その日 2




 三賀有吏は高校時代、同級生の誰もが憧れる存在だった。

 高校に入学して数ヶ月で、彼は学年中で知らぬものはいないほど目立つ存在になっていた。

 頭がよく、運動もでき、容姿は都会的で洒落た魅力があり、切れ長の一重の目が特徴。鋭い視線は時に怖いほどだが、笑うと白い歯が強調され、底抜けな愛嬌がある。

 モテない訳がない。

 明るく面白い彼は、女だけでなく男にも好かれた。

 その上、彼には自分のスタイルがあって、それは、リーガルの履き古した靴だったり、お気に入りの文房具だったり。そうしたこだわりも、彼の魅力のひとつだった。

 きっと、両親に深い愛情で大切に育てられた子だろうと思った。

 つまり、藤島祐樹とは真逆の存在だ。

 彼は教室の隅でひとり本を読んでいるような陰気なタイプで、成績は良かったが友人は少なかった。

 三賀と同じ、ひとりっ子の藤島は大手商社に勤める父の転勤につきあって、幼い頃は海外で育った。

 しかし、その海外生活は母にとって地獄だったようだ。

 言葉もわからず、友人もいない。現地にある日本人会は世間が狭く、序列もあり、人付き合いが苦手な母にとって苦痛でしかなかった。

 母は徐々にアルコールに溺れるようになった。

『キッチンドランカー』という言葉を祐樹は中学生の頃に知った。

 外から見れば、なに不自由ない幸せな家庭。完璧な母親は夜になると酒に浸り、息子に執着した。




 高校二年で有吏と同じクラスになって祐樹は嬉しかった。教室の隅で本を読むふりをしながら、目は常に有吏を追っていた。

 彼に会うまで、女子に興味をもてない自分を不思議に思っていなかった。それは、別に男が好きというわけではなかったからだ。

 しかし、有吏に好意以上の感情を自覚したとき、彼は大きく困惑した。憧れだけではない別の感情と自覚したときの衝撃。

 彼に触れたい。

 彼を抱きしめたい。

 こんな感情に、どう向き合えばよいのか。高校生の彼はひたすら悩み、世界から孤立した。

 自分は他の少年たちと違うと気づいたときには、女子に嫌悪感さえもつようになった。

 そうして、高校二年の晩秋、あの事件が起きたのだ……。

 有吏の両親が自動車事故で亡くなった。

 あまりに突然なことで、クラスメートたちも、しばらく、その噂でもちきりになる。その後の一ヶ月、有吏は学校に来なかった。冬休みが明けて、登校してきた彼は、すっかり人が変わっていた。

 なにかを思い詰めたような様子で誰とも話さない。

 鋭い棘を全身にまとい、近づく者すべてを言葉でえぐるように傷つける。そんな彼の近くに同級生が近寄らなくなるのに時間はかからない。

 ひとりになった彼に寄り添い、勉強する祐樹の姿がいつしか普通になった。




 今の祐樹は彼が近くにいるだけでいいと自分をごまかしている。

 不確かな関係に祐樹は満足しているとも、してないとも言える。それは、曖昧あいまいな関係で、祐樹だけが痛みを覚える関係であり、常に彼を苦悩に投げ込む一方的なものだった。

 高校生の頃と何も変わっていない。


(たしかに、僕は愚かだよ。あんな自分勝手な冷たい男しか目に入らないなんてな)


 息苦しくなって出てきたマンションの自分たちの部屋を仰ぎ見て、それから、ひとり歩きながら、自分を憐れんでみた。その彼を有吏が追いかけてきた。

 最近の有吏は以前よりも優しくなった。それが、嬉しいはずなのに、逆に恐ろしい。


「祐樹」と、彼の声に呼ばれた。


 水に濡れたアスファルトの道に、有吏の影がうつっている。その影に向かって手を伸ばすと、「眠れないのかい?」と有吏が聞いた。言葉は単なる言葉であって、何の意味もないはずだ。


