第4話



 大脇は姿勢を正して厳かに辞令を告げると、薄い唇を舐め、うずうずしたような表情を浮かべた。

 これも彼特有の演技かもしれないが、うって変わって砕けた口調になった。


「いっや、さすがにね、加瀬ちゃん。この話を聞いたときは俺も呆れたよ。まさかの急な辞令でね。昨日の今日じゃなく、今日の今日なんだから。いったい誰に目をつけられたんだ。逆に聞きたいものだ」

「それは、こっちが聞きたいです。大脇さん、実はなにか理由をつかんで隠しているんですよね」

「まったく。いや、すまない。ほんと理解不能さね。抗議の、の字も認めてくれなかった」


 彼の部下に対するスタンスは、常に『理想の上司ナンバー1』だ。

 それは決して理想の上司という意味にはならない。本人が思っているほど、下から理想と思われているわけでも、慕われているわけでもないが、そうした彼の勘違いは憎めないし、時にほほ笑ましいと加瀬は思っている。


「加瀬ちゃん、加瀬さん、加瀬さま。申し訳ないね。この件が終わればさ、いろいろ便宜を図るから、ここは我慢して行ってもらいたい」と、妙に低姿勢な態度で、逆に何か含みを感じた。

「しかし、公安が、なぜ、また」

「ああ、そこなんだよ。公安所属といえば、エリートだよなぁ。その、僻んでいるわけじゃないよ。問題は、その、いや、なんで、君、あの三賀みつが警視に目をつけられたんだか。どこかで会ったの?」


 三賀警視?

 何かに化かされたような気分だった。そんな警視とは、話したこともなければ、面識さえない……、と、思う。


「それ、誰ですか?」

「知らないのかね」

「まったく知りません。その警視って何歳ですか?」

「三十五歳だよ」


 年齢を聞いたのは、警視という役職だからだ。三十五歳で警視ならキャリア官僚にまちがいない。彼のような交番勤務からはじまる叩き上げのノンキャリア警官とは世界が違う。

 ノンキャリアは定年間際でさえ、警視まで昇進するものは少ない。いや、警視に出世したいと思う者が少ないと言ったほうが正しいだろう。

 三十五歳──。

 そこも微妙な年齢だなと加瀬は思った。三十六歳になる加瀬よりも一歳年下である。

 その年齢で警視ということは、キャリア官僚としては出世が遅い。なによりキャリアが現場に出ることはない。いや、出てもらっては現場で支障があることが多いのだ。

 どの視点から考えても厄介そうな相手ではある。

 

「いや、年齢で判断しちゃだめだよ。出世が遅いと思うかもしれないけどね。警察学校を首席で卒業した超優秀な刑事らしい。俺たちには考えられないくらい非常に頭の切れるお方だ。おまけに僕の娘が好きな俳優にも、どことなく似ているらしい。性格は……。とにかくね、頼むよ、加瀬ちゃん。ま、半年も出向してもらえればいいから」

「はあ……」


 自ずと加瀬の語尾は低くなった。


「じゃ、いいね。で、ほんと急だけどね、今から行って欲しい。いや、反論は聞かない。決定事項だから。ほら、これが辞令だ」


 話がここまで進んでいれば、もう加瀬は辞令を受け取り、敬礼して部屋を後にするしかなかった。

 不本意だが、その足で横浜に向かった。

 JR鎌倉駅から横浜駅までは横須賀線で二十五分弱、根岸線に乗り換えて、ひと駅で桜木町駅に到着する。

 桜木町駅から神奈川県警察本部までは、歩いて十五分ほど。赤レンガ倉庫に近く、おしゃれな場所にある。


「田部に挨拶もしなかったな。文句を言われそうだ」と、声に出してつぶやいたのは、いい陽気だったからだ。


 早朝から働いており、疲れも溜まりはじめていた。

 それでも、両手を上げて背伸びしたくなったのは、海に囲まれた汽車道が心地よかったからだ。

 陽光に木の葉がキラキラと輝くさまも美しい……。昨夜の豪雨で空気が澄んでいるせいか、空も抜けるように青かった。

 突然の辞令には混乱したが、『みなとみらい』の景色を眺めていると、一点をのぞいて、しかたあるまいと思えるようになった。

 その一点とは、今すぐという非常識な辞令を強行したことだ。たとえ三賀がキャリア警官であったとしても尋常じゃない……。

 鎌倉の谷戸で焼死体が出て、すぐにこの辞令。つまりは九暁家が関わっているのだろうか。


(俺、やっちまったかぁ? 前からあの家を調査していたことがバレたのか? いや、まさか不正に住民票を取得したことがバレたのか)


 九暁家には謎が多い。かなりの資産家ではあるが、その収入がどこから出ているのかも判然としない。

 鎌倉市に広大な屋敷を持つが、土地家屋の名義人は妻である九暁辻湖くぎょう・つじこ(七十八歳)だ。住民票の世帯主は同い年である夫の九暁宗十郎くぎょう・そうじゅうろうだが、彼は入り婿である。

