第7話




 陽が落ちたキャンパスの並木道を、街路灯が寂しげに照らしていた。

 明かりの届かない闇に何かが潜んでいそうに感じた加瀬は、ついキョロキョロと周囲を見渡してしまう。

 藤島は無言で先を歩く。

 その姿がゆらゆらと揺れ動く。

 後を追ったが、追いつきそうで近づけない。気がつくと、藤島は街路樹のあいだに設えたベンチに、倒れるように腰をおろして目を閉じている。

 加瀬は迷った。このまま通り過ぎて帰ったほうがいいのか、それとも、一緒にいるべきなのか。

 逡巡していると藤島が立ち上がって、再び歩きはじめ、ぼそりとつぶやいた。


「解剖所見も含めた死体検案書は、明日中に送ります」


 加瀬はうなずいてから、何か話すための糸口を探した。それが彼を慰めるためなのか、話題を見つけるためなのか、自分でもわからないでいた。


「三賀さんの昨日の動きを知っていますか?」

「いや、知らない。自宅に戻って来なかったから」


 一緒に住んでいるのか。いずれにしろ、捜査員が自宅に行ったはずだから、あとで聞けばわかるだろう。


「彼の自宅に捜査員が向かったはずですが」

「君じゃないのか」

「わたしは神奈川県警に出向している立場で。今回こそは、特別捜査本部が立つでしょうが、鎌倉署が担当すると思います」

「警察組織のことは、よくわからない」という藤島の声は投げやりだった。


 背後から吹いてきた春の風が、すうっとふたりを追い抜き、街路樹の葉先だけを微かに揺らした。気候的には過ごしやすい日だ。こんな季節に死ぬなんて……、三賀はどれほど無念だったろうか。

 そのとき、再び夜の奥底、闇にうごめく何かがいるように感じた。

 加瀬の感じる何かを、おそらく藤島は感じていない。

 藤島は自動販売機の前で立ち止まり、缶コーヒーを買うと近くのベンチに腰を下ろした。

 肉体的にも精神的にも疲れ果てているのだろう。

 加瀬は再び迷った。このまま、通り過ぎて彼をひとりにしてやるべきだろうか。


「有吏が、鎌倉署から君を引き抜いた理由を知っているのか?」

「いえ」


 それこそ最大の謎だ。三賀との接点など、まるでなかったはずだ。加瀬は一人分の間隔をあけて、ベンチの端に腰をおろした。


「知らないんだね」

「知っているんですか?」

「ああ、たぶん」


 藤島は疲れた表情でベンチの背に頭を乗せると目を閉じた。深くため息をついただけで、その先を続けない。


「教えてもらっても?」

「それは迷うな……。これは嫉妬なんだろうか。いや、違う。君への同情かもしれない。世の中には知らなくていいことがあって。有吏は優しいから、言わなかった。僕はそれほど優しくはない」

「へ?」


 つい間の抜けた声をだした。

 三賀と『優しい』という形容詞はありえない組み合わせだ。頭脳明晰、冷酷無比、神経質、頑固者、凝り性……、そうした言葉を形容詞にしたのが三賀であって、そこに、間違っても『優しい』という単語が入る余地はない。

 自分では想像もつかない理由がありそうで、加瀬は不安を感じた。いっそ逃げようかと思う。そんな加瀬を、街路樹の葉がパタパタと笑うかのように風にひるがえった。


「冗談だよ」と、彼はとってつけたような笑顔を見せた。

「いや、冗談じゃないな。いっそ知らないほうがよかったと思うかもしれない。愚問だが、それでも知りたいかい?」

「確かに愚問です。ここまで言われて聞かなかったら、のどに棘が刺さったようで気持ち悪い。聞かない選択肢はないでしょう、普通なら」

「そうだよな……。つまり、僕が言いたいのは、君があの一族の子だってことだよ。九暁家の子どもなんだ」


 驚きはしたが、信じられないとは……、実は思っていなかった。なんとなく察してはいたのだ。しかし、加瀬は強い言葉でそれを否定した。


「なに、くだらないことを言っているんですか。僕の両親は健在ですよ。退職しましたが、鎌倉市役所で長年勤めあげた真面目な公務員で、今でもボランティア活動でゴミ拾いをしてるような、いい人たちです」

「君は養子だということを知っているだろう」


 今更、産みの親を知りたいと思っていない。いずれにしろ、生まれたばかりの赤児を捨てるようなクズだ。

 それなら、こちらも捨ててやると思い、探すつもりもなかった。


「有吏との関係も知らないのか。全く聞かなかったのかい?」

「聞いていません」


 加瀬はずっと実の両親を探そうと思わなかった。そう考えるだけでも、大切に育ててくれた養父母への裏切り行為のようで、申し訳ない気分になるからだ。


「三賀の両親は弁護士として九暁家と関係があった。そして、その闇を知ったんだよ。ご両親が自動車事故で亡くなったのは、まちがいなく九暁家のせいだ。有吏は殺されたと思っていたが、その方法がわからない。ともかく、彼の両親が救った子どもが君なんだ」

