私がひとり眠る夜に涙し




「淑華さま、淑華さま」と、声をあげて、寝室に入ってきたのは楊楊ヤンヤンだった。

 淑華はため息をもらすしかない。

 楊楊は役に立つ有能な侍女だが、興奮すると度し難いほど騒々しいのが欠点だ。


 そして、普段は声を荒げることもない淑華に唯一の欠点があるとすれば、それは寝起きだ。血が薄いのか、彼女は目覚めが苦手で、目を開けても数分はぼうーっとしていることが多い。

 血の流れが身体中に巡るのを静かに待つのが習慣だ。


 太陽に照らされた室内を見て、本来なら起きているべき時間なのだと、淑華はもの憂げに考えた。


「どうしたの」

「皇子さまが、あの第二皇子さまがいらっしゃって」


 皇子という言葉で、昨夜を鮮明に思い出し、身体中にかっと血がのぼる。火照った顔を楊楊に悟られないよう掛け布団をかぶった。


 確かに今日、来るとは言っていたが、まさか本当に来るとは。それも、こんな寝起きに、まだ身支度もしていないのに。


「困るわ」

「何が困るのですか?」と、几帳の向こう側からさわやかな男の声がした。「もう昼餉の時間に近いのです。宴の差配でお疲れでしたか。あるいは……」

「黙って!」


 寝室の外まで踏みこんでくるなんて、非常識きわまりないと苦い気持ちで、その声を無視した。


楊楊ヤンヤン

「お止めしたのですが、かってに中に来られて」

「もう、昼近くですが」

楊楊ヤンヤン、そこに立っているを部屋からお連れして」


 淑華は直接には応えず楊楊に指示した。


『秋の間』は皇后の居室だった部屋をのぞいて、後宮では、もっとも広い造りだ。

 それは女官との打ち合わせなど、差配を任されて部屋が増えたためで、居住空間として寝室に使う部屋以外に書斎と別の間もある。


「では、書斎にご案内しておきます」

「そうして」

「はいはい、僕はモノでしょうから、書斎にひっこみます」


 書斎部屋は正面に大机が置かれ、その左右には来客用の椅子が並ぶ。打ち合わせができる使い勝手のよい間取りになっている。


「いえ、楊楊、書斎じゃないわ。時間がかかるから、あとで来るように、お伝えして」

「いや、お待ちします」

「なんて、ずうずうしいの」


 淑華は自分がトゲトゲしい言動をすることに驚き、一方で吹き出したい気持ちになった。


 昨日の宴といい、今といい、彼には調子が狂う。

 昔は活発な少女だった彼女に戻ったようだ。しかし、いつから、その少女を自分は見失ったのだろう。それを大人になったと思うことに、なぜか反発を覚える。


 いずれにしろ、彼は魅力的であって、おまけに若く、そして、もしかすると、自分を熱烈に愛しているのかもしれないと考えると、それが、たとえ勘違いであろうとも……。

 いや、勘違いであってほしい。


 この深く傷ついてきた青年に、いったい何を求めているのか。淑華自身も混乱していた。





 ともかく、身支度を整えて書斎に入ると、皇子は戸板にもたれて中庭を眺めていた。書斎は東側にあり、その先には壁を隔てて皇太子の住んでいた東宮御所がある。彼はその壁を仮面のような顔で眺めていた。


「お待たせしました」


 声をかけたが、すぐには反応しない。

 捉えどころのない青年だ。淑華は昨夜のことを、すべて忘れたという態度で接することにした。事務的だが、穏やかに、大人の冷静さをもって。


 皇子は、おずおずと振り返った。昨日の大胆さは陰をひそめ、イタズラを見つかった子どものようにバツの悪そうな顔をしている。


「昨日は、あの」

「お酒を飲み過ぎたようね」と、彼女は助けた。


 彼は無意識だろうが、女に母性本能を感じさせる何かがある。視線をそらす様子とか、床を見つめる仕草とか。


「皇子さま、ここは後宮です。わたくしの立場もあります。このような形でお会いすることは困ります」

「なにか、問題でもあるのでしょうか?」


 彼の態度は挑発的で、少し拗ねているようにも見えた。

 しばらく、無言でにらみあったのち、威龍ウェイロンは、傷ついたような表情を浮かべて下を向いた。ほつれ毛が目に落ちた姿は、どんな女でも心を持っていかれるにちがいない。

 

