第3話




 これは、間違いなく明白な殺人事件だ。しかし……。


(三賀さん、なぜだ?)


 頭に浮かぶのは、そんな単純で愚かな疑問だけだった。

 展示用の江ノ電の座席中央、いつものように背筋を伸ばした三賀がすわっていた。まだ生きているように見える。

 昨日、別れ際に彼は珍しくかけてきた彼の言葉が思い浮かんだ。


『加瀬さん、あなたを頼りにしている』


 その言葉に驚いて、『いえ』とだけ短い返事をした。その後、三賀がどんな行動を取ったのか知らない。彼も帰宅するだろうと思っていたのだ。

 その三賀が目前にいる。

 オレンジ色の朝陽が車内に差し込み、スポットライトのように彼を照らし浮きあがらせている。まるで舞台にあがった俳優のように、ムスっとした表情のない顔で、黒いポロシャツに黒いズボン姿の彼は悪魔のようにも見えた。

 加瀬は頭をふった。

 今は冷静になるときだ。冷静に彼の状況を確認して、冷静に証拠を探し、冷静に犯人逮捕に向かい、冷静に、冷静に……。

 唇が震えた。


(三賀さん、なぜ……。そんな、こんなことはあってはならない。なぜ、なぜだ。なぜ、俺は彼に危険があると考えなかった。いや、苛烈な感情のまま危険に飛び込むかもしれないと、なぜ想像しなかった。俺は馬鹿だ。大馬鹿ものだ!)

 

 加瀬は拳を口にあてて噛んだ。強く噛みすぎて皮膚を裂いたのか、血の味が口内に広がる。


(しっかりしろ、この大馬鹿者、冷静に彼を観察するんだ。必ず、犯人を逮捕しろ。いいか、加瀬、おまえは刑事だ)


『加瀬さん、あなたを頼りにしている』


 三賀の状態を刑事の目で調べる。

 三賀はぐっと右の膝小僧を握り、その手首には手錠がかかっている。荷物を乗せる網棚の枠に白い紐が結ばれ……、三賀の首に巻かれている。

 巻かれている?

 いや、違う。締めつけている。


「三賀さん」


 そう呼びかけたのは、彼が返事をするんじゃないかと期待したからだ。

 加瀬は待った。

 自分の目で周囲を探る。

 いない……。

 三賀の見開いた白目は濁り、顔色はチアノーゼにより赤紫ぽく変色し、よく観察するとまぶたのあたりに浮腫が浮きでていた。

 座席に腰を下ろし、膝にきちんと置かれた手は拳を握っている。血管が浮き出た手の甲から、彼の無念さが伝わってくるようだ。

 ごくりと、喉を上下させ唾をのんだ。落ち着くんだと自分に言い聞かせた。落ち着け、落ち着くんだと。

 これは殺人事件に間違いない。

 彼らが捜査している九暁がかかわっているはずだ。そうでなければ、用意周到な三賀が、こんな無様な姿になるはずがない。

 これで、九暁を訴追不能にはしてはいけない。

 ダメだ。それだけはダメだ。いや、これほど明確に他殺だとわかれば、それはない。あとはこれが九暁の仕業という証拠さえ発見できれば、奴らを追い詰めることができる。


「死因は?」

「目視ですが、紐で首を絞められたことによる窒息死だと思います、検視解剖にまわさなければ確定できませんが。事故でないのは明白です……。自殺でもないでしょうから」


 自殺や事故はありえないと、返事しようとして加瀬はできなかった。

 鑑識がさらに何かを話そうとしたとき、彼は車両から飛びだしていた。地平線に登った太陽に目を細めると、嗚咽ではなく胃の中身が喉もとまでせり上がってくる。

 その場で吐いた。

 加瀬は鎌倉警察署の刑事課に属していたが、しかし、殺人が絡まるような凶悪犯罪を担当したことはなかった。そもそも殺人事件など、年間ゼロか、せいぜい数年に一度、ほとんど起きない地域だからだ。

 彼が刑事課として遺体を扱うケースは孤独死が多く、他殺体ではなかった。

 それが、この短い期間で四人目だ。

 いったい、この愛着のある鎌倉で何が起きているのだろうか。それとも、これらのことは全て突発的に起きたことではなく、これまで表面化していなかっただけのことか。

 鎌倉に詳しいからと三賀に呼ばれたが、その役目をうまく成し遂げたとは思えない。


(あなたは、こんなふうに簡単に殺されるような、そんなタマじゃない。用心深く、知的で、計画的だった。これは、あまりに不用意だ。あまりに、あなたらしくない。いったい、なにがあったんだ)


 あの周到な男に、どんな罠を仕掛ければ、こんな結末になるのか。

 九暁はあなどれない。過去におそらく何度も罪を犯しているにちがいないと考えると、全身に鳥肌がたち背中に汗が流れた。

 今の加瀬に悲しいという感情はなかった。怒りとも絶望とも、泣きたいとも、泣きたくないともいった複雑な感情がからみ、なにかが爆発しそうで、加瀬は、ただただ叫びたかった。


