三賀有吏と藤島祐樹
その日 1
浅い眠りのまま、寝苦しい夜を過ごした。
……午前三時。藤島祐樹はベッドで上半身をおこすと、隣のベッドが空になっていることに気づいた。シーツもきちんと整えられたままだ。
「まだ、身体が臭うのかな」
皮膚に染み付いたかもしれない死臭を確認してみる。念入りにシャワーを浴びたつもりが、臭いがまだ残っていた。
有吏は匂いに敏感だ。いや、匂いだけではない、あらゆることに敏感で潔癖な男だ。
いったい、どこで眠っているのか。しかし、自分の眠りが浅いのは、そのせいではないだろう。有吏の気まぐれには慣れている。
ベッドサイドのカーテンを開けると、雨が降っていた。
雨粒が窓ガラスに細い筋を作り、景色を滲ませていく。
マンションの高層階から眺める濡れた都会のイルミネーション。どこか非現実的で地に足がついていない感じがするのは、今日がクソな一日だったからだろうか。
雨を眺めながら、脈絡もない映像が浮かんだ。
百歳に見える白髪を振り乱した婆さんが、瀟酒な一軒家の金のかかったリビングルームで酔うように踊っている。しかも、婆さんはシラフだ。
これは、たぶん、脈絡もなくではない。
彼は、その老婆をよく知っていた。あれこそ三賀有吏の敵なのだ。
あれは妖怪だ。かなわねぇ、きっと有吏は呑み込まれるにちがいない。
雨が降っている。
学生時代から有吏とマンションの部屋をシェアしてきた。親の遺産で受け継いだ有吏のマンションに、祐樹が転がり込む形で一緒に住みはじめたというのが正確かもしれない。
正確……、有吏は曖昧さを嫌う。
ふたたびベッドに横になってみたが嫌な感じに目が冴えていた。老婆の幻想が、まだ頭から離れない。
有吏はどこにいる。
あいつは、鎌倉で三人の遺体を発見して喜んだが、それはすぐに失望に変わったようだ。
最近は、ますます口数が減った。
寝室のドアを開け、そっと足を忍ばせてリビングに入る。ソファで横になった有吏が深い眠りのなかにいる。
半開きにした口は、酸素を吸い込み二酸化炭素を吐きだす、ただの器官になり果てている。それは、あまりに無防備な姿で、どこか
「わからない……」と、有吏がつぶやいた。
「わからないんだ、祐樹。もう、方法がない」
眠っていなかったのか……。
窓のカーテンが開いている。冬の残照が残る外の景色は深くダークブルーに染まっている。
暗闇でしか眠れないはずの有吏は珍しく、窓から入る灯りを遮光カーテンで遮っていない。仕事でよほど疲れたのか。崩れるようにソファで眠ってしまったのだろうか……。
「心配するなよ。おまえには僕がついている」
声がかすれた。
有吏は目覚めているのは確かだが、返事をしない。それから、腕で目を隠す。その隙間から涙がすぅーっと頬に線を描いて流れていった。
泣いている。
愛しい男が泣いている。
慰め抱きしめたいという強い衝動を必死におさえた。彼は祐樹の恋情を理解していない。もし彼がこの気持ちを知ったら、そう考えるだけで恐ろしくなる。
祐樹は、自分の暗い欲望を抑えるために、外に目を向ける。雨が止んだ。
通り雨だったのか……。
風が強く、満開になった桜を散らし、花びらが下の道路で渦を巻いて舞っている。その様子が、階上からでもはっきりと見えた。
有吏は、まだ声もなく泣いていた。
彼が泣いていることに気づかないふりをした。
「やあ、眠れないのかい?」
「いや」
しゃがれ声が悲しい。
彼はあくびをするフリをして、それから乱暴に目を擦ると、切れ長の目で首を傾げ、不思議そうな表情になり、「なにも」と言って、身体を起こす。
外の風はさらに強くなり、街灯のオレンジ色に花びらが浮かぶように飛んでいる。室内はシンとした静寂に沈んでいる。
窓ガラスに眉間に皺の寄った自分の顔がぼんやりと映り、その奥、ソファにすわる有吏の顔が見えた。
