5
すっかり親友同士に戻ったように、火傷の少年と気さくに談笑しながら白い廊下を進む。互いの変わったところ、変わっていないところ、返せなかったゲームの感想や、どうやってここの呼び鈴を見つけたのかということ。
「焼け落ちたはずのお前んちがあって、目を疑ったよ。それで思わず、呼び鈴を押したんだ」
と言うと、火傷の少年は思案顔をした。
「それはちょっと不思議だな。普通、人間は神殿への扉を見つけられないはずなんだ。天界に昇ってきた人間であってもね。たとえば最初に開けた交霊会の扉、あそこを開けても向こうが薫生に気づくことはなかったでしょ? こちらから声を掛けない限り、彼らに神殿や、ここにいる存在は認識できないんだ。干渉は本来一方通行であるはずなんだよ」
「今日がお前の命日だからとか?」
「十年経ってるんでしょ? 命日だからって俺んちが毎年のように元あった場所に現れているなら、これまでだって一人くらい呼び鈴を押す人がいてもおかしくなさそうなものだけど。突然家が現れてたら誰だって不審に思うし、それ以外にも勧誘とか訪問販売の人とかさ」
二人はその命題について暫し議論を交わしたが、結局答えが出ることはなかった。
「最後の扉はここだよ」
一つの扉の前までやってくると、火傷の少年は足を止めた。見覚えのある扉だが、どこのものであったか思い出せない。
「ここは何だったかなあ」
既視感の正体を探ろうと、薫生はおそるおそる扉を開けた。
そこは親友の家の居間だった。親友の子供部屋にテレビはなく、よく居間でテレビゲームをしたりお菓子を食べたりして遊んでいたものだった。
「なあ、ここ……」
思わず火傷の少年に声を掛けようとしたが、いつの間にやら姿がない。あれ、と周囲を見渡しても、火傷の少年が何の前触れもなく姿を消してしまった事態に変わりはなかった。他の扉に向かったというのも、今は考えづらい。彼の背は自分の目線よりも低いし、先に行ってしまったのかもしれない。何しろ、最後の扉なのだ。何が起こっても不思議ではない。
「入るよ」
薫生はそう声を掛けてから、やはり靴のまま扉の先に足を踏み入れ、火傷の少年を探すことにした。
居間は電気が灯っておらず、薄暗い。部屋の奥まった方は、闇に包まれて見えなかった。扉はダイニングキッチンの傍らにあり、そこから続く居間は少し奥行きがあるのだ。照明を点けようとスイッチに手探りでふれたが、電気が通っていないのか点かない。そういえばと、霞が掛かっていたようだった記憶が、泡沫のように胸の底から浮かび上がる。
一家は居間で亡くなっていたと、ニュースで見た覚えがある。
親友の死の生々しさを忘れたいという、無意識下の思いが作用していたのだろう。たった今までその事実を忘れていた。嫌な予感を覚えつつも、薫生は暗がりへと歩を進めた。
こちらに背を向けて、テレビの前に火傷の少年が佇んでいた。目の前には、よく一緒に遊んだ据え置き型のゲーム機が置かれている。
「……おい、何かあったのか?」
薫生が背後から控えめに声を掛けると、彼はゆっくりと振り向いた。その周囲にふと、炎が揺らぐ。それは四方に立ち昇り、部屋の壁は焼け落ちて崩れ、火事の日の居間の情景が広がっていく。少年の顔が赤々と照らし出され、薫生はひゅっと息を飲んだ。
火傷の少年ではなかった。影の少年が、炎を身に纏い、ぎらつく双眸で薫生を見つめていた。熱に火照った肌は仄かに紅潮し、体中に色素を沈着させていたはずの引き攣った火傷の跡だけが、今は白く抜け落ちて見えた。薫生に向かって、縋るように二本の腕が伸ばされる。ああ、このままでは、焼け死んでしまう。
──彼と同じになれるのなら、それも悪くないかもしれない。
「薫生!」
背後から飛び出してきた小さな人影が、薫生に向かって伸ばされる腕をはたき落とした。
「しっかりして、この子の悪意に当てられているんだよ」
火傷の少年は炎を前に、微かに乱れた息をついている。怖いのだろうか。
「あ、ああ。悪い……」
その肌も次第に火照り、右頬の火傷のまだら模様だけが白く抜け落ちていく。綺麗だな、と場違いなことを思った。火傷の少年は、影の少年から薫生を庇うように立っている。
「恨んだり呪ったりなんてことは、終わりにしたいんだ」
