気が狂うほどに、あなたを求め
三十五年前の戦国時代に──
領民が八百人ほどの小国。父は飾り気がなく、ときに馬鹿らしいほど陽気で、多くの民に慕われた。
貧しい国ではあったが、淑華は不自由もなく幸せだった。
つまり、自身の幸福に気づかず、憂いもなく、この幸せが永遠に続くと信じて疑いもしなかったということだ。
その頃、大陸の中央部でひとりの英雄が覇を唱えた。
"怪物"と噂される遼国の
彼と友好関係を結んだ父は先見の明があったようだ。
母が言うには、「勝ち馬に乗るのは得意なのよ、お父さまは」ということらしい。
時に戦いに出る父と兵士たちを見送る以外、戦時下であることの実感がない。それというのも領土は大陸の西端にあり、ここまで敵が攻めてくることは稀だったからだ。
彼女が十五歳になった年。
「あの軍はなんなの、母さま」
「心配いらないわ、淑華。父さまは強いのよ」
それは気休め以外のなにものでもなかった。母は淑華以上に緊張していたからだ。
『魯国』は大陸の北にある大国で、南の大国である『遼国』との戦いに敗れ、徐々に西へ西へと追いやられていた。
残酷王と称される魯国の王、
粉雪が舞うなか、押し寄せてきた軍は圧倒的な規模だった。
「投降か、戦いか」
「ご領主さま、それは馬楚成か朱棣林かの選択にございます」
軍議は荒れに荒れた。
小国である。相手と戦っても踏み潰されるのがオチだ。しかし、開城すれば、のちに朱棣林と戦うことになる。
「もし、魯国に投降すれば、彼の国に攻められるのは確実なことに存じます。結果としては魯国と運命を共にすることに。魯国の進軍は、大将軍
「遼国が、こんな西の外れまで来てくれるでしょうか。もし、大将軍に見捨てられれば」
「どちらに転んでも地獄だな」
結論が出ないまま、延々と討議はつづき、その間も見張りから知らせが届く。
「籠城しか術がなかろう。それが生き延びる手立てだ」
「しかし、領主さま。もし、遼国が援軍を送ってくれなければ、城が落ちたあとは……」
「その時は、わしの首を差し出せ」
「し、し、しかし、それは領主さま」
「今は遼国へ援軍を頼むしかない。それまで籠城して持ちこたえる。いずれにしろ、ここで降伏しても、あの残酷王だ。どんな無理難題を押し付けてくるか。遼国が攻めてきたときの盾にされるのがオチだろう」
「遼国の
「どちらに転んでも地獄だと言っただろうが。遼国へ使者を送れ。籠城だ」
鎮鬱な空気のなか、結論は決まったが、誰もが、それに納得できないでいた。
翌日、淑華が聞いたことのない音が屋敷内にまで聞こえてきた。
ザッザッザッザッザッ……!
すでに戦いが始まったのだろうか。
「あの音はなに?」
「おそらく、軍馬の行進ではないかと」
「
「
領地の北側には山脈がつづき、背後は峻厳な崖。天然の要塞であり、籠城するにはもってこいのはずだ。
ザッザッザッザッザッ……!
容赦なく近づいてくる軍馬の蹄音、敵兵の雄叫びのような叫び声に、ふたりは怯えた。
「どこへ行かれるのですか、
「城壁に登って見てみたいの」
「おやめください」
城壁の下では籠城のための防備に、兵士たちが慌ただしく作業をしている。
父はいなかった。おそらく、軍議の最中なのだろう。
「姫さま」
彼女とすれ違うたび、兵たちが
音は城壁の向こう側から、まだ聞こえてくる。
ザッザッザッザッザッ……!
城壁の西に位置する階段は崖面に接しており、守備兵が少ない。西階段から城壁に登った。
今日は朝からカラッとした冬空で、それほど寒さを感じない。階段を駆け上がると薄く汗が出た。
吐く息が白く、汗が湯気となって蒸発する。
ザッザッザッザッザッ……!
不安と重圧に怯えながら、彼女は城壁の上から向こう側を凝視した。ぶきみに響く音は、軍馬だけでなく兵の行進の音でもあった。
彼らは、わざとのように、足を高く上げて行進し、殊更に恐怖をあおる。
雲もない晴天で、城壁の向こうにひろがる大地と、その先の山々の連なりが遠く地平線まで、普段なら見えるはずだ。
しかし、今は何も見えない。
親しんだ森も大地も。
そこに広がるものは……。
見渡す限り、黄土色の砂埃が舞い上がる恐ろしい情景だ。大型の投石機をひきずる音、軍馬のいななき。そして、行進を告げる太鼓の響きと、兵たちの足音。
ザッザッザッザッザッ……!
城壁の守備兵も緊張から、どの顔もこわばっている。兵のひとりが淑華に近づいた。
「姫さま。戦闘がはじまれば、ここは危険でございます。どうぞ、お戻りください」
「まだ、来ないわ。まだよ」
「領主さまに怒られます。お願いですから屋敷にお戻りください」
ふいに、軍靴の音が途絶えた。魯国軍の進軍が止まり、その場で整列した。
砂埃が徐々に落ちついていく。
黄土色の砂埃が落ち着き、そこに大軍があらわれた。その恐ろしい眺めに
百人づつに整列した中隊が、正面に十隊、背後に十隊。つまり歩兵だけで最低でも二千人はいる。
その背後に騎兵隊が並んでいる。
投石機などの大型武器を運ぶ兵士も含め、総勢、おそらく三千人は超える。
軍列の中心、ひときわ大きな戦旗を掲げた場所に、派手な馬車が見えた。おそらく、そこに
攻め落とされそうな自国の領民は子どもや老人を合わせて八百人もいない。実質戦える兵は二百人くらいだろう。その十五倍の兵が押し寄せてきたのだ。
しばらくして、不吉な太鼓の音が鳴った。
ギーギーという不気味な音を立てて、投石機が、こちらに向かって進んでくる。
「姫さま」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、父の片腕で家令の
「陳さん」
「ここは危険です。姫さま」
「はい」
「失礼いたします」
鋼のような腕で、陳は有無も言わせず彼女を抱き上げた。
再び太鼓が鳴った。
ドドドドドッと太鼓がなり、次に、ヒュンヒュンヒュンという鋭い音が聞こえてきた。
「あれは」
「はじまったようです。どうか、お屋敷に」
急に空が赤く変化した。自宅の屋敷方面に炎が見える。
地面がずんずんと音を立てて揺れたように感じたのは、投石機から放たれた火球が城壁に当たっているからだ。
「陳さん。おろして」
「しかし」
「大丈夫よ。走ったほうが早いもの」
地面を足裏が感じると同時に、
(つづく)
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