がつねに裏側に存在している。どこまでが事実で、どこからか策略か。それは、誰もが暗黙のうちに心に秘めていることだ。
『戦乱の世は、ものごとがよほど単純だったな』と、帝が淑華にもらしたことがある。
『民にとって、この太平な世は素晴らしいことでしょう』
『淑華。おまえは、ときどき残酷なほどそっけない』
帝は地位を脅かす者たちを、これまで容赦なく粛清してきた。それでも、いや、地位を脅かすほど有能なものたちが消えたからこそ、彼の仕事は増え、毎日、無数の問題に対処している。
「僕を目前にして、他の男のことを考えないでください。淑華さま」
「わ、わたくしは……」
「いま、父のことを考えていたでしょう。天下で唯一の男のことです」
彼女が命がけで守った少年は、もう子どもではなく、渡殿の暗がりにいて、彼女を緊張させる存在になって戻ってきた。
この薄暗がりと、酒と、不安から逃げ出したかった。
「あなたは帝を愛しているんですか?」
「そんなことを、答える必要はありません」
「いいえ、僕には大事なことです。この皇宮での数日でわかったことがあります。帝は帝であり、それ以上でもそれ以下でもない。あなたのことは後宮の一部としてしか考えていない。差配を任せ、この場が平安であることを望み、あなたを利用して放置しています」
彼の言葉に反論しようとして言葉を失った。
それらは事実であって、事実ではない。
いったい、帝と自分のあいだの関係の何を知っているというのだろう。
長い年月をかけて培った彼との友情に近い関係を。それはたとえ一方的であっても、彼女が守ってきた、生きるための細い命綱でもあった。
「離して」
「いやです」
「お願いだから」
心のどこかで彼の態度を許す自分に怯えながら、強引に離れようとした。
「あなたは不幸なんですね。人に優しくするしかないほど、不幸なんでしょ?」
「いいえ」
「そんなふうに、強く否定するのは肯定していると同じことです」
もし、この後宮で声を荒げない妃は誰と聞かれれば、誰もが、それは淑華妃と答えるだろう。
一時、淑華はそんな自分の評判に抗って、悲鳴をあげようとした。
淑華は彼を正面から見つめた。
その憂いを秘めた美しい顔の輪郭を、長いまつ毛が影を作る暗く秘密を宿した目を、それらが自分に与える安らぎを。
「あなたには理解できないでしょうが。この都に戻ることを切望してきたのは、ここに、あなたがいたからです。たとえ、父の妃であろうと、あなたがいることが、僕の支えでした」
威龍が話していた。その半分も彼女は理解していなかった。
淑華は
肉体的なつながりと、心に巣食うせつなさと、けっして自分のものにできない孤高の男に対する愛情を、彼女を拘束する冷酷な男を愛していることを自覚した。
「あなたが帝を愛しているとは思えません」と、彼は断言した。
「わたくしの感情を、あなたがなぜ知っているのですか?」
「なぜ、僕にわからないと思うのですか。少なくとも、僕は自分の感情に正直です。あなたは帝を愛しているのなら、なぜ、他の妃に嫉妬しないのですか? なぜ、いつも待つことしかしないのですか?」
──そんなふうに生きていくことなど、できない。そんなことをすれば、きっと死にたくなる。
「いつか、あなたをメチャクチャにしてみたい。いつかあなたは僕を愛してはいないのに、愛していると誤解させてしまうだろうから」
いったい、この美しい顔をした若者は、何を言っているのだろうか。自分の言葉を理解もせず、衝動的になっている。それは、どこか悪魔に魅入られたような甘美な味がする。
「あなたは……。何を馬鹿なことを言っているの」
「ときどき、あなたが僕よりずっと年上だったことを忘れています」
「忘れるべきではないわ。わたしは皇子さまより、ずっと大人なの」
この退屈な日常に刺激が欲しいと望んだことはない。これ以上は深入りすれば、危険だ。淑華は手を振りほどこうと抗った。
「明日、会ってください。約束してくだされば、あなたを手放しします」
「わかりました」
彼が肩から手を放し、いたずらっ子のような笑みを浮かべ、淑華は、その場から逃げるように去った。こんな自分に屈辱を感じながら。
慌てたので、
(つづく)
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