第6話



 陽が陰り、西の小窓から入る日差しが細長い光を描いて控室内を照らす。

 ゴールデンウィークをあいだに挟み、大学は休講が多いのか学生も少なく、さらに法医学教室は閑散としていた。

 解剖室の隣。十五平米ほどの『遺族控室』で、加瀬は結果を待った。

 周囲の静けさに待つ時間が長く感じ、空調機の空冷ヒートポンプから聞こえるブゥーンという無機質な音にも意識が乱される。


 ざわっ、ざわざわ。


(……なんだ?)


 それまで何も聞こえてなかった室内に、音のない音がした。それは何かの気配のようだが、そう考えるのは現実的ではないと思う。


 ざわっ、ざわざわざわ。


「誰だっ!」


 つい声を荒げたのは子どもの頃を思い出したからだ。

 家族旅行で登山したとき、『熊の出没注意』という立て看板に、父が言っていた。熊を避けるには鈴の音を鳴らしながら歩くのがいいと。

 どんな猛獣でも、腹が減っていない限り向こうから近づくことはない。だから、ここに人がいると音を鳴らせば寄ってこないと、父は笑った。


(なにをやっているんだ、俺は。誰もいない場所で大声を出すなんて)


 自分に呆れて鼻で笑ったが、それでも声を出したのは、半分は不安だったからだ。


「いったい何を避けようってんだ。全く、いい大人が、くだらない」


 加瀬は幼い頃から人だった。

 自覚したくなかったが、超自然的な何かを常に身近に感じる。勘が鋭いのかもしれないが、そればかりとはいえなかった。

 養父母は論理的な人たちで、『おばけが見える』と言うと、頭を撫でながら、『子どもってのは想像力が豊かなものだね』と笑った。けっして、頭ごなしに否定はしなかったが、彼の言葉を信じてもいなかった。

 人は誰しも、自分の見えるものしか信じない。

 幽霊が見えるなどという非科学的なことなど、信じてくれというほうが無理なのだ。


『でも、ほら、あそこに。黒いモノが』

『和夫ちゃん。そういうものは自分で見えると錯覚すると、見えてしまうと思うのよ。脳のいたずらなのよ。人の脳は、案外と不確かなものなの』と、母も笑ったものだ。

 学者肌である養父も養母も即物的な思考しかしない。

 いつしか加瀬は、ことを隠すようになった。子どもは親に秘密が多いもので、ことは、加瀬にとって罪悪になった。

『遺族控室』で感じる不可解な気配の真相を、だからこそ心の底から知りたくなかった。


「そうだ。父さんの言う通りじゃないか。こうやって声に出して話すほど、恐ろしいことなのか? まったく滑稽だよ。いいか、理解してないと思うから、あえて言うが、出しゃばるんじゃないぞ。つもりもないからな」


 室温が一度下がった。

 感染防止から解剖棟の室温は常に二十度に保たれていると聞いた。この部屋もその温度に準じているだろう。寒くはないはずだが、足もとに冷気が忍び寄ってくる。

 ピリピリした感覚で、神経が奇妙に研ぎすまされ、解剖室で行われる作業が、自身を切られているように感じた。

 解剖用メスが皮膚を切り裂く。自らの手で内臓を抉り出し潰し続けるようだ。

 加瀬は椅子のひじ掛けを握りつぶしそうにつかんだ。

 い、いったい、……何が起きている。

 身体が激痛に悶えるのに、声さえでない。

 これは現実の感覚じゃない。おそらく違う。白昼夢のようなものだ。

 夢だ。夢を見ている。

 三賀から絶えず漏れ出ていた暗い絶望と狂気が、彼に侵入してくる。黒い靄。あれは、いったい何の象徴なのか。

 それは、少しづつ人の形になっていく。

 ぞろり、ぞろりと内臓を垂らしたまま、裸のような、人のような。

 三賀……。


「君、き、君なの、か?」

 

 ──み・え・る・か?


「み、三賀さん?」


 ──あゔゔゔ、あゔ、あゔゔゔゔゔ。


 黒いものは三賀のようにも見え、また、別の何かにも見える。


(俺の頭はどうしたんだ。幻覚を見ているのだろうか? いや、そうではない。これは、違う。1+1=2というくらいに、俺の理性は狂っていない。だとしたら……)


 幻覚のような怪異は、目の前で黒い靄になり、人の形にかろうじて保たれ、そして、また消えるを繰り返した。


 ──か、か、かぅせ。


 言葉を必死に発しようとしては消える。不思議と恐怖は感じなくなった。


「もしかして、あの、まさか、三賀さんですか?」


 黒い靄に、そう問いかけた自分に呆れた。そんなはずはない。

 空気が重い。

 突然、周囲が明るくなり身体がすぅーっと軽くなった。怪異は消えた。目のまえに藤島が立っている。

 いつのまに、そこにいた……。


「もう陽も落ちているのに、照明もつけずに暗いなかで、寝ていたのか?」

「いや、あの」

「顔色が悪い。まるで幽霊でも見たような顔つきだ」


 ついウトウトと眠ってしまったのだろうか。奇妙な夢を見ていたようだ。

 頭を振って、あらためて藤島を見ると顔面が蒼白だった。三賀が彼の愛する人間なのは間違いない。そんな彼を解剖をして正常にいられるはずがない。想像するだけで恐ろしいことだと思う。俺にはできないと加瀬は頭をふった。


「とにかく解剖は終わった。詳細な所見については、後ほど」

「それで、死因は?」

「紐で頸椎けいついを圧迫されたことによる絞殺にまちがいない」

「間違いなく?」


 藤島は、それには応えず、「外に出よう」と言った。解剖後にシャワーを浴びたのか、彼の髪が濡れている。


「加瀬さんはタバコを吸いますか?」

「いえ、吸わない」

「僕も吸わない。でも、なぜか、今は無性に吸いたい気分だ」


 法医解剖室は三階建てで、一階は教育棟で講義室になっている。遺体の安置や解剖は二階が主だ。

 エレベータを使って一階に降り外に出ると、すっかり陽が沈んでいた。




(つづく)

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