影の少年は、相対する少年の発した言葉にわずかに反応を示したように見えた。火傷の少年の透明な眼差しが、真っ直ぐに影の少年の澱んだ瞳の底を見据えていた。影の少年は目を見開いたまま、その場に射すくめられたように動かずにいる。影の少年のそばへと、彼は一歩歩み寄った。そっくり同じ姿をした二人の少年は、炎に包まれて、今まさに鏡に結んだ像のように、そこに対峙していた。互いの欠けた部分を補い合う火傷は、あの日の親友の思いの全てを体現しているかのような気がして、やはり嫌なものには思えなかった。
火傷の少年は、細心の注意を払って影の少年へと腕を伸ばした。
「帰っておいで」
炎が肌を舐めるのも構わずに、火傷の少年は影の少年の背中に腕を回し、己の痛みを抱き締めた。静かに息を噛み殺して、悲しみや怒りや憎しみがないまぜになったぐちゃぐちゃの感情が、体中を焼き尽くしていくのに耐えていた。彼の腕の中で、影の少年は脱力していた。透明な涙の珠が一筋、その頬を伝った。それを皮切りに、炎の内の二つの影が一つに重なっていく。
薫生は言われた通り数歩下がって、そばにいることしかできなかった。
やがて燃え盛る赤がすっかり絶えた時、影の少年の姿はなく、火傷の少年は右頬も、その他も、全身を酷い火傷の跡に覆われていた。居間はしんと静寂を取り戻し、焼け落ちた跡などどこにもない。火傷の少年は、変わり果てた姿で薫生を見上げて微笑んだ。
「あの扉を開けてから、薫生変だったんだよ。俺が何を言っても返事をしなくなっちゃって、こっちを見向きもせずに中に入っていった」
「あの子の仕業だったのかな」
「そうみたい」
火傷の少年は、自分の内へと帰ってきた影、もはや己を構成する一部となったその存在を確かめるように、自分の火傷だらけの腕を掲げ見て、またすぐに下ろした。
「付き合ってくれてありがとう。送っていくよ」
火傷の少年はそう言って、元来た扉の方へ踵を返した。
「……お前は、これでよかったの?」
薫生は沈痛な面持ちで尋ねた。きっと彼は、全てを取り戻してしまったに違いなかった。
「うん。どんな感情も俺のものだから、これからは俺のそばに置いておくよ」
「そっか。それなら、うん、わかったよ」
火傷の少年の覚悟が確固たるものであることがわかれば、薫生にそれ以上言えることはなかった。二人でこの不思議な場所を巡ったひとときの語らいも、もう終わるのだろう。
薫生を先導する彼は、扉に火傷だらけの手を翳した。カシャン、と何かが切り替わるような音がしたのち、躊躇なく扉が開け放たれる。
そこは白い廊下ではなかった。
美しい天界の光景が、目前に広がっていた。
青空の下に咲き誇る色とりどりの見知らぬ花々は、世界中の全ての色を集めて束ねたかのようだった。風に波立つ鏡のような泉は、近くで見れば深く底の方まで青く透き通っていた。振り返れば、今しがた通り抜けたばかりの扉はどこにもない。
「神殿の外にさっきの扉を繋げた。こっちの方が近道なんだ。あっちの扉は見える?」
火傷の少年が示した方を見れば、花畑の只中に、ふとくすんだ水色の玄関扉が一つあった。
「あんなところに、扉?」
「あの扉は神殿にあったものと同じ。通れば元の世界に帰れるよ」
「天界の扉っていうのは不思議だな」
今日開けてきた様々な扉のことを思い返して、薫生は言った。
「いろいろ、巻き込んじゃったよね」
申し訳なさそうに言う彼を見て、ふと気づく。己の内で頑なに絡まっていたものが、いつの間にかすっかりほどけているような感覚がする。
「いいって。俺なんて何にもできなかったけどさ、でも 千春に会えたのは楽しかったかな」
薫生が名乗った時と同じように、再びヘーゼルの瞳が揺れた。
「……うん、俺も。薫生がそばにいてくれてよかった」
しかし今度はすぐに、全てを受け止めた様子で確かに頷いた。
「あの日、約束守れなくてごめん」
千春が何気なく発したその言葉に、薫生ははっとした。十年間、己の心を縛り続けていたものが、やっとほどけていくような気がした。きっと千春は約束のことも、名前を呼ばれてたった今、思い出したのだろう。だが、薫生はずっと、あの日叶わなかった約束に囚われ続けていたのだ。自分に嘘をついた世界を、信じられなくなっていた。
「謝ることないよ。俺も千春のゲーム借りパクしちゃったし?」