息苦しかった。
いつか、おそらく、それも近いうちに、彼のこの姿を懐かしく思い出すかもしれないと、そんな不吉な予感した。
検視解剖で多くの人間を扱ってきた祐樹は、主観や理想をまじえない即物的な見方をする。人体を細部まで切り刻み、解剖してきた。霊とか、第六感とか、そうしたものは、すべてエセ科学だと考えるようになった。いや、昔からそう考えていた。
しかし、この感覚は何だろうか。
胸にするどく刺すような痛みが走り、不安が消えない。
「ちょっと出てくる」
悪い予感を打ち消すように、祐樹はTシャツの上に半コートを引っ掛けて外に出た。キーだけ持って、エレベーターに乗りエントランスから外に出る。
空気は湿り気を帯び、雨に打たれた街の光で道が滲んでいる。
彼は、つっかけてきたサンダルの足が濡れるのもかまわず歩いた。別に目的があるわけではない。
そのまま人気のないアスファルトの道を横浜美術館方面へと向かった。
ここは彼の好きな場所のひとつだ。
正面の広い鋪道の中心には人口池があり、一センチほどの薄い水がはられている。この時間でも街路灯が輝き、水に反射して、人為的な美しさを醸しだしている。昼間なら、定期的に噴水が噴きだして見物客を楽しませてくれる場所だ。
しかし、今は誰もいなかった。
それも当たり前だろう。と、ふいに、足もとを取られ何かにつまずき、転びそうになった。思わず街路樹に手をつく。するどい痛みが走る。落葉樹の湿った木肌で手のひらを傷つけたのだ。
「ついてないようだな」
背後から低い声が聞こえ、振り返ると有吏がいた。
「そんなことはない」
「いや……、そうだとも。今日で十八年になるというのに」
十八年。
祐樹は、あえて知らないフリをして返事をしなかった。
呪いのような十八年の意味を、祐樹は嫌になるほど納得している。三賀の両親が自動車事故で亡くなってから、ちょうど今日で十八年目だ。
あれから、彼は、なにかに取り憑かれたように生きている。
大学も理系志望であったのを、法学部に専攻を変更した。理系を文系にして、たった一年で最高学府に合格するのは、並大抵の努力ではない。
彼はそれを黙々とやり遂げた。それが逆にあやうく見えたものだ。
「俺が起こしたのか」と、祐樹が聞いた。
「いや、眠れないからリビングで目を閉じていただけだ」
「俺は夢で起こされた。妻を殺されたシャチの夢だった」
「シャチとは、また。変な夢を見たんだな」
「ああ、復讐するシャチの夢でさ。妻を殺した
街路灯の光で、アスファルトにふたりの黒い影が重なってみえる。祐樹はそれに触れようと手をあげた。
「それで?」
「シャチは海で漁師を追いつめるが、すんでのところで逃げられ、結局、逃げきった漁師を、それでもシャチは追った。浅瀬に乗り上げ、復讐のために漁師を鋭い歯で噛み砕こうとして、自らの死を予感しながら砂浜に巨体を乗り上げた」
「それで?」
「そこで目が覚めた。寝る前に見た古いB級映画の影響だな」
有吏の右手が伸びて肩に触れた。まるで、ここにいるのを確かめているような仕草に胸が痛む。
「バカだな」
その声は優しい。
いつもそうだ。もうこの関係を終わりにしたいと思うたびに、絶妙なタイミングで有吏は追いかけてくる。さらに悪いことに、その自覚もない。
三十歳になったときも。三十五歳になったときも。
これこそ修羅場かもしれない。
そして、これが最後の修羅場かもしれないと思うと、それを知るまえに別れてしまいたいと祐樹は思う。その別れでさえ、まったくのひとり相撲だというのに。
「バカだな」と、有吏が繰り返した。
(つづく)
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