第2話



 離れ屋は洋館の裏手にあった。

 入り口となる裏木戸は誰かに教えられなければ気づかないほど、鬱蒼とした竹林に埋もれている。

 その先へ歩けば、開けた場所に至るなど思いもよらない。

 小道を歩いて時を超えたのかと錯覚するほどだ。さらに竹林に囲まれて建つ離れ屋には驚く人もいるかもしれない。

 昭和初期に建てられたかのような日本家屋。

 一歩足を踏み入れれば、さらにその思いを強くする。まるで過去に迷い込んだかのようだ。

 入り口には台所も兼ねた広い土間があり。

 かまちをあがれば、タタミ部屋が三室。主室は十畳間で、壁の一角にある棚には書籍が並ぶ。隣の四畳半が寝室で部屋の周囲を廊下がかこっていた。

 宜綺むべきが寝起きする部屋は奥まった三畳の小部屋だった。以前は物置に使っていた場所である。

 ひなびた佇まいに宜綺むべきは完璧に溶け込んでいる。まるで、古い家具のように、雨戸の戸袋のように、縁側のように、自然に存在していた。


「宜綺、紫緒しおさまの荷物を運んで、主室に案内しなさい」


 日々、決まりきった生活を過ごす孤独な青年にとって、紫緒しおの登場は静かな湖畔に石が投げ込まれたような波紋を与えた。

 宜綺は離れ屋の土間に入ったが、どうしてよいかわからない。ただ、ぼうっと女を見つめた。

 女は空気に透け消えてしまいそうなほど儚げで、神秘的でもあり、美しかった。抱きしめると折れそうなほど細い腰は人のものとは思えず、彼は、その美しさに呆然としている。

 美は時に暴力になる。

 紫緒しおは、そんな彼の横をするりと抜け、部屋に入ると、その場で気を失った。




 翌朝、紫緒しおは薄紫色のオーガンジーのワンピースを着て、離れ屋の縁台に腰を下ろしていた。

 うつろな目をした彼女は視線を泳がせ、宜綺が頭を下げて挨拶しても、誰もいないかのように無表情だった。

 実は、宜綺むべきの聴覚と視覚は常人を越える能力をもっている。

 生まれつき声帯が潰れているのか、声が不自由なだけで、耳も目も発達していた。ほんの微かな気配、音、それらをすべて感覚的に吸収することを、彭爺ほうじいさえも知らない。


「今日から離れ屋に住むから、おまえに頼むよ」と、彭爺が宜綺むべきに告げた時から、彼女の世話が日課に加わった。


 紫緒はよく吐いた。

 宜綺が介護しようとして手をさし出すたびに、彼女はそれを乱暴に振り払う。まるですべての苛立ちをぶつけるような冷たい態度に、普通の青年なら怒りを覚えるだろう。

 宜綺は違う。

 彼はよく『死』を考える。

 自分の死でも、他人の死でもなく、死という概念について、その形について、それは彼にとって、安らぎでもあるのだ。

 そんな宜綺にとって、彼女の姿は生きようと足掻あがいているようにうつった。

 食べては、吐き。

 吐いては、食べ。

 青ざめ、ふらふらになりながらも、彼女は生に執着する。 

 宜綺は消化のよい粥を用意する。しかし、紫緒しおは食べた先から、すぐ吐いてしまう。その吐瀉物を宜綺が黙々と片付ける。

 いつしか、紫緒しおはその姿に慣れたようだ。

 宜綺の用意した料理を黙って食べ、そして、しばらくして吐く。土間で煮物をしていると、その匂いに彼女は敏感に反応することを知って、宜綺は母屋の洋館で料理をするようになった。