「意味もなく不安を感じるんだ。なあ、ずっとここにいるよな」


 有吏は何も答えなかった。祐樹は自分をピエロのようだと皮肉りながら、あえて会話をつづける。


「目に見えない存在があるんだろうか」

「病理学の先生。そんな言葉が現実主義者のおまえの口から出るとは驚きだ」


 まったく信じていない様子で、有吏はさらに続けた。


「宇宙ってのは俺たちの思っている以上に、わからないことだらけだ。だから、もしかすると超自然ってのもあるのかもしれない」

「死んだ先に何かがあると思うのかい」

「ああ、あるかもしれない。それは興味深いことじゃないか。もし、あるなら、一度、死んでみてもいいかもしれない」

「バカな。生き返った人間などいない。臨死体験とか聞くが、それはあくまでもその人の妄想だよ。だから、そんなことを考えちゃいけない。僕たちはここにいる。それだけでいいんじゃないか。僕は、それだけでいいと思っている」


 有吏が目を逸らした。

 祐樹にとって、九暁家そのものが怨念のようなものだ。彼が有吏に近づけば近づくほど、怨念がふたりの間を邪魔して、有吏を遠ざける。

 有吏は目を逸らしたことを謝るように、大通りのベンチに腰を下ろした。

 夜はまだ肌寒い。


「すわらないのか?」

「濡れるだろう」

「俺の膝を貸してやろうか」


 そんな言葉は残酷だ。いっしょに住んでいるが、祐樹の思いなど知りもしないはずなのに……。

 驚きながら彼の膝に軽く腰をおろした。その肩を彼が抱く。

 心臓が高鳴る。

 今夜は魔物でもいるのだろうか。


「なあ、まだ何の手掛かりもないのか」

「何もない」

「解剖で、どう調べても他殺の痕跡はなかった。ただ、心臓が止まっただけで、毒の検出もされなかった。普通に考えれば三人の人間が同時に死ぬことは不自然だ。火事で焼けたから、証拠が発見できないのかもしれないが。もし、燃えなければ、なにかの痕跡を発見できたかもしれない」

「両親のときも、そうだった。飲酒運転で崖から落ちたという以外に、誰かに毒をもられた形跡も、車に細工をされた形跡もなかった。しかし……、殺されたのだ。あの家の者たちに」

「なんの証拠もない」

「ああ、そうだ。無国籍児の線から調査しようとしても、ただ壁にぶち当たるだけだ。腹が立つことに、戸籍上でも住民票上でも、彼らは存在しない。しかし、あの洋館には、確かに誰かが住んでいた」

「ああ、そうだな。これは、寝ぼけた頭脳で午前三時過ぎに話すには、いい話題だ」


 皮肉な顔で有吏は唇を曲げる。

 高校時代にはじめて出会ったとき、彼の顔つきをおしゃれだと思ったことがある。

 今も、ベンチに腰をおろし、見上げるように祐樹を見る顔に、ぞっとするほど色気を感じる。祐樹は、だから、そっと視線を逸らせるしかない。


「帰ろうか」


 掠れた声で言うと、「ああ」と有吏は答えた。そして、驚くことをした。肩から、するっと手をおろすと、彼は祐樹の腰を抱いたのだ。

 ぞくりとして、心臓の鼓動が早くなる。何か言おうとしたが、声が出ない。身体が震えるほどの欲望を、祐樹は必死に抑えた。

(いったい、どうした、有吏。おまえらしくない。こんなふうに僕を抱きしめるなんて。だが、けっして離さないでくれ)

 心が震え、逆に不安になった。彼のことが不安で不安でたまらなかった。

 もし、それが可能なら、脳を引き裂いて、彼を苦しめてきた悩みの核をすべてを取り除いてやりたい。それができれば、どれほど幸せなことだろうか……。


「有吏」

「なんだ」

「僕は何も望まない。ただ、ずっと側にいてくれないか」

「おまえは、本物のバカだな」


 祐樹は目を伏せた。

 濡れたアスファルトに、街灯に照らされたふたりの影が、ゆらゆらと揺れていた。


 


(つづく)

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