第2話
翌日、午前四時四十四分。
公務員官舎で寝ていた加瀬は、携帯のけたたましい音で叩き起こされた。一瞬、時計のアラームが誤作動したのかとも思ったが……、違うようだ。
酒を飲んでも寝つけない日々が続いたせいだろう。以前なら苦もなく起きた朝の目覚めが悪い。
くぅっという気持ちのまま、受信をオンにした。
「まだ、朝じゃないだろう。いったい、なんの用だ」
「加瀬さん、あの」
鎌倉警察署で相棒だった田部の声だった。
外からかけているのか、ざーざーという雑音が大きい。
カーテンの向こう側はまだ薄暗い。思わず時計を見て彼はうめいた。午前五時にもなっていない……、必然的に機嫌の悪い声になるのも仕方がない。
(俺は人間ができてないんだ)
「これは、なにかのサプライズか、田部。重要なことじゃなきゃ、はっ倒すぞ」
文句を言いながらも、注意深く電話から漏れる音に集中した。潮騒の音がかすかに聞こえてくる。海岸近くかもしれない。
午前四時四十八分、海岸沿い。
奇妙な感覚に襲われた。ぞわっと何かに囚われたような。近づいてはいけないと、警告する気を感じる。
「加瀬さん、あの、三賀警視って、加瀬さんが出向した県警の人ですよね」
「そうだよ。朝っぱらから、なんだ。彼にかけろと言われたのか?」
「あの、場所は海浜公園なんですが、鎌倉の、由比ヶ浜の、あの、遺体で発見された人が三賀さんのようなんです」
「え?」
寝起きのボサボサ頭のまま、加瀬は布団から飛び起きた。
なにかの聞き間違いか、それとも、これは夢なんだろうか。
ざーざーざーっという雑音がずっと聞こえてくる。(そんな馬鹿なことは、あり得ない)。次に浮かんだ言葉は、それだった。
「ありえない」と、意識もせず言葉にしていた。
どう天地が狂っても三賀警視と遺体という言葉は合致しない。殺しても死なない、三賀とはそんな男のはずだ。
「遺体とは……? 三賀警視が遺体を発見したのか!」
「ち、ちがいます。三賀警視が遺体で発見されたのです」
いやな汗が腋の下に滲んでくる。パジャマ姿のまま外へ飛び出そうとして、あわてて着替えた。携帯をスピーカーにする。
「場所は!」
「由比ヶ浜の海浜公園です。最初の通報は午前四時過ぎ、江ノ電の車両が展示されている、あそこです。鍵が壊されているのを発見した人から通報があって、詳細については現場にいらしてくだされば」
「由比ヶ浜の海浜公園……」
加瀬が子どもの頃、よく遊びに行った公園だ。当時と比べると今は整備され、広い芝生の公園になっている。ただ、そこで遊ぶことを祖母は嫌がったものだ。
「あの場所はね。鎌倉時代には処刑場でもあって、公共の墓場でもあった場所ですよ。公園周辺で遺跡調査を行ったところ、五千体以上の遺骨が発見されたんですから。子どもも大人も、頭と身体が外れた状態のお骨でね、お気の毒なことに……。なぜ、そうなったのか今ではわからないですけど。静御前の子も、あの場所で葬られたと伝えられていますから。ナミアミダブツ、ナミアミダブツ」と、祖母は、それからひとしきり念仏を唱えものだ。
由比ヶ浜は鶴岡八幡宮から一の鳥居、二の鳥居をくぐって一直線に海につながる場所にあり、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、前浜と書かれている。
ここは、かつての集団墓地だったらしく、たまに人骨が発見されていたが、その後の正式調査で、さらに
現代では湘南の海として、海岸沿いにはオシャレな店が立ち並ぶ。
夏ともなれば、楽しげな音楽が流れ、ビーチハウスが林立して、若者たちがはしゃぎ回る場所だ。
そんな海岸から道路を隔てた場所にある海浜公園は海風が心地よく、多くの親子づれが遊び場にしている。
「あの公園の、車両の中か」
「展示してある江ノ電の車両、あれ、ご存知でしょ? あの中で」
加瀬は嫌な気分がました。
彼にとって江ノ電は、ただの電車ではない。幼い頃、江ノ電の運転手に憧れ、将来、何になりたいと聞かれると、常に、『タンコロの運転手』と答えたものだ。
「タンコロに……」
「タンコロってなんですか」
「おまえは地元じゃなかったな。あの江ノ電車両は、昔からタンコロと呼ばれていたんだ。愛称だよ。それで?」
「木製の座席に、きちんとすわった姿勢で発見されました。首には紐がかかっていて、おそらく絞殺です。それに、両手を手錠でつながれています。僕も現場に出動したばかりで、まずは加瀬さんに連絡をいれなきゃと思って」
「先をつづけてくれ……」
「通報で地域の交番から夜勤の巡査が出動して、まだ詳細はわからないのですが。手に警察手帳を握りしめていたらしく、それで三賀警視とわかったようです」
「本人と確定された訳じゃないんだな!」
加瀬は、あわてて官舎から飛び出して国道へ走り出た。たまたま通りかかったタクシーを警察手帳を振りかざして止めた。
「鎌倉まで飛ばしてくれ」
「事件ですか?」
「いいから、急いでくれ」
高速を使って三十分ほど、薄明るくなった空にまだ街灯が裏寂しく光っている。
タクシーは横浜横須賀道路を走り、朝比奈インターチェンジで降ると、そのまま海岸道路に向かい海浜公園に到着する。
加瀬は何度も何度も三賀の携帯に連絡を入れた。その度に、ツーツーという無機質な音が聞こえるだけで、「おかけになった電話をお呼びしましたが、お出になりません」というアナウンスになる。
半信半疑だった。
警視のはずがない。きっと違う。そんな思いを抱きながら、海浜公園に駆け込んだ。
すぐ警察官の姿が目に入った。
展示用の江ノ電車両の周囲には、関係者以外立入禁止と書かれた黄色い規制テープが貼られている。
眠そうな顔の制服警官が野次馬が中に入らないように警備している。といっても、昼間と違って、まだ人が多いわけではない。
早朝からサーフィンに来た若者数人が、いぶかしげに見ているくらいだ。
「ごくろうさま」
加瀬は警察手帳を見せ、黄色い規制テープのなかに入る。彼を待っていたのか、すぐ田部が駆け寄ってきた。
「今は鑑識の現場検証中か」
「そうです。時間がかかりそうです」
「そうか」
古い車両の内部は狭く、ニスの匂いが強い。加瀬にとって、その匂いが麦わら帽子をかぶって、夏に遊んだ海岸の一番古い思い出である。
車両内部に入ると、鑑識官たちが忙しげに働いていた。
ここで遊んだときよく嗅いだニスの匂いではない。まったく別モノの異様な臭いが鼻腔をつき刺した。それが灯油特有の刺激臭なのは明らかだった。
三賀の姿は鑑識官たちの背に隠れていたが、その姿を見る前に、床の濡れた黒ずみに気づいた。まちがいなく灯油をばら撒いたのだ。しかし、火事は起きていない。
「お邪魔するよ」
「加瀬さんか。聞いたよ、彼の下で働いているって?」
「ああ、三賀警視を知っている。ある事件の調査で呼ばれた。彼は今の上司で、本人かどうか確認したい」
「そうか。知り合いとなると、ショックは大きいよな」
顔馴染みの鑑識官が硬い声で話しかけてきた。臨検していた者たちが、加瀬のために前を開ける。
加瀬は返事をしなかった、というよりできなかった。
三賀が生気の失せた顔で、座席にすわっていた。
(つづく)
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