 隣に控える楊楊ヤンヤンの頬が赤く染まっている。


 これだからと、淑華は思った。

 まるで、自分が悪者のような気分だ。いったいどんな態度を取ればいいのだろうか。


「教えて欲しいことありますが、ただ、それは皇太子の話です」


 昨夜とはちがって、彼は誠実そうな態度だった。淑華は楊楊に目配せして、他の女官を下がらせるように合図した。


「どうぞ、おかけください。お聞きします」


 皇子は拱手きょうしゅすると、近くの椅子に腰をおろした。彼は居心地の悪そうな顔をしている。

 酒の勢いでしたことを後悔しているのだろうか。


「ずっと、黙っているのですか?」

「今朝は手厳しいですね」

「いつも同じです」

「僕はいったいなにをしたのでしょうか。 あなたを怒らせてしまったようだ」

「それが、知りたいことでしょうか。混乱なさっているようですけど、わたくしは怒っていません」


 威龍はそれには答えず、視線を窓の外へうつした。


 枯葉をパラパラと散らす木枯らしが吹いている。

 冬は、もうすぐそこだ。

 後宮の差配として、薪や暖房、綿入りのふとんの手配がどうなっているのか。尚衣局に確認しなければと、漠然と淑華は考えた。


「皇太子の件ですが。僕の考えを話します。まず、毒殺に使ったという毒の入手先です。それを誰が手に入れて、皇太子の食事に入れたのか。母の手先のはずがない。母は愚かではありません。そんなわかりやすい策を練るような人ではなかったのです」


 流刑地で彼が生き延びたのは、復讐のためなのかもしれない。寂しい大地で、幼い子にとって、それだけが生きる理由だったのだろうか。

 雨のなか、かたくなに跪いていた少年の姿を思い出した。

 身体は冷え切り、膝は血が滲んでいた。

 彼を助け起そうとしたとき、長時間、同じ姿勢でいたために、身体が硬直して腰をまっすぐにすることもできなかった。


「もう十八年も前のことです。当時の尚食(後宮の食事を賄う部署)の人間も、ほとんどいません」


 朱棣林シュ・ディリンは、後宮をひとつの組織として運営している。女官などには任期があり、結婚をするのも自由だ。

 後宮に勤める女官は恵まれた家の出も多く。彼女たちは後宮で働いた御殿女中として行儀作法に精通しており、良家の嫁として人気がある。

 また、下働きをする宮女たちは、直接、皇族とはかかわらない。当然、皇太子の毒殺未遂に関わることはできない。


 当時、皇后以外に皇子を持つのは暁華シャオホア妃だけだった。


 暁華シャオホア妃と、彼女の背後に後ろ盾として存在する大将軍を陥れたい人物がいるとすれば、それは皇后しかいなかったろう。


 しかし、そのために自分の大切な息子を害するのは疑問だ。

 淑華は皇后もよく知っている。帝とともに戦場を駆け巡ってきた皇后は激しい性格だが、愛情深く、息子たちをこよなく大切にしていた。


 半年前、皇后が亡くなったのは、六年前に高齢で第三皇子を産んだのち、産後の肥立ちが悪かった理由もあるが、皇太子の死に耐えられなかったからだ。


「流刑地で考えました。それしか考えることもなかったのです」

「残念ですが、今となってはもうわかりません。皇后さまもお亡くなりになりましたから」

「それでも真相を知りたいのです。かの地から何度も帝に嘆願書を出しましたが、受け入れてもらえませんでした」

「帝にとって皇后さまは戦友で、特別な存在でしたから。生前では、あなたを戻すことは難しかったのでしょう。向こうでは、ご苦労なさったのね」

「そうですね」と、威龍は言って真正面から彼女を見つめた。

「僕にとってあなたの存在はずっと癒しでした。必ず、もう一度、逢いたいと思っていました」

「皇子さま、あなたが思っていた十七歳の少女はもうおりません」

「僕に、まったく惹かれませんか」


 威龍は両手を差し出すようにあげた。袖がまくりあがり右腕に火傷痕やけどあとのような傷痕が見えた。

 色白な肌に、それは痛々しく、思わず目を逸らしたくなる。


「それは」


 淑華の視線を追って、威龍ウェイロンは自分の腕を眺めた。まるで、他人のものであるかのように不思議そうな視線だった。


「これは、ちょっとまあ、愚かなことをした罰のようなものです。寒い場所に長時間いて、その時に凍傷になった痕です。かなり昔のことで、傷を忘れていました」

「もう痛みはないの」

「皮膚のこの部分は感覚を失っていますから、痛みはありません」


 そう言って、彼は火傷痕の、みみず腫れになった皮膚をつねった。


「こうしても、何も感じません」

「なぜ、そんな傷を」

「実は流刑地から逃げようとして、今から考えれば愚かなことでしたが。子どもが雪道をひとりで逃げるなど不可能なことです。考えなしに歩いて、夜の冬山で過ごした結果の凍傷です。まあ、ともかく、それでも生きて戻れました」


 あの少年が雪山を歩く姿を想像して、淑華は決心した。


「あなたの願いはわかりました。お母さまのこと、わたくしにできる範囲で調べておきます」


 彼女は性急に答えると、会合が終わったという合図に立ち上がった。


「よろしくお願いします」と、素直に彼も立ち上がった。


 威龍は背中を見せると立ち去った。後ろ姿を見送りながら、彼女はほっと安堵した。安堵する理由がなぜなのか、それだけは考えたくなかった。

 


 


(つづく)

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