第2話
常ならば、火災現場には交番にいる地域警官が立ち会う。刑事課の人間が最初から出動することは異例だが、そこに彼はいた。
鎌倉警察署刑事課、加瀬和夫巡査部長、三十六歳。
鎌倉署のベテラン刑事で、これまで火災現場にさきだって出動したことはなく、今回は異例の対応だ。まるで死体が転がっているのを予見したような様子で、相棒で部下の
「いったい、なんすか、加瀬さん。火災現場にわざわざ出ばって来るなんて」
「ご奉公だよ」
「思ってもないことを」
火災が、この洋館で起きたから、加瀬はわざわざ出動したのだ。
「なんだ、変か?」
「変っす」と、田部はにべもない。
警察は上下関係がはっきりした組織だ。しかし、こと加瀬に対しては部下たちも遠慮がない。
彼は初対面の人間でも、つい気安く接してしまうような男で、日頃から「仕事は七割の労力で、ほどほど働いて、うまくサボるのがコツだ」と、公に言ってはばからない。
加瀬に敬意を表する部下は少ないが、親しみを持つものは多い。飄々とした態度で、つい人を笑顔にする不思議な魅力を持っている。
「だいたい火は消し止めたようっすね」
「ああ、そろそろ現場検証に入るか」
「やだなぁ、それは。だって消防の管轄ですよ。事件性もなく、火災現場に入っていざこざが起きたら、あとで問題になるっすよ」
「いや、問題にはなりそうにないようだよ」
「えっ?」
煤で汚れた若い消防隊員が、彼らに向かい走ってきた。
「これはいい兆候じゃないな」と皮肉る加瀬を、田部が横目でにらんだ。
「加瀬さん。喜んでるみたいに言わないでください」
消防隊員は近くに来ると、あわてた様子で敬礼した。
「離れ屋のほうで遺体が、あの、黒焦げの焼死体を発見したそうです。大隊長がすぐ知らせてこいと」
「ここは空き家じゃなかったんすか?」
感情がすぐ顔に出る田部が驚いた様子で言う。一方の加瀬はいつもの飄々とした態度で含み笑いを浮かべた。
「じゃ、行こか」
内心は別にして、加瀬は興味のなさそうな声でつぶやいた。
中肉中背で特に目立った特徴もない加瀬は、人畜無害だと思われがちだ。
口をあけ真っ白な歯を見せて無邪気に笑う姿には、少年ぽい魅力があり、わかりやすくいい人に思える。
「消防さん、竹藪に燃え広がることもなく、目を見張るような消火活動ですね。いい仕事でした。ご苦労さまですが、ここからは警察がいい仕事をする出番です」
「またまた、加瀬さぁん。見栄はっちゃって」
「あはは、じゃ、入らせてもらうよ」
洋館から離れ屋に向かう道は竹林に囲まれ、容易には入り口が見つからない。
加瀬と田部は、消防隊員に導かれて裏木戸をくぐる。
消火活動によって踏み荒らされた細道には、まだホースなどが残っていた。
昨晩の土砂降りから、今日は見事な晴天になった。空気は澄んでいるはずだが、煤が舞う火災現場には焦げた匂いが充満している。
加瀬は樹木や草花が放つ鎌倉の匂いが好きで、それが汚されたようで嫌な気分になった。
袖で口をふさぎ、離れ屋に向かう。
純和風の家は洋館に比べ燃えやすい。洋館は外壁レンガが黒ずんだのみだが、こちらは完全に焼け落ちていた。
「加瀬ですが、刑事課の大脇課長に繋いでくれ……、ああ、大脇さん、火災の通報現場から遺体が発見されました。え? なぜいるかって? ま、そこは後ほど。とにかく火事場から三つの焼死体が発見されました。鑑識が来るまで、現場を保存しますから、ええ、すぐに応援を頼みます。はいはい、朝から大変なことになりそうです。とにかく、まずは鑑識を手配してもらえれば。じゃあ、後ほど……」
「加瀬さん」
「ああ、やはり来て正解だったな。それで遺体はどこかな」
声をかけた消防隊員が、「こちらです」と教えた。
「離れ屋のメインルームでしょうね。瓦礫を片付けていたら、折り重なるような遺体を発見しました」
彼は説明しながら、瓦礫でうまった場所へ案内した。焼け残った屋根の一部が、今にもくずれ落ちそうだ。
黒く焦げた支柱だけは残っており、そこから類推するに八畳から十畳くらいの和室だろう。大隊長が手招きしている。
「おお、来たか、加瀬さん」
「大隊長、大変なものを見つけちゃいましたね」
「ああ、ここだけの話、かなり驚いたよ」
遺体は消火活動の直後のためにずぶ濡れで、赤く腫れ上がっている。
