第5話




 ポトンポトン、ポ、ポトン……。


 禰宜ねぎが調節するたびに、少し狂ったリズムを刻み、陣痛を促進する点滴が落ちていく。

 紫緒の身体が点滴に反応して、ビクッビクッと小刻みに跳ねた。


「長谷川、背後から支えよ」

「はっ」


 長谷川は彼女の背後にまわり、ぐったりした身体を抱き起こす。

 胸に支えられても紫緒はだらりと滑り落ちそうで、禰宜が身体を固定するために天井から吊り下げた白い布に両手首を結んだ。両手を上げた紫緒の姿はあまりにも無防備だった。

 血の気が失せたまま、顔だけはガクンガクンと動く。


「長谷川よ。両足を開いておさえよ。陣痛がはじまる」


 彼らの正面にすわる老人の前で、長谷川は紫緒の太ももを両手でつかみ、白く細い足を左右に大きく広げた。


「ぅ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ」


 紫緒が咆哮した。


「促進剤が効いてきたようだ。はじまるぞ」


 宜綺は全身の感覚を研ぎ澄まして、室内の様子を伺っていた。障子の向こう側が見える。

 空は今にも雨になりそうな雲行きで風が強く吹きはじめた。轟々ごうごうとなる竹林の音を遮るように、紫緒の絶叫が聞こえる。

 宜綺は部屋から漏れる黒い靄を見つめた。


「どうした、宜綺。何を見ている」


 地面に『くろいもや』と書くと、「見えるのか」と彭爺が聞いた。

 宜綺はうなずく。


「やはり、おまえにも能力があるのだろう。憐れな子だ」


 部屋からの叫び声は激しさを増した。


「ぅ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ」


 宜綺の身体に緊張が走り、腕の血管が浮き出るほど強く拳を握りしめている。


「耐えるんだ、宜綺。出産とは命がけだ。とくに、御子さまは半魂はんごんだ。本能的に生まれることを嫌悪なさる。半分を怨念に満たされたまま、世に出たくないとあらがう。だから、今は中には入れん。それに入っても助けることなどできない。もう産むしか道はない」


 彭爺の言葉に彼は唇を噛み締めた。唇から一雫の血が流れ顎を汚して落ちていく。


 ポトン、ポトン、ポトン……。


「天が暗くなった。雨になるな」と、彭爺はわざと話をそらした。

「ほら、黒い雲が厚くなり空を走っている。これは、嵐になるかもしれん。風が強い」


 竹がしなるように鳴っていた。

 彭爺は庭の岩に腰を下ろすと、産室を眺めた。

 昼からはじまった出産は、すでに五時間を超えている。遠く、雲が光る。遠雷が聞こえ、ぽつり、ぽつりと空から雫が落ちきた。

 雷が近くなる。

 すぐに轟くような雷鳴が空気を切り裂き、空に稲光が走る。

 その時だった。

 ひときわ大きな叫び声が聞こえ、そして、静かになった。

 雨が滝のように宜綺に降りそそぐ。ずぶ濡れのまま、宜綺は庭に立ち尽くし動かなかった。


(紫緒、紫緒、紫緒)


 宜綺の思念に呼応したのか、障子戸が開き縁側に老人が出てきた。その手に生まれたばかりの赤児を抱えている。宜綺は目を剥いた。

 赤児のためではない。

 赤児は臍帯をつないだまま、その先にはズルズルとした赤いものを引きずっている。

 宜綺が見たのは、その先。

 紫緒の姿だ。血まみれの半裸の姿で床に無惨に転がっている。はじめて、宜綺は、いかに紫緒が大切なのか自覚した。

 何事にも囚われず、日々、淡々と過ごしてきた宜綺に見知らぬ感情が生まれた。

 愛という言葉が陳腐になるほど、彼の思いは深く、そこにあてはめる正しい言葉はなかった。いったいどんな言葉で表現したらいいのだろうか。疲れ果て、ゴミのように打ち捨てられた血まみれの女に対する、彼の強烈な憐憫れんびんを。


(紫緒、紫緒、紫緒……、目を開けてくれ。生きてくれ。紫緒、紫緒……)


 禰宜ねぎが赤児の臍帯を切ると、祭壇に飾られた酒に浸す。

 彭爺が産室に入り、その酒の器を受け取って、それぞれの盃に注ぎ、老人と禰宜、長谷川に配る。


「呪なる御酒おしゅをお開けください」

「コトホギ、コトホギ、コトホギ」


 三人は同じ言葉を三回繰り返して、御酒おしゅを飲み干し、老人は感極まった声でつぶやいた。


「やっと御子さまがお生まれになった。ついに」


(なぜだ。なぜ、こんなことに)


 宜綺の心は千々に切り裂かれていた。


(紫緒、紫緒、紫緒……。かわいそうに、これほど辛い思いをして、紫緒、紫緒、紫緒……!)


 宜綺は地面に足が張り付いたように動けない。紫緒が目を開いた。憎悪に満ちた、その目で宜綺を刺した。


(だめだ、紫緒)


「……、呪われし煉獄の御子よ……、呪殺せよ!」


 息も絶え絶えに紫緒は呪いの言葉を吐き捨てた。宜綺が絶叫した。走った。渡り廊下を駆け抜け、彼女のもとへいく。


「む、宜綺。声がでるのか」と、彭爺が驚いた。


 宜綺は何も聞こえなかった、ただ紫緒の身体を抱き起こして揺らした。


「宜綺、もう、身体がもつまい。このまま死なせてやるほうが本人のためだ」


 宜綺は壊れものを扱うように、だらんとした紫緒の裸体を着物でおおい、シーツの上に横たえ、獣のような咆哮をあげた。


「宜綺……、やめろっ!」と、彭爺が震える手で彼の腰をつかもうとした。


 宜綺は頭から長谷川の腹に突進すると、彼の身体を吹っ飛ばした。彭爺が必死に止めようとして、また腰にすがりつく。

 不意をつかれた長谷川は倒れはしたが、すぐに起き上がり、宜綺の頬に強烈なパンチをくりだす。


「やめてください。こ、この子は、正気を失っている」


 彭爺が宜綺をかばって、彼の前に出た。

 殴るのをやめた長谷川は先ほどの衝撃がまだ残っているのか、腹部を手で押さえ頭をふった。黒い影がじわじわと周囲に押し寄せてきた。ざわざわと、まるでイナゴの大群が押し寄せるように影が男たちの身体を包む。


 雨が止んだ。




(第1章完:つづく) 

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