第9話
三人の遺体から毒物は検出されなかった。
そう報告を受けたのは翌々日、終業時間の十分過ぎで、時計は午後五時半を示していた。
窓の外はまだ薄明るい。
日没は午後六時過ぎだが、『みなとみらい』のイルミネーション点灯は五時からで、まだ明るいうちから点灯する。海岸沿いに林立する高層ビルの光が華やかに海を照らした。
鎌倉署から見える景色とはまるで違うなと加瀬は思う。ここは都会で鎌倉は田舎だ。
加瀬は無意識のうちに、ひとつ、ふたつとため息を漏らした。
捜査報告書を作成しようとパソコンに向かうと、三賀から「報告書を書く必要はない」と却下された。
「これは正式に
「いや、ダメだ」
三賀が即座に否定したので、加瀬は驚いた。
「三賀さんは独善的すぎる」
「今さら何を言いだした」
「言うべきことは、言わせてもらいます。なんでもかんでも、自分ひとりで解決しようなんてのは、傲慢です」
「いったい、俺の何をもって、そう言っている」
「考えてもみてください。証拠探し、目撃情報。それでなくとも人手が欲しいのに、このままでは何もわからないまま、殺害当時に遺体となった三人しか、現場にいなかったことになります。まさか、幽霊が殺したとでも言うんですか?」
冗談のつもりで言ったが、三賀はそれに答えなかった。
放火殺人は量刑が重い。どう情状酌量しようが、よくて無期懲役。三人の焼死体を考えれば、ほぼ死刑が確定の事件だ。
ただ、死因がわからない。
解剖所見が『心不全』になっているのは、死亡原因がわからない場合、とりあえず医師はそう処方することが多いからだ。
そもそも、三人が同時に心不全を起こすなど、ありえない事態だ。
つまり、加瀬の常識からいえば、このケースで特別捜査本部(帳場)を立てないのは職務怠慢、厳密に考えればルール違反だ。
三賀のやり方は、たとえ公安案件であっても尋常ではない。
同僚がよそよそしくなる理由も納得できた。三賀は周囲に高い壁を作っている。それが本人が意図したものなのか、あるいは、そうでないのか、実際のところわからない。
公安部の捜査員たちは加瀬に同情する者も多く、「大変な人の下につきましたね」と、話しかけてくる。
その度に、加瀬は笑って、「いやあ。俺、よほど運の悪い星のもとに生まれたんですかね」などと、頭をかいている。
だからこそ、彼は疑問に思ってもいた。
なぜ、キャリア警官が、それも腫物に触るように遠巻きにされながらも、所轄に残っているのか。
「捜査本部を立てず、無理してまで秘密裏に捜査する理由はなんですか? 教えてもらわなければ、協力などできない。早々に鎌倉署へ戻りますよ」
三賀は顔を上げると、おそらくそれは無意識だったろうが、困ったような表情を浮かべた。遊園地で迷子になった子どものような不安げな表情で、その顔が予想外すぎて、加瀬は困惑した。
これは反則だ。
ムカつくばかりの傲慢な男に、庇護欲をかき立てられるなんて……、加瀬は自分のほうが迷子になった気がする。
そして、なんの脈絡もなく藤島祐樹の顔が浮かんだ。
彼が三賀に親しみを感じる理由が少し理解できる気がした。それはまったく馬鹿馬鹿しいほど腹の立つ感情であって、彼は思わず両手で髪をぐしゃぐしゃと掻いた。
「理由を言っても理解できないだろうが、事件にかかわる九暁家が特殊な存在だからだ。彼らの影響力は、ときに警察権力の中枢にまで食い込んでいる。不用意に動けば、すべてが闇にまぎれる」
「今時、そんなバカな。考えすぎじゃないですか?」
加瀬は自分の言葉とは裏腹に、別のことを考えていた。
この事件には常識では測れない何かが存在しており、三賀は中毒患者のように、その何かにはまって抜け出せないでいるかもしれないと。
キャリアを棒にふるような得体のしれないものだ。さらに、加瀬を呼んだ理由が不可解だった。
「それでは、鎌倉署から僕を呼んだ理由は何ですか? 正直言って、特に優秀な刑事でもありませんよ」
三賀は会話に興味を失ったのか、デスクの奥をごそごそと探っている。しかし、なにも見つからなかったのか、あるいは、探してはいなかったのか、手を休めると、ちらりと加瀬を見た。
まさか、傲慢が人間の皮をかぶっていると思う三賀が、……彼が逡巡している?
