これで終わりにしようと告げる
その夜、久しぶりに帝が秋の間を訪れた。
『十日夜の宴』に対する
そういう意味で帝の訪問は予想外でもなく、『臣下』に対しての賞罰だと淑華は感じる。
臣下──。
ふと浮かんだ臣下という言葉に、淑華は思わず失笑してしまった。
「どうしたのだ。急に笑うとは、なにか隠しごとでもあるのか?」
いつものように、寝室前にある居間で帝は腰を下ろすと、おおらかに声をあげた。
帝は気さくだ。
まるで毎日ここに訪れているかのような態度をする。それが彼なりの計算であることを知るものは少ない。
紅花が調子に乗ってしまうのは、彼の何でも許してくれそうな懐の深さに問題もあるのだ。
「皇后さまとのことを思い出したのです」
「皇后がどうしたというのだ」
「あなたにとって、彼の方は妻ではなく、同僚だったのだと思い出しまして」
「それの何がおかしい」
「わたくしは臣下でしょうから」
帝は淑華と同じ顔をして笑った。つまり、失笑したのだ。
「あいかわらず、昔からそういうところは変わらない。面白いことを考える。まあ、確かにそうであろう。国を統一するための戦友として、皇后はもっとも信頼できる同僚だった。あの頃は命の危険はあったが、物事はずっと単純だった。今はどうだ。まったく今日も丞相のやつは、まあ、それは良い」
これが、愚痴なのか自慢なのか。淑華は半分半分に聞いている。
「お好きでしょう。そういう挑戦がお好きですから。もし、なにもない平凡な生活でしたら、きっと耐えられないでしょう。そういう方ですもの」
「わかったようなことを、いつの間にそんな口を聞く大人になった」
「今宵はわたくしの働きに対する労いではなく、愚痴を言いたくなったのでしょうか」
「そう、突っかかるな……。わたしが悪いことでもしたのか? そなたは他のものたちには、ひどく優しいが、わたしには冷たい」
「いえ、あなたさまだけではありません。楊楊にも聞いてください」
「つまり、わたしは幼馴染みと同程度ということか」
「お戯れを」
「ああ、そうだ。戯れだ。戯れ」
帝は笑っていたが、急に権力者の顔つきをした。
「さて、ひとつ、尋ねたいことがあった。昨夜の宴で、なぜ、威龍をかばった」
「わたくしが?」
「とぼけるな。紅花は確かにやりすぎだったが。なぜ、わたしが間に入らないと思ったのだ」
「それは……」
それは、自分でも答えがわからない。
「あれが、あなたさまの指示ではないと確信しましたので。大事にならないうちに、紅花さまを守りました」
「まったく、威龍ではなく、紅花とな」
「お怒りになっていらしたでしょう」
「当然であろうが。やっと息子を戻すことができたのだ。皇后が生きている間は奴の命の保障ができなかったから戻せなかった。皇后は時にわたしを凌駕することがあってな」
「あのまま、戻さないことも可能でしたでしょうに」
「
「第三皇子さまは、亡き皇太子さまとは違い、武芸に秀でたかたですね。第四皇子さまは、まだ六歳ですから、なんとも」
「武芸に秀でたか。ものは言いようだな。皇太子が虚弱で、詩歌音曲に親しむような皇子だったが、その反動というか、
威龍が流刑にされた頃、
「まさか、後継者として、威龍さまのことを」
「悪いか。年齢的に考えれば次の皇太子はあれだろう。威龍のことは、ずっと配下のものに監視させていた。師匠も送った。文武両道で、性格的にはわたしに似ているという報告が届いている。なかなか時間が取れぬが、いつか個人的に話すつもりだ」
淑華が後宮に上がったころ、帝の寵愛を一身に受けていたのは、
大将軍は庶民の人気も高く、ときに、それは帝をも上回った。
彼が謀反の罪で処刑されたのち、権力は武官から文官へと移った。
時代を反映してか、現在の寵妃は朝廷でもっとも力をもつ丞相の娘『紅花』だ。あどけない顔に色っぽさを合わせもつ彼女は、淑華から見ても魅力的だと思う。
「なにか食べるものはあるか? いや、夕食は済ませたが、食欲がなくてね。ここで話していたら、急に腹が減った」
「
「かしこまりました」
帝は近くにいれば頼もしく優しい。何事にも動じないおおらかな性格は魅力的だ。
男らしい容貌に色っぽさも加わり、妃たちが血道をあけて、彼の関心を引こうとする気持ちもわかる。
ただ、彼の心を知るものは、誰もいないだろう。
「どうだ。疲れは癒えたか」
ええと、単純に答えようとして、彼女は自身でさえも驚くような行動をした。
淑華は立ち上がると、帝に身を投げ、その胸に顔をうずめたのだ。それは衝動的で、日頃の彼女らしくはなかった。
彼は余分なことは何も言わない。
ただ、して欲しいと思ったちょうどよい強さで、背中に腕をまわして、さするように優しくたたいた。
それは、幼子をなだめるような優しさで、彼女はゆっくりと満たされるのを感じた。
「なにかあったのか」
「第二皇子さまが、あの事件の真相を知りたがっております」
帝は、軽くため息をついた。
「そのようだな」
「お調べしようと思っております」
「よかろう。だが、やりすぎるな」
この逞しく非情な胸のなかで、なにも考えずに包まれていたいが、それが満たされることは決してないだろう。
今日の帝は、どこか寂しげで疲れて見えた。昔は、こういうところが大人の落ち着きに見えて、惹かれたものだが……。
帝はこの場にいても、どこか遠くにいる。他の女の匂いや、仕事のことや、血生臭い何かが、彼の影として付きまとう。
「ここに来る前に、誰かの部屋から追い出されたの?」
「わたしを追い出すような者はいないよ」
「そうでしょうとも」
「笑っているのか」
その時、
決定的な、なにか取り返しのつかない瞬間が過ぎていった。
それが、何かわからない。たとえば、美しい満月を、あつい雲がおおい隠してしまったように。淑華のなかで何かが消えた。
「やはり、粥はやめておこう」と、さりげなく帝が言った。
「では、またな。明日にでも内侍に褒美を届けさせる」
淑華は静かに頭を下げて
「淑華さま、あの、わたし」
「気にしなくて、いいわ。帝は用事を思い出したのよ」
足音が去っていく。その音は対岸にある『春の間』に向かう。帝の到着を告げる内侍の声より前に、戸板が開く音が聞こえた。
「お待ちしていたわ。遅くてよ、
華やかな嬌声が後宮にひびく。
その声に、楊楊が戸板を閉じるよう女官に命じた。
「淑華さま」
「粥が冷めるわ。楊楊、わたくしにちょうだい」
「ご一緒にいただいても」
「そうね、ひとりで食べるには量が多そうね」
何度となく、それこそ数えきれないほど、彼女はこうした感情を味わってきた。怒りや失望ではない。
ただ、穴のあいた空虚な夜を迎え、暗がりが早く終わることを祈るような。
そうして徹夜した夜もあった。
「もうすぐ冬だから、夜の時間が長くなるわね」
「火鉢の用意をいたしましょうか。今宵は冷えそうです」
「雪を見たことがある?」
「故郷で、少しだけ。積もった雪は見たことはありませんけど」
「見てみたいものだわ。視界のすべてが白く迫る世界を」
こんなふうに生きていてはいけないと淑華は思った。きっと、いつか自分は狂ったことをしてしまう。そう思うと、恐ろしくなった。
(つづく)
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