第3話




 鎌倉の冬は空気が澄み、美しく晴れあがる日が多い。

 江ノ島周辺や高い建物からなら、白い雪に覆われた富士山の雄大な姿が見えるのも、この時期だ。

 宜綺むべきは鎌倉の冬が好きだった。しかし、彼にそうした美意識があるとは、誰も想像できないだろう。

 宜綺は寡黙だ。

 黙々と日々の作業をこなす姿は孤独を好むように見え、端正な容貌なだけに、彭爺ほうじいでさえも、うかつに声をかけられない雰囲気がある。

 今年は記録的な暖冬だが、それでも一月末頃、積もるほど雪がふった。

(早くに湯を沸かしたほうがいい)と、彼が思ったのは、離れ家の土間に冷気が忍びこみ、底冷えするようになったからだ。

 昔の日本家屋は夏を基本に造られている。

 築百年は超える離れ屋はエアコンの暖房だけでは足もとが冷える。建物の構造上、床下が剥き出しで寒風がつねに通り抜け、部屋に隙間風を忍ばせるからだ。

 紫緒が離れ家に住むようになり、宜綺むべきは神経を研ぎ澄ませた。

 紫緒の動き。

 紫緒の息遣い。

 紫緒の声。

 父親のように気遣い、世話をすることで彼女を守った。



 その日も、紫緒の眠りは浅いようだった。寒さに何度も寝返りをうち、起きあがろうかどうか悩んでいる彼女のために、土間にあるガスコンロに火をつけ湯をわかす。

 シューシューとやかんが鳴き、ぜる音がする頃合いで、コンロの火を弱める。


「起きているの?」


 障子戸の向こう側から、澄んだ細い声がする。紫緒の声は甘い。

(起こしてしまったのかい)と、心のなかで宜綺は答える。


「宜綺?」


 彼は言葉の代わりに、軽く手を叩いて返事をする。


「寒いわ」


 宜綺は土間の上がりかまちに足をかけ、そこで躊躇する。その場に立ちつくしたまま、迷い、困惑する。

 寒いというだけで、紫緒は何も言わない。

 彼は主室を巡る渡り廊下を忍び歩き、庭に面した廊下の障子前で膝をついて待った。


(どうしたらいい?)


 紫緒は答えない。

 庭に面した窓枠には結露ができ、ガラスは白く滲んでいる。


(雪がふっている)


 淡い牡丹雪が音もなくふっていた。

 黒い地面を白い雪がおおい、竹林に積もり、世界をまっさらに染めている。

 普段、紫緒は主室の隣部屋を寝室にしている。

 コンコンと障子戸を叩くと、「なに?」という声が聞こえ、カサカサと音がして、障子戸が開いた。


「あら、雪がふっていたのね……」


 彼は静かにうなずき、庭の一点を指さす。

 白い世界にロウバイの黄色い花が芽を出し、ほころびはじめていた。

 彼はガラス戸を開け、廊下から庭に降りると、まっさらな雪に足あとをつけながら、ロウバイまで歩き、その枝を手折る。


「何をしているの?」と、背後から声がする。


 振り返ると廻り廊下に紫緒が立っていた。

 紫緒は小柄で身体つきも子どものように細い。その胎内で新しい生命が息づいているのが不思議なくらい、弱々しく今にも空気に消えていきそうだ。

 薄紫の部屋着に膨らんだ腹を守るように右手で支えた。寒さに白くなった肌は透けるようで……、その美しさと妖気に、はっとして宜綺は息をのむ。

 彼女の周りを黒い煙のようなもやが囲んでいる。

 宜綺は両目を揉んで、もう一度、紫緒を眺めた。

 やはり見える。

 宜綺の卓越した耳には、シューッ、シューッという蛇がとぐろを巻くような息遣いが聞こえる。

 靄のような黒いものには覚えがある。

 離れ屋の裏に小さなほこらまつる場所がある。注連縄のはられた祭壇に、清めた御水を捧げることは、宜綺に与えられた仕事のひとつだ。

 宜綺は、この祠に行くことが好きではなかった。

 祠を取り巻く禍々しい気配に身体が侵されていく感覚が恐ろしい。黒く、どろんとした闇が口を開けて待っているような不吉な場所だと思う。

 それが、紫緒を取り囲んでいると感じた。まるで我がモノに触れるなとでもいうように、宜綺を威嚇する。


「どうしたの?」


 声がでないことを、宜綺は痛感する。逃げるんだ。そう言いたいが、ただ、彼女をせつなげに見つめるしか術がない。

 紫緒が静かに言葉をかける。


「見えるの?」


 宜綺はうなずいた。


「そう……、わたしも感じる。なにか得体の知れないもので、怖い。でも、わたしはそれから逃げることができないの。わたしね、器なの。この子は九暁家の卵子と精子が受精したモノだから。あれらの者が望む何かを産む器が……。それがわたしだから。そういう存在って知っている? 代理母って」