(かわいそうに……。復讐に囚われて、そして、……負けたのだ)


 加瀬の肩を叩くものがいて、ふりかえると田部が立っていた。


「加瀬さん、鑑識の所見を話してもいいですか?」

「ああ、頼む」

「死亡推定時間ですが……、死後硬直がはじまって五時間ほどは過ぎているようです。主だった外傷はなく、争った形跡もない。一応、死因は窒息死です。直腸温度三十三度。死後硬直の状況から死亡推定時間は、昨夜の午後十時から翌午前一時の間。でも、すわった姿勢で縊死なんて、可能ですか?」

「それは、可能だよ。いや、むしろ……。紐の長さを見てみろ。車窓の中間くらいだ。その位置から足を引っ張れば、下に落ちて全体重が首にかかれば……、ほぼ即死だろう」


 現場検証が終わり、粛々と事後処理がされていく。三賀は死後硬直がまだとけず、すわった姿勢のままで運ばれた。


「田部、彼の検視解剖はどこの予定だ」

「いつものところです」

「そうか……」といって、それはマズイとは口にしなかった。


 あまり知られていないが、神奈川県の検視解剖数は日本全国を見渡しても異様に多い。

 監察医制度がないにもかかわらず承諾解剖数が異様に高く、全国の解剖総件数の四割以上を神奈川一県が占めている。

 それには理由があって、あるクリニックが解剖を一手に引き受け、ベルトコンベアー式に多くの遺体を解剖しているからだ。


「例の、あそこか」


 加瀬の頭には藤島の顔が浮かんでいた。


「田部、検視解剖は知っている人がいる。そこに送ろう」

「今更、無理ですよ。指定されたんですよ、あそこに送れって。加瀬さん、いったい何に黄昏ているんですか。らしくないです」

「直属上司が殺されたんだよ」

「まだ、他殺とは決まってないですから」

「それ、本気で言っているのか」


 田部はちゃらけているようで用心深い。

 上にも下にも適度に距離をとって、うまく世渡りできるタイプだ。その彼が口もとをすぼめている、おそらく、上司の大脇から何か言いくるめられたにちがいない。


「監視ビデオはどうなっている」

「まだ、調査中ではありますが。コンビニに設置されたビデオ映像で、その時間帯をちらっと見たんですが、昨夜は雨で画像が曇って鮮明じゃないんですよ。ぼんやりした映像しかなくて。犯行当時の映像では、時折、車が走っていく様子はあったんですが、ご存知のように、ここには路駐する場所はありません。駐車場は閉まっている時間帯ですから」

「忽然と、この場にあらわれる訳がないだろう。足取りを調べてくれ」

「わかっています」


 すでに外は完全に日が昇り、海から吹く風が強くなった。


「それで、加瀬さんはどうしますか? 三賀警視に呼ばれて県警に出向したと聞いてますけど。鎌倉署に戻るんすか?」

「いや」


 田部と話しながら、携帯から藤島のメールアドレスに送信すると、すぐに電話がかかってきた。

 彼は、この地域でもっとも信頼のおける解剖医でもあると三賀が言っていた。


「有吏がどうしたって?」


 藤島は三賀を下の名前で呼ぶ。その声が動揺している。以前に会った冷静な藤島とは別人のようだ。ふたりの関係は単なる学生時代の友人なのだろうか。加瀬は、はじめて疑問をもった。


(こんな時に俺が気になるのは、そこか)


「あの、今朝方、三賀さんが遺体で発見されたのですが」


 受話器の向こう側から返事がなく、ただ長い長い沈黙がつづいた。


「死因は?」と、渇いた声が聞こえた。

「部外者に教えるわけにはいかないのですが、彼の両親は他界しており、親戚関係もわからないので」

「だから、死因は?」

「今のところ窒息死でしょう。ただ、似ているんです。以前、あなたに検視解剖を頼んだ三人の焼死体と。床に灯油が撒かれていましたが、火はつけられず燃えていないという違いがありますが」

「有吏は、三賀は、まだそこにいるのか」

「検視解剖に送ったばかりです。おそらく、結果は早くても一週間後でしょう」

「どこに頼んだのだ」


 藤島の声は硬く、爆発しそうな感情を抑えているように聞こえた。クリニックの名前を伝えると、「バカな」と、つぶやいた。


「僕が行く」

「え?」

「だから、僕が解剖する」

「いや、それは難しいでしょう。今回の事件はあきらかに刑事事件ですから」

「君の立場は、三賀直属の部下だったはずだが」

「それは……、確かに神奈川県警に出向して、三賀さんの部下という状況ですが。実際のところ、部下になった期間は短くて」

「その意味は遊軍で自由に動けるという意味でしょう」

「まあ、そうですが。鎌倉署から戻るように言われるまでは、ともかく、そうです」

「だから、会いましょう。彼は」と言って、彼は次の言葉に躊躇した。「遺体は横浜のクリニックに運ばれたんでしょう。時間が空いたとき、メールに送る場所に来てください。頼みます」


 返事をする前に電話が切れた。




(つづく)

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