「僕を救った?」

「そうだ。君は三賀弁護士に救われたんだ。彼の父は見過ごせなかったのだろう。九暁家で生まれる戸籍のない子どもを知ってしまったからね」

「無戸籍児のことは聞いたことはありますが、その流れで言うと……、まさか、僕が戸籍のない子だと言いたいのですか」

「その、まさかだ。まさかでもない」

「僕を救ったせいで、三賀さんの両親が殺された?」

「いや、それは違うよ。彼らが殺された理由は、もうひとりのほうだ。君が生まれた十七年後に男の赤児が生まれた。その赤児を救おうとして亡くなったのだ」

「もうひとりの赤児」


 物心ついたときから、優しい両親のもと幸せに成長した記憶しかない。いまさら、そんなクソ野郎たちのことなど、どうでもよかった。

 それでも、次の言葉は受け入れ難かった。


「ああ、そうだ。実は君のDNA鑑定をしたことがある。間違いなく九暁家の血縁だったよ」


 そこだ。DNA鑑定を勝手にしたと聞いて、無性に腹がたった。勝手に私的な検査をされて、怒らないと思うほど、自分はお人よしに見えるのだろうか。……しかし、加瀬はその怒りをぶつけなかった。

 藤島の横顔を見れば、黙るしかない。

 血の気の失せたそれは最愛の人を失った男の顔で、話すことでなんとか自制心を保っているようだ。

 やはり、俺は人がいいと彼はため息をついた。


「九暁家は女系の血縁で繋がる奇怪な一族だ。長い歴史を持ち、唯一無二の『巫女みこ』を崇拝し、その血を絶やさないという狂気に満ちた執念を持っている。近親相姦による関係で、正常に生まれる、いや、妊娠すること自体が非常に難しいようだ。そして、女子が生まれると、ある能力があるかどうかを確かめる。男子はそのまま戸籍にも入れず下男として使う。不妊が多いから、その精子を留めることが必要なようで。体外受精の技術を使っても妊娠がむずかしいのは、長い歴史のなかで遺伝子についてしまった傷なのかもしれない。三十六年前に、君を救い、その十七年後、別の赤児を助けようとしてご両親は殺された。それが有吏が調査した結論だ」

「まさか」

「信じられないと思うだろうが、君はそうして生まれた一人だ。彼らが、なぜ戸籍を取らないのかは、それは近親婚が日本においてもタブーだからだ。遠い昔から、父と娘、母と息子、兄と妹といった近親者間の性交は実際に行われているにもかかわらず、タブーになってきた。それは忌まわしきものという認識がある。日本の法律に罰則はないが、法律上の結婚はできない。だから、必要のない男の子たちは公にされず、戸籍もない」


 血族で血をつなぐことは、歴史上では多い。

 例えば、エジプト王家は近親相姦の家系だ。姉と弟で夫婦になった有名なクレオパトラと弟のプトレマイオスの例もある。

 スペインのハプスブルク家は、血を守るために近親婚を繰り返して、その結果、不妊が多くなり断絶したと言われている。


「有吏の両親が一歳になるかどうかの君を救い、子どもができず不妊治療に悩んでいた彼らの友人、加瀬家の養子としたのだ」


 藤島はベンチにあずけていた背を起こして、まっすぐに彼の顔を見た。藤島の顔は美しい。それだけに彼の言葉は運命のお告げのように思えて、加瀬はひるんだ。


「それで、君も見えるんじゃないか?」

「なにがですか」

「いや、なんでもない。……本題に戻そう。これまで有吏に頼まれて、九暁家にかかわる遺体の解剖をしてきた。どの遺体も死因がわからなかった。自然死か事故死でしかない」

「しかし、今回は違う。三賀さんは絞殺でしょう」

「これがはじめての他殺とわかる遺体だ。有吏はそれを証明するために、やり遂げたようだ。バカな奴だ。どうしようもなく、本当にバカな奴だ」


 しばらく、沈黙してから、また彼は話をつづけた。その声は悲しみに満ち、有吏と名前を言うたびに、隠しきれない愛があふれでるようだった。


「高校の頃、突然の事故で両親を失った有吏は、ボロボロになって学校に戻ってきた。配慮のない警官が、彼に人の身体ではなくなったような遺体を見せてしまったのだ」

「崖から転落して海に落ちた遺体を、その子どもに見せたんですか」


 転落死した遺体は悲惨なものだ。目玉が飛び出していたりと、正視できる状態じゃない。


「ああ、そうだ。三賀家には有吏のほかには近い親族がおらず、彼が『会わせろ』と騒いだこともあったんだが。有吏はそれから悪夢にうなされるようになった。まだ、高校生だった。眠れない夜がつづき、立ち直るのに、この場合、外に出てくるのに一ヶ月はかかったが……、それで実際に、立ち直ったのかわからない。ただ、何かを決意して学校に現れた時、そこには昔の明るく人気者だった彼の姿は消えていた」

「……」

「有吏の心は、あのときに死んでしまった。彼は僕を受け入れることはけっしてなかった。ただ、僕が離れることができなかっただけで、彼を助けるためなら、なんでもやってやりたかったのに……。結局、誰かを救うことができると考えるのは、傲慢なだけだな」


 藤島はまったく気づいていないようだ。

 しかし、加瀬には見えていた。黒い靄が人の形をつくり、ゆっくりと右手をあげて、慰めるように彼の肩に置かれているのを。


(三賀さん……。そこにいるんだ)




(つづく)

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