第3話
加瀬は自分がこの屋敷で生まれたと知る今も、愛着など感じなかった。
確かに資産家なのだろう。彼が育った平凡な家とはまったく違う。
養父母の家は建売り住宅のひとつで、鎌倉とはいっても、二駅横浜寄りの大船駅に近い。大船周辺は、いい意味の下町で上野のアメ横横丁のような風情がある街だ。
子ども時代には、その商店街に馴染みのおじちゃん、おばちゃんがいた。警官の制服で巡回すると、「えらくなっちゃって」と喜んでくれた。
玄関先で、ぼうっとしていると、藤島に背中を軽く叩かれた。
「加瀬さん、どうした」
「いや、なんでもない。大丈夫だ」
そうは言ったが、身体が重く前に進む一歩一歩が辛い。
逮捕に向かうぞと思うと同時に、なぜか養母に電話しなければと思う。
不吉な感情……、恨み、怨念、憎しみ、毒気や邪気に満ち満ちた空間で、加瀬は優しい養母に無性に会いたくなった。
(俺はどうした。ここに足を踏み入れたら、両親のもとに帰ることができないと考えるなんて、それほど迷信深かったか。それとも、何かの妨害か)
玄関は黒石をコンクリートで固めた広い土間になっており、上がり
田部たちが入ったからだろう。
漆喰の壁に手がふれると、ビリっと静電気が走った。雨が降り、湿気ているというのに不思議な現象だ。
「どうかしたのか」と、藤島が再び声をかけてきた。
「いや、静電気が走ったような衝撃があって、神経質になりすぎているようだ」
「静電気? 僕が触っても何もないが……」
ずるずるっと黒い闇が床下を這い回る気配がする。
(これは、俺が怯えているから感じるものなのだ。恐れる必要はない)
──いや、いる! 用心しろ!
「三賀さん」
「え? 有吏?」
藤島が切実な表情で加瀬を見つめている。
(あなたは?)
──俺がわかるか。
ザワリ、ザワリと何かが押し寄せる、ひどく気色の悪い感覚がする。それに抗うように、三賀の声が聞こえた。
──行け!
(三賀さん。よしっ、行くぞ)
地の底から黒い靄が迫ってくる。田部たちが先に入ったはずだが、しんとした静けさばかりで、音がない。
「田部!」
声に出して呼んだが返事がない。あわてて奥の
その先は六畳のタタミ部屋。がらんとした和室で誰もいない。生活臭もなく、いったい、こんな場所で誰が生きていけるのだろうか。
その向こうも、その向こうも。
田部はどこにいる?
加瀬は、バンバンと部屋の間仕切りとなる
「田部! 返事をしろ!」
奥へ奥へ、息苦しいほど、暗く濃い闇がおそってくる。横にいる藤島はこの変化に気づいていないようだ。
「田部!」
最後の襖を開けると、祭壇が祀られた部屋になった。
黒い布キレでおおった段があり、果物や生肉が供えられている。その手前に田部と他の捜査官が目や鼻、口や耳、穴という穴から血を流して倒れていた。
「藤島さん、彼らを」
祭壇前に黒い衣装に身をつつんだ辻湖が座しており、祭壇との間に黒いものが横たわっていた。
よく見ると、それは焼死体で……。樟脳のような匂いがした。
おそらく、九暁宗十郎の遺体だろう。
加瀬は、思わずぞっとして目を閉じた。
──くるぞ!
