第5話




 午後三時過ぎ、加瀬は県警本部を後にして、藤島に指定された場所に向かった。

 送られた住所は市内の交差点だった。

 待ち合わせ場所が交差点というのは、あるいは藤島らしいのかもしれないが、加瀬なら、ぜったいしないことだ。

 到着すると、横断歩道の向こう側に彼の姿があった。

 ひょろりと背が高く細身の体型で、まるで幽鬼のように見える。

 黒い開襟シャツと、足にピッタリはりついた細身のジーンズという姿で、所在なげに立っている。その姿は、どこか優雅でさえあったが、その顔は長い前髪に隠されていた。

 その時、一陣の風が加瀬の脇を吹き抜け、藤島へと向かった。

 春にしては珍しくねっとりとした風で、藤島の前髪をまき上げる。中性的で、はっとするほど美しい顔がさらされ……、横断歩道を隔てて目があった加瀬は、思わず狼狽して下を向いてしまった。その目が底なしに深い悲しみをおびていたからだ。

 彼と三賀はまったく似ていない。それにもかかわらず、どことなく三賀を連想させる。

 一瞬、彼の隣りに三賀が立っているように錯覚して、両目をこすった。

 信号は、まだ赤だった。

 もう一度、藤島を見ると、黒い靄のようなものが漂い、それが三賀のように見えた。何かを告げるように口を開く。


 ──た・の・む


 三賀……、が、話している?

 ぞくりと鳥肌が立った。

 目を閉じて、そっと開くと彼の姿はなかった。藤島ひとりが投げやりな足取りで交差点を渡ってくる。

 目があい、軽くうなずいた。前と変わらない様子だが、近づくと彼の白目が充血しているとわかる。

 三賀の姿は……、ない。

 早朝、叩き起こされてから働きづめだ。疲れて幻を見たにちがいない。それでも加瀬は言葉が喉に引っかかり、妙に声がつまった。


「こ、ここに呼んだ理由は、何ですか?」

「盗みにつきあって欲しいからだ」

「盗み?」

「三賀を盗みにいく」

「え?」

「この先に、例のクリニックがある。どうせ、まだ遺体安置所で眠っているだろう。あそこの検視解剖は雑駁だ。まず胸から腹を裂いて、臓器の重さを計測するという、ルーティンワークのような、杜撰な作業しかしない。有吏ゆうりに、そんな解剖を受けさせるわけにはいかない。君の力で僕に解剖依頼をしたとして欲しい。そもそも司法解剖は、まだできないはずが、なぜ、運ばれたのか、不思議だ……。とにかく、彼の解剖医は僕しかいない」

「一介の巡査部長に、そんな力はないですよ」

「なくても、た・の・む」


 藤島はそう言った。

 先ほど見た幻影と同じ言葉で、同じ言い方で。加瀬は慄然として、その場に硬直した。


「さあ、加瀬さん、行きますよ。立ち止まってないで、すぐそこだから」


 藤島は急かすように先を急ぐ。加瀬は置いていかれないように、重い足を前にだした。

 交差点から横道に入った場所に五階建てビルがある。

 正面玄関の前は広い駐車スペースで、ここは加瀬もよく知るクリニックだった。いわゆる事件性のある『司法解剖』ではなく『承諾解剖』を一手に引き受けている。三賀の遺体がここに運ばれた理由はわからない。

 ともかく、神奈川県各地から送られてくる遺体を次から次へと解剖をする施設だ。

 自宅で亡くなったとか、路上で倒れていたとか、事件性はないが死因がわからないケースを扱っている。

 警察関係者や葬儀場の人間は待合室で結果を待つが、秘密裏に手伝っているという話も聞く。まるで解剖銀座のような活況を呈するクリニックだった。

 藤島は建物の玄関口から堂々と中へ入っていく。


「医師もスタッフも多忙だから気にする必要はないですが。さて、どうしたものかな、事務員を捕まえてみましょうか」

「いや、勝手にもらっていこう」

「藤島さん、見た目より大胆だ」

「もともと僕のものだ。……少なくとも、あんな奴らよりは」


 加瀬は、なんと答えればよいのか混乱して話題を変えた。


「このクリニックは『司法解剖』はしないはずですが。裁判所から、まだその許可も降りていないでしょう。三賀さんには近い親族はいないから、解剖費用を持つような遺族もいない。違いますか?」

「そうだよ。さて、遺体を保存する冷凍庫の場所、加瀬さんは知っているでしょ」

「ええ、知っていますが。知っていますけれど、まさか、勝手に運ぶつもりですか?」

「急がなければ、遺体から証拠が消えてしまう。大学の生徒たちに遺体運搬用のバンを寄越すよう手配してある。もうすぐ、駐車場に到着するはずだ。さあ行きましょうか」

「最初から、そのつもりで、なぜ、わたしが必要だったんですか?」

「もしものときの保険だ。止められたときは、警察手帳でお願いする」


 加瀬は軽く首を振ったが、藤島の懸念も理解できた。腹をくくって、彼を案内してクリニックの地階に降りた。

 遺体安置場で『ミツガユウリ』の名札を発見したとき、藤島の全身がゆらりと揺れた気がした。

 倒れるんじゃないかと、声をかけようとしたが藤島はすぐ立ち直った。彼は、室内の片隅に片づけてあったストレッチャーを広げて準備する。


「まったく、僕は公務員なんだから、これがバレたら、どうなることか……。警察手帳は万能じゃないんです」

 

 加瀬がぼやきながらも過ぎていった二時間後。

 午後五時過ぎには、藤島が勤務する法医学教室の解剖検視台の上に、三賀の身体は横たわっていた。


「ここには、遺体解剖のときに家族が使う待合室がある。そこで待っていてください」


 藤島は解剖用の手袋をはめながら、加瀬に言った。

 遺体は白いシーツに覆われて、ストレッチャーから検視台の上に移動している。

 シーツ内の身体は、死後硬直で固まり足を折り曲げているが、海浜公園から運ばれた時より伸びていた。まだ、死後硬直が解けるほど時間は過ぎていない。保存用冷凍庫に入れるためにしたことだろうが、杜撰な扱いに加瀬は苛立ちを覚えた。

 藤島の手がシーツに伸びる。

 顔の部分をめくったとき、彼の手が震えるのが見えた。


「これから検視解剖をはじめます。加瀬さん、あとで報告する。今は外へ出て欲しい」


 加瀬は逡巡した。

 ここを離れて良いのだろうか……。

 藤島を見たが、彼の目は加瀬が見えていないかのように虚ろだ。

 藤島はシーツをめくりあげ、全身を眺めてから、解剖台の周囲を回る。リノリウムの床にキュッキュッという足音が異様に響いた。

 そんな藤島を残して外へ出ると、解剖室のドアをそっと閉めた。

 振り返ると、ドアにあるガラスの小さな窓から、藤島がゆっくりと顔を下げ、薄紫色に変色した三賀の唇に彼の唇を重ねるのが見えた。




(つづく)

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