第2話
離れ屋は洋館の裏手にあった。
入り口となる裏木戸は誰かに教えられなければ気づかないほど、鬱蒼とした竹林に埋もれている。
その先へ歩けば、開けた場所に至るなど思いもよらない。
小道を歩いて時を超えたのかと錯覚するほどだ。さらに竹林に囲まれて建つ離れ屋には驚く人もいるかもしれない。
昭和初期に建てられたかのような日本家屋。
一歩足を踏み入れれば、さらにその思いを強くする。まるで過去に迷い込んだかのようだ。
入り口には台所も兼ねた広い土間があり。
ひなびた佇まいに
「宜綺、
日々、決まりきった生活を過ごす孤独な青年にとって、
宜綺は離れ屋の土間に入ったが、どうしてよいかわからない。ただ、ぼうっと女を見つめた。
女は空気に透け消えてしまいそうなほど儚げで、神秘的でもあり、美しかった。抱きしめると折れそうなほど細い腰は人のものとは思えず、彼は、その美しさに呆然としている。
美は時に暴力になる。
翌朝、
うつろな目をした彼女は視線を泳がせ、宜綺が頭を下げて挨拶しても、誰もいないかのように無表情だった。
実は、
生まれつき声帯が潰れているのか、声が不自由なだけで、耳も目も発達していた。ほんの微かな気配、音、それらをすべて感覚的に吸収することを、
「今日から離れ屋に住むから、おまえに頼むよ」と、彭爺が
紫緒はよく吐いた。
宜綺が介護しようとして手をさし出すたびに、彼女はそれを乱暴に振り払う。まるですべての苛立ちをぶつけるような冷たい態度に、普通の青年なら怒りを覚えるだろう。
宜綺は違う。
彼はよく『死』を考える。
自分の死でも、他人の死でもなく、死という概念について、その形について、それは彼にとって、安らぎでもあるのだ。
そんな宜綺にとって、彼女の姿は生きようと
食べては、吐き。
吐いては、食べ。
青ざめ、ふらふらになりながらも、彼女は生に執着する。
宜綺は消化のよい粥を用意する。しかし、
いつしか、
宜綺の用意した料理を黙って食べ、そして、しばらくして吐く。土間で煮物をしていると、その匂いに彼女は敏感に反応することを知って、宜綺は母屋の洋館で料理をするようになった。
「赤児が腹にいるんだ。だから吐くんだよ。酸っぱいものがいいんだがね」と、
彭爺は妊婦のための本を宜綺に与えた。
「これらの絵を見るといい。他にも医学書があるが読めんだろう。字は読めなくても絵でわかるだろう」
小学校も出ていない宜綺は、一般的に言えば無学だ。彭爺が教師となって簡単な文字を教えなければ、完璧な文盲だったろう。
その彭爺も、ひらがながわかる程度だ。
埃をかぶった洋館の書庫には、あらゆる本が集められている。その場所に入ることを彭爺は許可した。
宜綺は妊娠初期の女性に良いという食べ物を調べる。
暇を持て余すだろうから、小説のほか、絵画集とか、美しい風景写真集を彼は離れ屋に持っていき、彼女が手にとる本を観察して、翌日は同じ系統のものを届ける。
宜綺は世話をしながら、彼女の目に入ることを恐れた。
「ここはどこなの?」
「名前は?」
紫緒が
その日、宜綺は縁側で収穫した渋柿の皮をむいていた。二十個ほどの柿をむき、用意した麻紐でヘタ部分をくくり、五個づつ繋いでいく。
鎌倉の紅葉は十一月頃からはじまる。いつしか庭の木々が色づき、枯れ葉が舞うようになった。
宜綺が縁側にすわり、渋柿の皮をむいていると、紫緒が少し離れて腰を下ろした。彼女が彼を見た。柿をむくのが珍しいのだろうか、その様子が幼く見えて、宜綺の顔が微かにほころぶ。
いつも目で追うのは彼の役目だったのに、今日は彼女が追っている。
視線が合い、宜綺は照れて下を向く。
「それ、何をしているの」
宜綺は渋柿をおくと、枝をひろって、「ほしがき」と地面に書いた。
その文字に興味を失ったのか、紫緒は目を閉じる。
宜綺も同じように目を閉じた。
まるで双子の男女のように、彼らは同じ角度で顔を上げ、同じように背後に両手をつき身体を支えている。
自然に抱かれ、その音を聞く様子は、はたから見ると神秘的でさえあった。
庭は旋律のない音楽に溢れている。
コオロギや鈴虫の鳴き声。風の音。さやさやと葉が重なり揺れる音。カサっと音を立てて枯れ葉が地面に落ちる。
紫緒と宜綺は共にすわり、同じ音を聞き、同じ空気を吸っている。
少し離れた場所で様子を見る彭爺の目に、涙が浮かんだ。彼は、その理由がわからなかった。ただ胸が痛んだ。
「宜綺……」と声をかけようとしたとき、宜綺の喉仏がごくりと上下した。
紫緒はまぶたをあげ、隣にいる彼を見つめる。彼女の視線に気づいて彼もゆっくりと顔を向ける。
ザルに入った渋柿を彼女の白い指が弄んでいる。そのひとつを取り、太陽にかざしてから、そっと噛もうとした。
「これを食べては、ダメなの?」
紫緒がつぶやく。宜綺に言っているのではない。誰か、何かに、彼女は声をかけ、ぷっくらとした赤い唇の先にある渋柿に目を落とす。
「そう」
彼女は、そこにいる見えない者に返事をする。
実際、生の渋柿は食べられたものではない。その味を知っている宜綺はうつむいて横に首をふった。
「これは食べられないのね。宜綺」
「……」
「そう、やっぱり。あの子の言うとおりだわ。不思議ね、宜綺。子を宿してから、なぜか見えるようになったの。怖くはないわ。だって、そこにいるだけだから。宜綺といっしょ」
宜綺はかすかにほほ笑み、紫緒の手から渋柿をそっと取りあげ、両手でバツを作って食べてはだめだと伝える。
その様子が真剣すぎて、彼女は吹き出した。
「ひどい人ね。この味を知って、わたしに勧めたの?」
宜綺は真顔で首を振り、それを否定する。紫緒は笑った。ぽってりした唇の間から、白い歯が浮いている。
その身体を抱き締められたら、どれほど胸が高鳴るだろう。
宜綺はそんな想像しているように見える。頬がうっすらと赤くなった姿に、遠くから見守っていた彭爺は内心で笑った。
静かに日々が過ぎていく。
冬に向かい、紫緒の腹が大きくふくらみはじめた。
(つづく)
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