「な、なにが」
うずくまった辻湖の身体から、おぞましく黒い物体が漂いでている。それは煙ではなく、実態さえあるようだ。黒い物体は靄に包まれ、天井まで急速に伸びていく。
「加瀬さん、な、何が起きてる」
「藤島さん、逃げろ。こ、これは、無理だ。田部たちを頼む」
藤島は田部の心臓に耳をあてると、それから両手を合わせて、全身の力で胸部を強打した。
田部はゲホっという声をあげ、溺れたものが水を吐くように血を吐いた。藤島は倒れている捜査官たちの呼吸を確かめ、順番に胸部を叩いていく。
「逃げろ! すぐに!」
クククィ、クッククィ。奇妙な音が響く。黒い靄は天井まで届き、さらに人の形に
顔が見えた。
同時に絶叫する声が耳を打つ。それが、自分の声であると気づくのに、数秒かかった。
「加瀬さん、何が起きている」
「あ、あれが見えないのか」
「あれとは?」
いぶかしげな表情で藤島が顔を近づける。
「有吏は? 彼が、いるのか……」
──俺はいる。来るぞ! 加瀬、備えろ!
「み、三賀さん」
「有吏がいるのか。あいつは本当にやり遂げたのか」
(いったい彼が何をやり遂げたのだ……)
ふいに周囲の景色が、ぐにゃりと変化した。
加瀬は夜の海浜公園にいた。
展示品である江ノ電を囲む防御柵が目前にある。何か、石は? そんなことを考えて周囲を見渡し、ブロックを拾って鍵を叩き壊した。身体がかってに動いて電車内に入っていく。
(な、なんだ、これは。俺はどこにいるんだ)
──やっと、九暁辻湖を外に誘き寄せることができた。もう、このチャンスしか残っていない……。けっして恐れるな。
誰かが加瀬の頭のなかで考えている。
懐中電灯を手に持っていることに気がついた。車窓に三賀の顔が薄らぼんやりと映っている。
(これは、三賀さん。では、俺は三賀さんの過去にいるのか)
この公園は鎌倉時代に刑場だった場所だと祖母が言っていた。
『どんな証拠もつかむことなどできぬ。公暁さまの
(え? 辻湖のそんな言葉ははじめて聞いた。これも記憶なのか)
──凝り固まった愚かな老婆だ。
この世界にいないなら、こちらから行くまでだ。死後には何かがある。その何かが俺に必要なものだ。
車内は暗いが、灯油をばら撒くことなど容易い。全身にも灯油をかぶる。ツンとした匂いが鼻を刺激する。
いやな匂いだ。
これまでも、散々、死と向きあい、腐った遺体の腐乱する匂いを嗅いできた。死とは、まさに忌むべき悪臭にちがいない。
──さあ、最後の仕上げだ。なあ、加瀬よ。この俺が見えているか。おまえにしか後を託せない。俺の両親に救われた恩返しを今から頼んだぞ。
車内にある荷物起きの鉄棒に白い紐を通す。その紐を自分の首にかけ、念入りに紐が緩んでないか確認した。
準備は完璧だ。
さあ、眠る時間だ。
由比ヶ浜海岸に押し寄せる波音が聞こえてくる。母の子守り歌が聞こえる。母さん、俺はバカな息子だな。
『ねんねんころりよ、おころりよ。ぼうやは、良い子だ、ねんねしな』
母さん、ごめんな。
こんな俺を大切に育ててくれたのに、俺は、たぶん母さんと同じ場所には行けない。地上を彷徨う怨霊になる。
苦し紛れに紐を外さないよう、両手に手錠をかけた。これで余計に他殺体に見えるだろう。
さあ、行くぞ。
腰を落とした。
く、苦しい。これは、た、耐えられない痛みだ。
……生きた……い……。
はっとして加瀬は自分の首に触れた。どくっどくっと心音が波打つように聞こえ、生きている
(なんてことを、三賀さん。なんてことをしたんだ。あなたは……。ま、まさか自ら命を断つなんて。あんな激痛に耐えて、そこまでして、あなたは何をしたかった。九暁の者たちは、あなたを殺していないのか。だからか、あの違和感は。彼らは警戒などしていなかったのだ……)
黒い怨霊と化したバケモノが空間を満たしている。
──来るぞ! 公暁を確保しろ、加瀬!
(三賀さん……)
(つづく)
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