一見するだけでは性別の見分けがつかなかった。
遺体のひとりはかなり大柄だ。百九十センチくらいの身長がありそうで、まちがいなく男だろう。残りの二人は識別できない。
鑑識が到着するまで、加瀬たちの仕事は現場保全が第一になる。
「やれやれ」と、加瀬は口に出した。
この場所は以前から嫌な予感がした。
鎌倉は凶悪事件など、めったに起きない地域だ。鎌倉市全体をみても、たとえば殺人事件など、数年に一件あるかないかである。
この空き家で発見された焼死体は、チンピラどもがした危険な夜遊びの結果ではないと直感した。
それには加瀬なりの理由がある。
地域の交番勤務では、個別に家庭訪問して『巡回連絡カード』を記入する業務がある。
十数年前、まだ若かった彼は交番勤務の巡査として屋敷を訪れた。誰も住んでいる気配がないと前任者から聞いてはいた。実際、インターフォンを押しても応対する者はいなかった。
過去の巡回連絡カードには、『住民票に住民の記載はなく、人が住んでいる気配もない』とメモしてある。空き家で表札もないが、しかし、誰かが出入りしているのはまちがいない。
警官として勘というものがあるとしたら、この時、彼はそれを強烈に感じた。
『加瀬よ、何か気になるのか』と、当時の先輩に聞かれた。
『正門の向こう側から、なにやら怪しい気配がするんだよ』
そういうと、先輩は笑った。
『幽霊でも見たんかい? 加瀬ちゃん』
『いや、霊的なものなんて信じない。でも、あの家は、ちょっとな。なんかこう、引っかかる』
そう冗談のようにして笑ったが、彼なりに本気だった。
三年後、再び同じ業務で屋敷を訪れたが、やはり応答はない。しかし、完全に放置されているわけでもない。
もし放置しているのならば、鉄格子先の私道には雑草が生え、歩くこともままならないほど荒れるはずだが、そこは綺麗に整備されている。誰かが手入れしているのだ。二年か三年ほど前だったか、一度だけ雇いの清掃員だという二人を見かけたことがある。
その当時は相続問題で揉めて空き家になっているのだろうと考えた。
鎌倉市内の空き家率は、おおよそ一割程度で、その多くの理由は遺産相続問題だからだ。
ぼんやりと鑑識を待ちながら考えていると、大隊長が携帯を片手に大声で話すのが聞こえてきた。彼は、しばらく怒った口調でやり取りをしたあと、苛立ちながら電話を切った。
気になった加瀬は声をかけた。
「何かあったのかい?」
大隊長は怒りに任せた勢いで話してきた。
「ああ、加瀬さん。消防本部から連絡があったんだが、信じられるか」
これは、いい話であるはずがない。思わず逃げ腰になった加瀬は照れ隠しに頭をかいた。
「おっと、あっちに呼ばれた気がする」
「誰が呼んでる。無駄だ。俺は言うぞ」
「ああ、いや、聞いても力になれそうにないが」
「消防本部から連絡があったのは、マスコミ関連のことだよ。あんたのところの都合で、遺体が出たことを内密にしておきたいそうだ」
今の時点では、報道関係者は火事をかぎつけていない。消防に先手を打って、マスコミ対策をしたとなると、警察の上層部が動いたにちがいない。
「これは、不良たちの火遊びとか、タバコの不始末とかじゃなさそうだな」
「ああ、まちがいない。タバコの不始末程度の焼け方じゃない。灯油の匂いも残っている。経験上から言うが、今日の空気は湿っている。昨日は雨だったという理由もあるが、もともと鎌倉は湿気が多い。それなのに全焼するほど、火のまわりが激しかったことは不自然だよ」
「そうだな。放火か、ことによると放火殺人かもしれない。署から鑑識が来るまで現場を保存したい。申し訳ないが、撤退してもらってもいいかな」
「ああ、よかろう」
大隊長が命令する声には苛立ちが混じっていた。マスコミに漏らすなとか、警察側から指図されたくなかったのだろう。
「お〜〜い、引き上げだ。現場を荒らさんように帰るぞ。マスコミにも漏らすな。いいか? 漏らすと逮捕されるからな」
消防にとって、焼け跡後の調査は消火活動以上に重要な作業だ。遺体が出たとなると、時に警察と消防の縄張り争いで緊張が走ることもある。
大隊長がそれでも従ったのは、加瀬の人柄もあっただろう。
(つづく)
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