第5話




 イ草の匂いがぷ〜んと鼻をくすぐる。

 目を開ける寸前に、加瀬は手のひらで確かめ、その感触からタタミの上に倒れているのだと知った。そんなことは、どうでもいい事にちがいない、ちがいないが、この普通の感触にほっとする。


「加瀬さん」

 

 田部の声に目をあける。彼をのぞきこむ田部の顔が見えた。


「俺は」

「大丈夫っすか? いきなり倒れたんで」

「何があった」

「それは、こちらが聞きたいすっよ。急に背中から倒れて昏倒したんです。慌てました」

「どのくらい、気を失っていた」

「ほんの数秒っす」


 隣で黙っていた藤島が三本の指を立てた。


「加瀬さん、僕の指を見てもらいたい。何本に見えますか?」

「三本だ」

「めまいは?」


 加瀬は、ゆっくりと上半身を起こした。


「めまいは……、ないようだ」


 加瀬の隣に藤島が膝をついた。体温を測ろうとした手を遮ぎり、加瀬は藤島の胸ぐらをつかむと強くゆすった。


「あんた、知っていたんだな!」

「なにを」

「だから検視解剖は、あんたがやるしかなかったんだ。三賀さんが自死を」と言って、加瀬は言葉をのんだ。誰かに止められた気がしたのだ。


 藤島は何も言わない。


「辻湖の髪も、あんたが……」


 DNA鑑定書を捏造したのかと言おうとして、ふたたび口を閉じた。


「僕が、それを……、したかったとでも」

「いや、それは」

「有吏の身体にメスを入れたかったと思うのか。あの残酷な男の身体に」


 藤島は中性的な容貌で、思わず見惚れるような容貌をしている。

 特に斜め右から仰ぎ見る横顔は、神に愛された完璧な造形といえる。繊細な線を描く額から顎のライン、その顔のなかで唇だけがぶるぶると震えて、こんな状況でさえ、思わず驚愕するほど美しく、加瀬は言葉を失うしかなかった。

 彼は視線を外した。そうして、やっと息がつけたのだ。

 なぜ、藤島を見ていると、これほど動揺してしまうのだろうか。


(三賀さん、あんた、俺に何をした)


 加瀬は胸ぐらをつかんでいた手を外して、田部に聞いた。


「田部、おまえは大丈夫か」

「やっと気づいてくれました。ひどい気分すよ。急に鼻血がでて気を失ったんすが、今は問題ないっす」

「それで、九暁辻湖はどうした?」

「加瀬さんと同時に、彼女も倒れたっす」

「それで」

「息を引き取りました」と、藤島が静かに答え、彼の背後を目で示した。


 辻湖が枯れ木のように倒れていた。


「憐れな……」


 加瀬は思わず呟いた。

 公暁の怨念を一身に抱え、依代としてのみ生まれ育つことを余儀なくされ、疑問を持つこともなく、持てる余地さえ与えられず、ひたすら苦痛に耐えて生きていたのだろう。

 これで、やっと解放されたかもしれない。

 横向きに倒れた老婆の顔は安らかで、笑っているように見えた。




(つづく)

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