第1部 宜綺(むべき)
第1章
第1話
八ヶ月前──
平成二十五(2013)年夏の終わり。
チッチッチッ……チィイチィイーーチチチッ…………、チィチィ、チィーーーチチッ……
夏が終わらない。
九月に入ったばかりで、まだまだ汗ばむ陽気、さまよう風に涼しさの欠片もなく。秋の気配はみじんもなかった。
観光地として賑わう鎌倉からは想像できないほど、緑深い山あい。
雑木に囲まれた未舗装の、車一台がやっとという狭道を黒塗りのセダンが走り抜けていく。タイヤが土を削り、乾いた音をたて、
狭道の先は
それは、侵入者を拒むように高く、そびえ立っていた。
『私有地につき立ち入り禁止』という看板があり、ご丁寧に『電流注意』とまで書いてある。
雑木で隠された屋敷は航空写真からは森しか映らない。そこに屋敷があるなど、誰も気づかないだろう。
「あの別宅には近づかんほうがいい」というのは、古くから住む地元民の共通認識だ。
実際、人気のない門廻りは、どこか不気味な気配がして寒気さえ覚える。
遠い昔、うっかり足を踏み込んだ者が二度と戻って来なかったなどという、まことしやかな噂まであった。
さて、鎌倉を訪れる観光客には、ふた通りの選択肢がある。
鎌倉駅で南北に分かれ、南に歩けば湘南の明るい海岸が開け、北に歩けば歴史ある落ち着いた風情の古都に向かう。
古都側と言っても、観光客が足を向けるのは、小店で賑あう小町通りから鶴岡八幡宮あたりまでだ。
さらに奥鎌倉まで進むなら、大塔宮や瑞泉寺、あるいは報国寺や華頂宮邸まで行く者もいるだろうが、これは、かなり鎌倉慣れしていると言える。
しかし、さらに奥へと紛れ込む人はさすがに稀だ。
鎌倉の山側は
その屋敷は、そうした谷戸の深奥にあった。
先ほどの黒塗りセダンが狭道を走り抜け、屋敷の正門に到着した。
門前で停止すると同時に自動的に鉄格子が開く。正門をくぐり赤いテールランプが門内に消えると、大きく軋む音を立て鉄格子がふたたび閉じた。
霊感の鋭い者なら、おそらく、門が閉じることで結界がはられたように感じるだろう。それはあながち間違いではない。
薄白い朝霧が、しっとりと包む雑木林内を車はさらに進む。
じゃり道を登ること数秒、古い洋館に到着する。
それは赤茶けたレンガ造りの洋館で、屋根瓦は濃い緑色。年月を経て蔓が巻き付く古びたさまは、ヨーロッパの古い城館のようでもあった。
チッチッチッ……チィイチィイーーチチチッ…………、チィチィ、チィーーーチチッ……。
セミの鳴き声以外に音はなく、どこまでも静謐な場。
周囲の平和を乱した車のドアがガチャリと開いた。後部座席から年配の男と若い女が降り立つ。
一方、洋館からは背の曲がった大柄な男が出てきた。
男の背は生まれつきの障がいで、老人に見えるが、実際は五十三歳。彼は
ふたりは、どことなく親子のように見えた。
女は興味なさげにふたりを眺めるだけで黙っている。最初に声をあげたのは、車から降りてきた老人だった。
「彭さん、元気だったか」
「お陰さんで……、その方ですか」
「ああ、そうだ。
「わかりました、
昨晩、「明日の朝、新しい方が屋敷に参られる。お世話をせよ」と告げた。彼はうなずくかわりに、珍しく彭爺と目をあわせた。
「心配するな。おまえに害を与えるような者じゃない。おまえに世話を頼みたいのだが、相手は女だ、女はわかるか? 宜綺」
声のない宜綺は静かにうなずいた。
影の薄い青年だった。放っておけば空気に融けてしまいそうなほど儚く……、なにかを深く考えているようにも、あるいは、何も考えていないように見える。
その夜、彼は曖昧な態度で、そのまま自分の部屋へ立ち去った。
宜綺にとって、日々は単純なくり返しの連続だ。
朝、陽が登ると同時に床を離れ、食事をして、菜園で育つ野菜の面倒を見る。部屋の掃除や家の修繕、裏にある『聖なる
わずかな楽しみといえば、書庫にある本の絵や写真を眺めることだろう。その生活に週末も休日もない。
季節が変わるが同じように続く日々。自分のすべきことをこなし、このまま年を取って死ぬのだろうと、彼は漠然と考えているようだった。
実は彭爺も彼と同じように物心つく前に、この館に引き取られ、先代の管理人によって育てられ、そして、同じように女の世話を頼まれた。
「紫緒さま。宜綺は役に立ちます。なんなりとご要望ください」
紫緒と呼ばれた女は返事をしなかった。
彼女は上の空の様子で、宜綺などまるで視界に入ってないかのような態度だ。色白の肌は血の気がなく、ふらふらと身体が揺れている。
なにか薬でも飲まされたかもしれない。彭爺はチラッと連れてきた男を盗み見た。
一方、宜綺は、けっして上の空ではなかった。
「彭よ、では頼むぞ」
「お任せください、旦那さま」
「
老人の言葉を合図に車は去った。砂利道を走るタイヤ音が消えるまで、残された三人は、その場で見送っていた。
誰も動こうとはしない。
彼は生まれたときから屋敷に住んでいる。
赤児の頃、児童養護院に捨てられたのを引き取ったと説明されたが、それが事実かどうかも知らない。
幼い頃は痩せた目ばかり目立つ少年だったが、成長するにつれ、美しく孤独な青年に成長した。
口がきけないのは先天的なのか後天的なのか理由はわからない。しかし、屋敷の主にとって好都合であったろう。
瞳にいつも哀しみをたたえ、罪を背負った人間が贖罪のために生きるかのように、笑う顔も怒る顔も見せたことはない。
「
宜綺は素直に従う。軽くうなずいて女に手を差しだす。疲れたように女は、その手にすがる。
そのまま、よろよろと離れ屋へと向かうふたりの姿を見て、彭爺は意味もなく、ため息を、ひとつ、ふたつもらした。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます