第4話 




 漆黒の靄が辻湖から滲み出てくる。

 その黒は、黒よりも黒く、漆黒の闇よりも、さらに闇となって老婆の身体にまといつき──

 色濃くなるごとに、骨ばった身体が、肉が、骨がきしみ鳴り、歯の抜けた口だけが独立しているように、呪文を呟いている。


「きゅうきゅうにょりつりょう……」


 低い声で呟きながら、老婆は加瀬と目があうと、這うように近づいてくる。


「これが見えているだろう、九暁の子よ」

「おまえの仕業なのか!」

「われの仕業? われは呪詛を受け継ぎし者よ。日々、さいなまれつづける運命を甘受する、しがない死鬼。自ら望んでこの地獄を生きておると思うてか」


 おどしつけるように、一方で悲鳴のような声で辻湖が訴える。

 戸籍によれば、彼女の年齢は七十八歳だ。しかし、枯れ木のような老婆の姿は、百歳を超えていると言われても疑問を持たないだろう。

 真っ白な髪はざんばらに乱れ、眉はなく、白目は濁り、瞳がギラギラと嫌な光を放っている。

 時に、それがゆがみ、若い男の顔が二重にはりつく。

 確か、公暁は十九歳か二十歳で亡くなった。

 老婆の顔に苦悩と傲慢をたたえた若者の顔が重なる様は、死鬼そのものだ。半分が老婆で、半分が若者である半魂はんごんの化身。

 老婆が呪文を呻き、闇が口をひらく。


「おんみょうにしょうげんしん、あっきにしょうてつしがいきをえんことを、つとみてごようれいしんにねがいたて……、たてまつらん、たてまつらん……」


 足もとを見た加瀬は、そこに無限の底なし沼を見た。

 左右上下、すべてが底なしの闇。

 不安と恐怖に飲み込まれそうな自分をどうすることもできない。三賀はこの戦いのために、自ら死者の世界に向かったのだ。


(三賀さん、こんなもん、どうやって確保するんだ)


「殺せ、殺せ、殺せ。われを害するものたちよ」


 辻湖が呪いを言葉にして叫ぶ。それが自分の叫び声に重なり、三賀が叫んでいるようにも聞こえた。

 巨大なエネルギーが地場を形成し、浮きあがり、全身を圧迫する。

 加瀬のなかの何かがそれに抗う。

 闇と闇が互いに拮抗し、争う。

 ひときわ黒い物体がゾワゾワと蠢いていた。あれが本体か。なんと醜く、哀れな存在だ。

 ざんばら髪に、白粉をはたいたような真っ白な顔。目は充血し、口は引き裂いたように、ぐにゃりと異様に口角をあげる。

 あれが、公暁こうぎょうなのか。

 八百年の長きにわたり、霊媒たる母に怨念を閉じ込め、ひたすら生きながらえてきた怪物の姿。

 凄まじい猛り声が響いた。それは怪物の咆哮。人ではなくなった、怨念の塊が発する声に、身体が破裂しそうなほど激痛が走る。

 加瀬は、その場に立っていることさえ困難になった。


 ──耐えろ!


 無理だ。もう、無理だ。こんな状態を続けることなどできない。


「耐えろって、三賀さん。あんたこそ、なにを言っているんだ。なぜ、こんなことに俺を巻き込んだ」


 ──おまえには貸しがあるだろう。


(ああ、確かにそうだ。彼の両親に救われたんだった。こんな恐ろしい怨霊から逃がしてくれたのは、三賀さんの親が死をもって救ってくれたからだ。俺は何も知らず、ただ平和に生きることができた)


「なあ、公暁よ、何を呪ってここまで来てしまったんだ。おまえの本当の望みはなんだ! 復讐なんていうなよ。そんな相手は八百年も昔に滅びちまった」

『そは、われに問う者はたれぞ』

「俺か? 俺はしがないおまわりさんだ。どこにでもいる、ちっぽけな男だ。三賀警視ほどの覚悟もない。だがな、俺はおまえの子孫らしい。ご先祖さまよ、俺は悲しいぞ。なぜ、こんなことになっちまったんだ」






 正治二年、公暁は源頼家の次男として生まれた。母親は頼朝の遠縁である賀茂重長の娘、辻殿である。

 源頼朝よりとも頼家よりいえの正室と定めたのは辻殿だけだ。よって公暁は次男ではあるが、彼こそが正統な世継ぎであった。

 それが悲劇でもあったのだろう。

 もし頼朝が公暁が生まれる前年に急死しなかったら、公暁は正式な将軍になっていたかもしれない。

 実朝さねともは将軍職を公暁から簒奪した謀反人である、と彼は考えた。


『われは千日籠りをする。父を殺した実朝を呪い殺してやるわ』


 鶴岡八幡宮の別当になった公暁は、そう宣言した。

 過去も現代でも千日籠りは過酷な修行である。参籠さんろうのあいだ、公暁は凄まじく呪い、呪詛した。呪詛自体が彼の血肉になっていく。誰にも会わず、すべての情報を遮断して経を読む日々が彼を狂気に駆り立てた。

 おぞましい執念をもって、公暁は仇討ちの場を狂ったように探し、実朝の拝賀式を知る。

 誰が公暁にこの予定を知らせたのか。それは今も謎だ。

 鶴岡八幡宮で実朝が正月に行う拝賀式、それこそが千載一遇。この時を与えられた事こそが運命と彼は神仏に感謝した。

 時は建保七年正月夜、鎌倉は雪だった。

 鶴岡八幡宮のやしろに登壇するには六十一の大石段がある。その夜、十三段目にある石段の影に公暁は隠れ、実朝が拝賀式から戻ることを、はやる心を抑えながら、ひたすら待った。

 雪は止む気配がない。

 交感神経が極限まで高まる。寒ささえも感じない。喉がカラカラに渇き、心臓が跳ね上がる。


『殺す、殺す、殺す。われの地位を奪ったあやつめの首を取る!』


 深夜、実朝は鶴岡八幡宮での儀式を終え、松明に先導されて大石段を降りてきた。

 一段、一段、一段……、白い息を吐きながら。

 雪は降り止まない。十三段目まで降りたとき、公暁は飛び出した。


『父の仇、実朝! 首級を打ち取ったり!』


 自らの声に酔った。

 正しい、これこそが正義だ。恐るべき胆力で大刀をふるい、一刀のもとに実朝の首を切り落とした。

 その後、意気揚々と首を右手に、後見人である三浦家のもとへと急いだ。

 まさか、その三浦義村に誅殺されるとは考えも及ばなかった。






『われを裏切った奴ら。われを蔑んだ奴らが、この世界にもあの世界にも、もう、どこにもいない……』

「三賀さん、こいつは自分でも何を望んでいるのか。それさえ、わかっていないようだ。ただ『呪い』という名の執着だけの存在だ」


 ──加瀬、公暁を捕らえられるか!


 三賀の声が響く。

 どう捕らえていいのだ。闇のなかで。かつて人であった怨霊。あれか……。黒のなかにさらに漆黒の黒い人型。あれが公暁の本体か。


 ──あれは大人になりそこねた子どものようだ。八百年前に誰かが諭してやれば、こんなことにならなかったのに。育て方が悪かったのだ。


 三賀の思いに苦笑しながら、加瀬は子どもを諭すように語りかけた。


「おまえは何をしたいのだ。何百年ものあいだ、ただ自分の子孫を苦しめているだけとわかっているのか。おまえがなりたかった将軍など、すでに影も形もない。砂の城のように崩れてしまった」

『われが苦しめたいのは……。われは、何をしたいのだ』

「考えてみろ。おまえは本当に何を望んでいる」

『望み、望みなどは遠いむかしに消えた。もし、再び生まれ変われるのならば、次は虫になりたい。地を這う虫に。笑うことも、泣くことも、怒ることもない。ちっぽけな、誰も気にもとめない虫になってみたいものよのう』


 闇にはっきりと人の型があらわれた。

 あれが本体か。加瀬は黒い人型に向かって飛んだ。実態となった公暁の手首をつかむ。

 冷たい。

 氷のように冷たい。

 冷気で、やけどしそうなほどだ。これをつかんでいられるだろうか。


(三賀さん、長くはもたない。どうしたらいいか、わかるか?)


 ──加瀬、光だ。光を探せ! 今なら見えるはずだ。


 光?

 あるはずのないものを探して、加瀬はまわりを見渡す。暗闇しかない世界。光とは……。

 漆黒の暗闇になれていく。

 黒は黒だけでなく、青黒く、濃い紫だったりする。

 どういうことだろう。


 ──そうだ、加瀬。色だ、わずかな色に、奴の感情が取り込まれ、そこから出られない。


「ちょっと黙ってくれ。集中できない……、待て、あれか。見つけた! 公暁、ご先祖さま、俺が涅槃に送ってやる。ついてこい」

『われは、われは……』

「もう安らかに眠れ」


 多くの者たちが光を目指して向かう場所が見えた。どこから湧いてきたのか、膨大な人びとが光に向かっている。

 死者の行列。


 ──あれこそが、黄泉の世界への道すじだ。走れ! 加瀬、公暁を確保しろ。


 言葉より先に公暁の手首をつかんだまま、人びとの上を加瀬は光に向かった。

 まばゆい光のなかに……。




(つづく)

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