 神官の家系らしいが、宗教法人の認定はなく、係累には医師が多い。

 御神体はあるようだが、仏教系でもキリスト教系でも、ましてイスラム教系でもない。

 神託を与えるのは妻である辻湖で、家族内では『巫女みこさま』と呼ばれているらしい。


「まったく。なにもかもが普通じゃないな」と、口にしてみた。


 早足で歩いたせいか、思ったより早く県警本部に到着した。ビルをあおぎ見て、先ほどまではカラ元気だったと自覚すると、急に気持ちが萎えてきた。


「まったく……」


 加瀬は自分の頬を両手でパンッと叩いてから、本部ビルに入り案内を乞うた。

 公安の三賀有吏みつが・ゆうり警視の指示で来ましたと伝えると、案内係は微妙な顔つきをした。


『どうも、優秀ではあるんだけど、かなりの変人らしいんだよ。ほんと、すまないなあ。加瀬ちゃん、頼むよ。できるだけ早く戻れるようにはするから。半年、半年の我慢で』と、最後に大脇が言っていた。


 おそらく、公安でも持て余している人物にちがいない。そうでなければ、わざわざ鎌倉署に応援依頼がくるはずがない。その上、加瀬に今日付けで出向しろという離れ業ができるほど、力を持つ存在でもある。


(まったく、厄介なことだな)


 渋々ながら警備部公安課と書かれた部屋まで向かい、加瀬は一呼吸おいてから、扉を開けた。

 室内は広く雑然としており、ほとんどの人は出払っているようだ。


「鎌倉署から今日付けで配属となりました、加瀬和夫かせ・かずおであります」


 部屋には二人しか残っていない。彼らはパソコンから顔を上げ無言でこちらを見て、意味ありげに互いに目配せしている。


三賀有吏みつが・ゆうり警視の依頼で参りました」

「ああ、聞いてますよ」と、年配の男が答えた。

「どちらに伺えばよろしいでしょうか」

「それは、廊下に出て突き当たりの部屋です。『公安特別資料室』と書かれている。そこです」

「ありがとうございます」

「まあ、頑張ってください」と、彼は軽く笑みを浮かべた。


 加瀬は頭を下げると、にっこりと白い歯を見せて笑った。

 指示された場所に向かう。

 廊下に面する部屋の扉は擦りガラスの窓付きだったが、突き当たりの『公安特別資料室』はガラス窓さえなかった。もともとは倉庫だったんじゃないかと思うほど、そっけない。

 扉をノックしたが返答はない。

 しばらく待ってから「入りますからね」と、一応は声をかけて扉を開けた。

 室内は無人だった。

 部屋は八畳くらいだろうか。狭くも広くもない。片面の壁に棚があり、書籍や書類ファイルで埋まっている。棚の向かい側にかなり頑丈そうな大型のデスクがあった。その上に大型パソコンが三台、三面鏡のように置かれている。全体にこざっぱりとして、整頓されていた。

 奥の窓際に別のデスクがあり、一台のパソコンが置いてある。これは部下用だろう。

 窓から外の景色が見えた。海が見える。悪くない。

 数十分ほど、そのまま待っていたが誰も来なかった。足が痺れてきたので部下用だと思う椅子にすわった。こっそりと机の中を見たが文房具以外に何もなかった。主がいないデスクという訳か、と考えた刹那せつな――、

 バンッと扉が大きく開いて、黒い影が加瀬の前を横切っていた。

 おそらく、それが三賀だろう。

 背が高く、スタイルの良い男で、まるで喪服のように全身を黒い服で固めている。整った横顔は鼻筋が通り、眉が濃く、顎がはった意志の強そうな顔つきだ。

 確かに大脇が言った通り、かなりのイケメンである。

 しかし──。

 加瀬は、このような人間を今まで見たことがないと思った。魅力ある容姿にちがいないが、彼の内側から漏れ出る禍々しい「何か」が、なんとなく人を不安な気持ちにさせてしまう。

 黒い怪物。ふいに奇妙な言葉が浮かび、加瀬の背中に冷たい汗が流れた。

 彼は加瀬の存在に気づいていないのか、生き急ぐようにパソコンに入力しはじめた。右手で高速入力しながら、左手で書類の束を繰っている。しばらくして背後にあるプリンタが音を立てると、ようやく口を開いた。


「プリントしたものを持ってきてくれ」


 それまで三賀の存在に圧倒されていた加瀬だが、いきなり雑用を押し付けてきたことに苛立った。

 彼はもう新入りの若造ではない。警官としては中堅であり、それなりに苦労してきた。


「あんた、失礼じゃないか。いきなり呼びつけて、プリントを持ってこいとは」

「言葉通りの意味だ。プリントが必要だ」


 まったく悪びれもせず、三賀は言った。逆に文句を言っている加瀬こそが、非常識だとでもいう態度だった。


(ほおお、やる気か)


 加瀬の目が細くなった。ここでマウントを取られては後々の立ち位置が固定される。加瀬は、めったに敵をつくらない。しかし、それは、けっして下手に出て愛想笑いばかりして培ってきたものではない。

 人間関係はバランスが大事だ。

 弱いばかりでは侮られる、優しいだけでは軽んじられる。加瀬は経験上、そうしたことを知る年齢でもあった。




(つづく)

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