 代理母という言葉を知らない。宜綺は学校に通ったことがなかった。ずっと、この家で育ち、外へ出たことがないから知識が偏っている。

 宜綺の知る人間は、ほぼ彭爺だけで……、いや、もうひとり知っていた。

 たまに訪れる男だ。彭爺によれば警官だと言う。一度、門近くの雑草を取っていたとき、鉄格子の向こう側から声をかけられた。


『すみません、ここの人ですか? 鎌倉警察署の加瀬かせと言いますが』


 背の高い宜綺の肩あたりの身長で、警官の制服を着て制帽をかぶっている。加瀬と名乗った男は人の良さそうな顔で穏やかに話しかけてきた。


『いえ、清掃の者です』と、彭爺が嘘をついた。

『清掃?』

『はあ、日雇いで働いておりますで』

『そうですか? ここの人は?』

『誰も住んでないようですが』

『どこの清掃会社?』

『あの、なんですか。わしらに聞かれても。ここの持ち主に聞いてください。宜綺むべき、庭の方も今日中に片付けよう』


 彭爺に急かされて、その場を去った。振り返ると警官はずっとこちらを見ていた。


『いいか、宜綺。ああいう奴らは悪魔だよ。ぜったいに俺らがここに住んでいることを知られてはならん』と、かなり離れてから彭爺が囁いた。


 彭爺は悪霊の存在について恐ろしい話をした。昔のことだが、この家で生まれた子が誘拐されたという。


『この家から子どもを誘拐した者がいた。あの子は生まれてまだ一歳にもならんかった。確か、ミツ、ミガ? そうだ、三賀みつがという名前だった。ここを離れたら呪われるのにな。かわいそうだが、その後、その子がどうなったが知らん。誘拐した弁護士は、妻といっしょに自動車事故で死んだとかで……、因果応報ってやつだな』


 宜綺は彭爺の話にうなずいたが、現実とは思えなかった。どこか遠い幻想の世界に思えた。


(ここを離れたら呪われる)という言葉だけが耳に残った。


 紫緒しおも、自分も逃げられない。逃げてはいけない。大事なことは、それだけだ。宜綺は手折ったロウバイの枝を朝食の膳に添えてから、紫緒のもとへ運ぶ。

 紫緒はふとんの上で正座して、なにかを感じているようだった。


(大丈夫かい?)


「ねぇ、宜綺むべき。わたしは……、この世に生まれてから、望みなど持っていなかった。でも、あなたといると、死ぬことが怖くなってきたわ」


 それは愛の言葉のように耳に心地よかった。


(けっして、あなたを死なせない。僕が守ってみせます)


 布団からでた紫緒の肌は寒さで鳥肌が立っている。

 食事を置いて土間に戻った宜綺は、底冷えする部屋に灯油ストーブを運んだ。ストーブに火を入れると油っぽい匂いに、彼女は吐き気がするようだ。

 それをいち早く察した宜綺は、ストーブを土間まで持っていき、部屋の空気を変える。

 紫緒が静かに語りかける。


「雪が降ると音が消えるから、余計にあれらのモノたちがあらわれる……、わたし、怖いの、宜綺。この子をみごもってから、奇妙なモノたちが見えるようになった。だから、死ぬのが怖い。死んだあとに、まだ何かがあるとしたら、それは、とても怖いことでしょう?」


 宜綺は口がきけないだけでなく、感情をあらわさない。ただ目が語る。その目は慈しみに満ち、どこまでも優しく紫緒を見つめる。


「わたしは男に抱かれたことがないの。その意味がわかる? 宜綺。この子は体外受精で授かった子よ。なにが生まれようとしているのかわからない。でも、同時に、この子を愛している。ほら、また、なにかが語っている」


 淡々と語る紫緒をなぐさめたくて、宜綺はそっと手を伸ばす。その手は途中の空間で止まる。

 土間からの熱をもった空気が部屋を暖めていた。

 宜綺は彼女を眺める。それは切なくなるほど悲しく愛情深い。


「あなたは、わたしに恋しているの」と、彼女がささやいた。


 宜綺は答える言葉をもたなかった。




(つづく)

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