第4話



 鎌倉のシンボル木は『やまざくら』で、三月から四月にかけてが見頃になる。

 近くで生息する野生のやまざくらは、十数日ほどで花を散らし、その花びらがひらひらと風に運ばれて庭に落ちるさまは、まるで雪が舞うかのように美しい。

 やまざくらが散る頃、鎌倉は、もっとも美しい花の季節を迎える。

 そんな四月になっても、紫緒は産気づかなかった。

 出産予定日をかなり過ぎたが、いっこうに陣痛がはじまらない。生まれるのを拒否するかのように、ただ時だけが過ぎていった。


 一日、二日……七日、十日……。

 

 陣痛は訪れず、異様に大きくなった腹部に、宜綺むべきは不吉なものを感じた。

 はち切れんばかりに膨らんだ腹は、破裂するのではないかと恐れるほどだ。

 そうして、紫緒は立ち上がることもできなくなった。横になったまま、息をするのも辛そうで、宜綺の胸は傷んだ。


「く、苦しい、宜綺。苦しくて死にそう。……助けて。いっそ、わたしを殺して。どうか、わたしを、はあはあはあ……、く、苦しくて、辛い、息ができない」


 荒い息のなか、何度も苦痛を訴える紫緒の姿に宜綺は無力な自分を呪った。まがまがしい黒い靄はさらに色濃く彼女の身体に巻きついている。それがのは宜綺だけのようだ。

 食事も喉を通らず、白湯と粥だけの日々。美しかった紫緒の身体は痩せ衰え、白目は充血して、頬骨が目立つようになった。

 腹部に巣くった何かは、彼女を喰らうかのように成長した。

 宜綺は恐ろしかった。

 これまでは禰宜でもある産科医が、月に一度、検診をかねて様子を見に来たが、最近では毎日訪ねてくるようになった。

 ある日、「このままでは器が持たないだろう」と、彼が告げた。


「どうなさいますか?」

「かくなる上は、強引な手段を使ってでも産ませるしかあるまい。総師さまに伺い、連絡する」

「帝王切開をなさるには、ここでは」

「いや、それはできない。御子さまは自然に生まれなければならないのだ」


 禰宜ねぎは準備を整えて、翌日に離れ屋を訪れた。


「ここは聖なる祭室であり、産室になるのだ。結界は丁寧に張らねばならない」と、神経を尖らせた声で命じ、ふたりに指示した。


 部屋の四方を紫色の神符で結界をはり、天井から白い布紐を二本垂らす。その下にシーツを敷き、最後に部屋を清めの水で祓う。

 その間も隣の寝室から紫緒の荒い息が聞こえていた。

 準備が終わるころ、八ヶ月前に紫緒を運んで来た黒塗りのセダンが、再び洋館を訪れた。

 筋骨たくましい運転手がキビキビとした動作で後部座席のドアを開けると、老人が降りてきた。彼は周囲を見渡してから、迎えに出た彭爺にたずねた。


「器はどこにいる」

「離れ屋の寝室の間にいらっしゃいます」

「準備はできておるのか」

「滞りなく」

「長谷川」と、老人が名前を呼んだ。


 長谷川と呼ばれた若い男は軍人のような態度で、きびきびとうなずいた。


「器を部屋へ運びなさい」

「はっ!」と、男は再び軍隊式に答えた。


 離れ屋に入った長谷川は、寝室に入ると同時に顔をしかめ鼻と口を手でおおった。

 起き上がることもできなくなった紫緒は、半月ほど垂れ流しの状態で、宜綺が世話をしたが、それでも匂いは取れない。

 禰宜が寝室に入ると、白い陶器に入った水をさかきの葉に含ませ、彼女に振りかけた。水に何か入っているのだろう、沈香のような甘い香りがする。

 その間も、紫緒はずっとうめいている。


「助けて、わ、わたしを……」

「紫緒さま、これから陣痛促進剤を使います。もうしばらくの辛抱です」


 禰宜はそう告げると、長谷川に合図した。

 長谷川はそっと彼女を抱き上げようとしたが、思った以上に重かったのだろうか、片膝をついたまま、しばらく、抱き上げることができず、首もとに血管が浮き出た。

 影のように部屋のすみにいた宜綺むべきが手を出した。


「抱き上げられるのか?」


 宜綺は静かにうなずいて、長谷川とかわった。

 壊れものを扱うように優しく彼女を抱きあげた宜綺は、清められた主室に入ると、その中央に紫緒を下ろす。


「おまえたちは外に出ろ」


 禰宜の命に宜綺は抗おうとしたが、彭爺が止めた。


「出産がはじまるのだよ、宜綺むべき。わしたちは外にいるべきだ」


 老人と禰宜、それから長谷川を残して彼らは庭に出た。


「では、総師。はじめます」

「ああ、思っていた以上に重体のようだ。すぐはじめよ」


 禰宜は紫緒の傍に膝をつくと、点滴の針を痩せこけた腕に刺そうとしたが、なかなか入らない。

 血管は浮き出ているが、細すぎて針が入り辛いのだ。

 何度も刺す針の苦痛から紫緒は無意識に動き回る。

 すでに息もたえだえな状態で、ときどき漏らす息が獣の咆哮のようだ。その声を庭先で聞いた宜綺は耳を抑える。


「耐えろ、宜綺。産むしか道はないのだ」と、彭爺はなぐさめるように肩にそっと手をおいた。


 海風が谷戸やとに吹きよせ、庭に咲く椿の花を、ぼとんぼとんと地面に散らす。

 主室から音が消えた。するどい聴覚を持つ宜綺でさえ聞き取れない。と、禰宜の低い声がした。


「長谷川、器を抑えろ」


 陣痛促進剤を入れた点滴が紫緒の身体に入る。通常より多めに投与しており、点滴速度も異様に早い。


「腹部の様子から、一般的な投与では……。母体は危険ですが」

「よい、御子さまが大事なければ、それで良い」


 小一時間、紫緒の身体がびくんとそり返った。


「ぅ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ」

「ようよう、はじまったようだ。長谷川、座位で拘束せよ」




(つづく)

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