「君は鎌倉に最も詳しい刑事だと聞いたからだ。それに、あの屋敷に興味を持っているようだ。いや、そこは否定しなくてもいい。……この事件は常の手順で捜査すれば、おそらく、三つの遺体が他殺ではなくなるはずだ。火の不始末とかの事故で決着がつく」
「しかし、僕たちだけでは」
「何度も言うが、常識では測れない存在があるのだ。九暁家とはそういう家柄だ」
「意味がわからない」
「つまり、あの家は鎌倉時代から延々と続く母系相続という特殊な家系で、これまでもきな臭い噂が絶えなかった。だからこそ、あの家が関わる事件は公安案件として扱う……」
そこで、三賀は、いったん言葉をのんだ。
「今の時代に、本物の呪術を使う巫女いると信じられるか」
「マジで聞いてますか?」
加瀬は明確に否定はしなかったが、この男はもしかして、自分をからかって馬鹿にしているのかと危ぶんだ。
「九暁家とは長い歴史の影に巣食った忌まわしき者たちだ。血筋を存続させるために、多くの人間を犠牲にしてきた」
「犠牲って、それは、どういう意味ですか」
「文字通りの人的被害だ。生まれた子どもを無国籍のまま、屋敷内で育てている。あの家で秘密裏に生まれた男子は戸籍をもたない。男なら下男として一生を閉じ込められて過ごし、女なら巫女としての能力を試される」
「新興宗教みたいですね」
「いや、それとはまた違う。今でも日本の旧家は他人の血を入れないことが因習として残っている。近親相姦ではないが、一族のみで婚姻が成立している。が、この家はさらに特殊だ。鎌倉時代から現代に至る長い歴史のなかで、近親相姦で生まれた巫女を崇拝している。かといって、それは宗教とは言えない。彼らの言い分によれば、それは霊的な
三賀が饒舌に説明することに加瀬は驚いた。
理性的な彼が半魂などという世迷い事を信じているとは……、それこそ呪いに満ちている。この男自体が呪いだと言われたら、加瀬は信じたにちがいない。
「近親者で家系を存続させてきた彼らは血縁関係が濃い。そのために、異常者も多い」
「……」
「そのルーツは鎌倉時代にまでさかのぼる。公暁の非業の死が発端になった。悲劇的な最後を遂げた彼の一族は血筋が途絶えた。それが、母方の恨みとなり、呪いとなり、その呪いを魂の半分に持つ娘が、代々の巫女として呪詛をおこなっている。その呪詛を信じる者たちが多いのだ。政敵、ライバル、恋敵を呪い殺すことができるという、今どき、笑えるようなことを信じている者たちがいる」
「なぜ、その一族にこだわるのですか?」
「わたしの父は弁護士だった。父は九曉家の子どもに対する虐待を知り、その子を秘密裏に救ったが、その結果、殺害されたのだ。公には、酔った父が飲酒運転をして、母とともに逗子の崖から海に転落したことになっているが、それは違う。父は酒を飲まないし、飲んで運転するような人間でもない。真面目で仕事一筋の尊敬できる人だった」
「それは、いつのことですか?」
「高校の頃だ……」
彼の顔から生気が失せていた。だらんと弛緩しているようにも見える。
「あの鎌倉の洋館が空き家だと思われているのは、そこに住んでいる者たちの戸籍がないからだ。住民票に記載もなく空き家として登録されているが、実は違う。ふたりの人間がひっそりと住んでいた」
「以前、見回りに訪れたことがありますが、案内を乞うても住民は出てこなかった。それでも、私道は整備されているので、定期的に誰かが手入れしているものだと思っていました。ゴミ出しとか、鎌倉はうるさいんですが。人が住めば、最低限のゴミは出るはずです」
「あの屋敷のガスはプロパンで、電気もあまり使用されていない。テレビもないし、ネット環境もない。まるでアーミッシュのような生活をしているようだ」
「アーミッシュって?」
何かを言いかけた彼は、ふっと我に返った。
アーミッシュを知らない加瀬に落胆したのか。いや、まさか。たぶん話しすぎたと我に返ったのだろう。
「自分で調べろ。簡単にいえば、現代社会の利器を使わず、昔のまま自給自足の生活をしている者たちことだ」
投げ捨てるように言った三賀の目は狂気を帯びていた。
次の瞬間、彼はデスクの上のものを乱暴に手で払った。大きな音を立て、パソコンのキーボードが宙に舞い、ペンや鉛筆がマウスがバタバタと床に落ちていく。
突然の感情爆発に加瀬は唖然とした。
三賀は激しく肩で息をしている。
狂っている。
この男は何かに囚われたまま、地獄のなかで狂っているのだ。
いつか、とんでもないことをしでかすのではないか。そんな狂気に加瀬は鳥肌が立った。
(つづく)
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