宜綺(むべき)
呪 九暁家の離れ屋ーその2
平成二十六(2014)年四月午前〇時、九暁家の『離れ屋』
なぜ、こんな恐ろしい結果になったのか……。
離れ屋には三人の死体が転がり、その横で赤児が激しく泣いている。
最初に正気を取り戻したのは
「宜綺、まずいことになった。今はここから逃げろ。わしが後片付けをしておく。宜綺、宜綺よ、しっかりしろ。わしの声が聞こえているのか?」
両目をギラギラさせながら、彭爺が彼の両肩をゆすった。
(ここから、逃げる……)
「宜綺、逃げるんだ」
和室は修羅場になっていた。三人は血を吐くような苦しみのなかで絶命した。その理由はわからない。
赤児が泣いている。
大量の血を流しながら、
「わ、わたしの……、赤…ちゃん」
「宜綺!」
近くには大男が倒れており、
口から泡を吹き出し、見開いた目からは光が消えている。
三人とも完全に動かない。彼らの恐怖に怯えた目が宜綺を見つめるが、そこに生気はなかった。
遠雷が聞こえる。
そうだ、先ほどは酷い雷の音がした。そこから、アレがはじまった。雷が鳴り、家が震え、そして……。異変がおきた。数分前だ。
数分前──
それは
「……、呪われし煉獄の御子よ……、呪殺せよ!」
紫緒の声に呼応して、生まれたばかりの赤児がひときわ大きく泣き声をあげる。
雷光が突き刺し、部屋が紫に点滅する。
赤児のうちから滲み出てきた黒い
「お、お、おおおぅ」
「
白髪の老人が禰宜にたずね、彼は恐怖に顔を引きつらせながらも首を縦にふる。
「ま、まずい。巫女さまがいないのだ。禰宜、おまえに制することが……」
禰宜は呪文を唱えはじめた。
「
宜綺の目にははっきりと視えた。
赤児から産まれようとしている黒い闇。
それは、人を
その姿は人であって、人でない。
黒い靄は天井まで届き、ザラリ、ザラリと不気味な音を立てて、老人たちに襲いかかってきた。
「ね、禰宜! 公暁さまをお止めしろ!」
「
震えながら唱えた呪文が、禰宜の口を詰まらせた。
黒く、とぐろを巻くものが、三人の口や鼻や目から吸い込まれていく。
黒い靄が身体の穴という穴から内部に入ると、男たちは急に苦しみはじめた。
「御子、お、御子……、さま」と、老人がうめいた。
「……なぜに」
断末魔の声を上げ、彼らは息絶えた。
雨が止んでいた。
彭爺が何かを言っている。宜綺は、その言葉を理解するのに時間を要した。
「ここを出る日が来た。宜綺、ここにいてはまずい。わかるな」
宜綺はうなずいたが、しかし、意味を理解できてはいなかった。ただ逃げる。それだけを納得した。
「行くんだ。御子さまをお守りするのだ。宜綺、理解したか?」
そう言いながら彭爺は赤児をおくるみに包み、宜綺の胸に抱かせると、布の先を斜めがけにして背中で結んだ。赤児の熱が宜綺の胸を温める。
赤児を胸に抱いたまま、かすかな息にすがる紫緒の前にひざまずく。
震える白い手が彼にむかって伸ばされる。
「宜綺……」
宜綺は愛おしむように彼女を見つめ、彼女を背負うために背中をまわした。彭爺が彼の広い背に紫緒をあずける。
紫緒は安心したのか、深く静かな吐息をもらした。
宜綺は耳をくすぐる彼女の熱い息が愛おしく、どうしようもなく悲しく、そして、幸せだった。
「行け! 宜綺。御子をお守りせよ」
その強い声に押され、宜綺は外へと足をふみ出した。
物心ついてから、この屋敷から出たことなど一度もなかった。どこに行っていいのかもわからない。
しかし、恐ろしいとは思わなかった。
「宜綺、裏からお山へむかえ。その頂上で待っていろ。後で行く」
宜綺はうなずくと、背に回した手で紫緒の身体をささえた。
「宜綺、い、行くの?」
(ああ、紫緒。いっしょに行こう)
彼女の声に力がなかった。それでも、懸命に話しかけてくる。
宜綺は彼女を背負ったまま離れ屋を出て
(生きのびて、紫緒)
夜は深く、雑木林に道はなく、歩くには適さない。
落ちた枯れ枝がバキバキと鳴り、ところどころには深い穴があり足を取られる。
感覚の鋭い宜綺だからこそ、転ばずに歩けた。彭爺はどうするのだろう、後を追ってこれるだろうか。
背中でうめき声がした。
(紫緒、もう少しだけ我慢して。きっと助けるから)
宜綺は彼女に伝えたいことが、たくさんあった。しかし、声は出せるが話すための口の形を知らず、意味のある言葉にはできない。
彼は話したかった。
ふたりで過ごした平凡な日々のことを。縁側で干し柿を作った日のことを。朝の雪の日のことを、そうした何でない日々を話したいと思った。
「む、べき……」
彼女の声は吐息のように細く、ひどく苦しそうだ。返事ができない宜綺は背中を支える指を動かして、安心させるように彼女を撫でた。
ゴゥーっという大きな音が空でした。
鎌倉上空を横須賀基地に向かう米軍の軍用機が飛んでいく。この音が軍用機だと、以前に彭爺が教えてくれたが、よく理解はできなかった。たぶん彭爺も同じだと思う。
轟音で手が何かで濡れたことに気づいた。また雨が降り出したのかと思って夜空を見あげたが星が光っている。
これは雨ではない。
血の匂いがする。手が濡れたのは紫緒の血が再び流れたのだ。
「……、ありがとう」
聞こえないくらいの声で紫緒がささやいた。急に背中が重くなった。だらりと紫緒の両手が落ちる。
(紫緒?)
静かな寝息を立てて眠っていた赤児が泣きはじめた。
宜綺は、その場に腰をおろした。世界で一番大切なものを扱うように、ゆっくりと紫緒の身体を地面に横たえる。
指を口にもっていく。
息をしていない。
闇に沈む雑木林のなかでホーゥホーゥと鳴くアオバズクの声がした。
宜綺は自問するしかなかった。誰も教えてくれる者はいない。あとから彭爺が来るといったが、もう間に合わない。
(どうしたらいい、紫緒。どうして欲しい)
紫緒を横たえ、彼女の隣で横になった。目のまえに紫緒の顔がある。流れていく雲が切れ、青白い月明かりが彼女の顔を照らした。
美しく、天使のような顔。
赤児をあいだに、宜綺はそっと彼女のほほに触れる。彼女の顔は苦しみから離れ静かにほほ笑んでいるように見えた。
どのくらい時が過ぎただろう。
それから真っ赤に燃える炎が見えた。
大きく大きく、炎が立ち上がり天に向かって燃えあがっていく。
(いっしょに行きたい、紫緒。僕をひとりにしないで)
紫緒のもの言わぬ青白い顔は、天女のような美しいほほ笑みを浮かべていた。
(つづく)
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