「赤児が腹にいるんだ。だから吐くんだよ。酸っぱいものがいいんだがね」と、彭爺ほうじいは教えた。


 彭爺は妊婦のための本を宜綺に与えた。


「これらの絵を見るといい。他にも医学書があるが読めんだろう。字は読めなくても絵でわかるだろう」


 小学校も出ていない宜綺は、一般的に言えば無学だ。彭爺が教師となって簡単な文字を教えなければ、完璧な文盲だったろう。

 その彭爺も、ひらがながわかる程度だ。

 埃をかぶった洋館の書庫には、あらゆる本が集められている。その場所に入ることを彭爺は許可した。

 宜綺は妊娠初期の女性に良いという食べ物を調べる。

 暇を持て余すだろうから、小説のほか、絵画集とか、美しい風景写真集を彼は離れ屋に持っていき、彼女が手にとる本を観察して、翌日は同じ系統のものを届ける。

 宜綺は世話をしながら、彼女の目に入ることを恐れた。


「ここはどこなの?」

「名前は?」


 紫緒が宜綺むべきに言葉をかけたのは、離れ屋に住んで二ヶ月を過ぎた後だった。その頃には、つわりもおさまっていた。



 その日、宜綺は縁側で収穫した渋柿の皮をむいていた。二十個ほどの柿をむき、用意した麻紐でヘタ部分をくくり、五個づつ繋いでいく。

 鎌倉の紅葉は十一月頃からはじまる。いつしか庭の木々が色づき、枯れ葉が舞うようになった。

 宜綺が縁側にすわり、渋柿の皮をむいていると、紫緒が少し離れて腰を下ろした。彼女が彼を見た。柿をむくのが珍しいのだろうか、その様子が幼く見えて、宜綺の顔が微かにほころぶ。

 いつも目で追うのは彼の役目だったのに、今日は彼女が追っている。

 視線が合い、宜綺は照れて下を向く。


「それ、何をしているの」


 宜綺は渋柿をおくと、枝をひろって、「ほしがき」と地面に書いた。

 その文字に興味を失ったのか、紫緒は目を閉じる。

 宜綺も同じように目を閉じた。

 まるで双子の男女のように、彼らは同じ角度で顔を上げ、同じように背後に両手をつき身体を支えている。

 自然に抱かれ、その音を聞く様子は、はたから見ると神秘的でさえあった。

 庭は旋律のない音楽に溢れている。

 コオロギや鈴虫の鳴き声。風の音。さやさやと葉が重なり揺れる音。カサっと音を立てて枯れ葉が地面に落ちる。

 紫緒と宜綺は共にすわり、同じ音を聞き、同じ空気を吸っている。

 少し離れた場所で様子を見る彭爺の目に、涙が浮かんだ。彼は、その理由がわからなかった。ただ胸が痛んだ。


「宜綺……」と声をかけようとしたとき、宜綺の喉仏がごくりと上下した。


 紫緒はまぶたをあげ、隣にいる彼を見つめる。彼女の視線に気づいて彼もゆっくりと顔を向ける。

 ザルに入った渋柿を彼女の白い指が弄んでいる。そのひとつを取り、太陽にかざしてから、そっと噛もうとした。


「これを食べては、ダメなの?」


 紫緒がつぶやく。宜綺に言っているのではない。誰か、何かに、彼女は声をかけ、ぷっくらとした赤い唇の先にある渋柿に目を落とす。


「そう」


 彼女は、そこにいるに返事をする。

 実際、生の渋柿は食べられたものではない。その味を知っている宜綺はうつむいて横に首をふった。


「これは食べられないのね。宜綺」

「……」

「そう、やっぱり。あの子の言うとおりだわ。不思議ね、宜綺。子を宿してから、なぜかようになったの。怖くはないわ。だって、そこにいるだけだから。宜綺といっしょ」


 宜綺はかすかにほほ笑み、紫緒の手から渋柿をそっと取りあげ、両手でバツを作って食べてはだめだと伝える。

 その様子が真剣すぎて、彼女は吹き出した。


「ひどい人ね。この味を知って、わたしに勧めたの?」


 宜綺は真顔で首を振り、それを否定する。紫緒は笑った。ぽってりした唇の間から、白い歯が浮いている。

 その身体を抱き締められたら、どれほど胸が高鳴るだろう。

 宜綺はそんな想像しているように見える。頬がうっすらと赤くなった姿に、遠くから見守っていた彭爺は内心で笑った。



 静かに日々が過ぎていく。

 冬に向かい、紫緒の腹が大きくふくらみはじめた。




(つづく)

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