冗談めかして笑う薫生の笑顔は、憑き物が落ちたかのように気のすくものだった。
「あはは、ちゃんと返せよ。また四月一日にうちの扉を探しに来てくれたら、会えるかもよ」
「え?」
どういうことかと瞬く薫生に、千春は悪戯っぽく言う。
「なんで薫生はうちの扉を見つけられたのか、あれからずっと考えてみたんだ。思ったんだよ、薫生は特別なのかもしれないって。約束が、あの町の因果になってしまったんじゃないかな。四月一日に薫生だけがここへの扉を見つけられるんだとしたら、全部辻褄が合うと思わない?」
「そんなこと、あり得るのか?」
映画やテレビで見る奇跡のような話を、俄かには信じられなかった。いつの頃からか、薫生は自分を置き去りにした世界に対して、随分疑り深くなってしまっていた。
「せっかくこうして十年越しに会えたんだし、そんなことがあってもいいんじゃない?」
しかし、薫生の疑念とは裏腹に、千春は他愛もないことのように言う。
「……そっか。それもそうかもしれないね」
千春にそう言われると、不思議とこの先も、何度でも会えるような気がしてくるのだった。
「また来年も会いに来るよ、千春。俺はどんどん歳を取って老けていくけど、笑うなよ?」
薫生は、やはり自分よりも随分小さい彼を見下ろした。
「薫生がおじいちゃんになっても、友達でいるよ」
千春は、体ばかりはすっかり大人になった薫生を見上げて笑った。
「それじゃあな」
薫生は短い別れの挨拶を残して、扉の方へと足を向けた。
ノブに手を掛けた時、背後で何かが羽ばたく音がした。見れば、千春が純白の翼を大きく広げて花畑の上空に飛び立つところだった。天の光が背から差し込み、放射を描く。ありふれた一人の少年は、どうということもなく天使となってそこにいた。火傷の跡が、綺麗だった。
For though they may be parted there is
Still a chance that they will see
There will be an answer
Let it be
Let it be, let it be, let it be, let it be
Yeah, there will be an answer
Let it be
「お別れの時くらい、本当の姿を見せておこうと思って」
はにかむように右頬を掻いて、千春は言った。
薫生は呆けたようにその姿に見惚れていた。彼が天使だと、頭ではわかっていたつもりだった。彼が人ではなくなってしまったことを、今になってようやく、五感で理解していた。
純白の翼は艶めいて、白銀のようにも見えた。蠢いて大気を掻くと、羽根の一枚一枚が繊細に震えた。目の前にあるのは美しく、人が遠く及ばぬ存在だった。
かなしみのような、温かな感情が、薫生の内を満たしていた。
「またね」
頭上から千春が大きく手を振っても、薫生はただその場に立ち尽くすばかりだった。
「……ああ、また」
今の千春の姿をしっかりと目に焼き付けると、瞳の奥が熱くなるような気がして、薫生は顔を背けた。踵を返すと、千春に見送られて今度こそ扉を潜った。
そこは元いた町並みだった。今潜った扉があるはずのそこは、雑草が生い茂る空き地だ。かつて千春の家があった場所に間違いない。忽然と目の前に現れた千春の家は、やはり忽然と消えてしまった。如何に不思議なことが起きていたのかということを、改めて思い知る。
そういえば、と薫生は思い出し、腕時計とスマートフォンを確かめた。壊れてしまったのかのように思えたそれらは元通り時を刻んでおり、15時の少し前を示している。どうやらあれからまだそういくらも経っていないようだった。天界とこちらとでは、時の流れも違うのかもしれない。ともあれ、今から向かっても同窓会には十分に間に合いそうだ。
世界は色を取り戻していた。千春の家の呼び鈴を押すまでは確かに存在していた重たい感情も、とうに晴れていた。薫生は一次会の会場である中学校に向かって歩き出す。空はどこまでも青く澄み渡り、春風に攫われた淡い花弁が、はらはらと舞い遊んでいた。
あれから四月一日になると、薫生は毎年この町を訪れる。すると町はいつもうそぶいて、焼け落ちてしまったはずの千春の家は何食わぬ顔をしてそこに佇んでいる。薫生はその、古く黄ばんだ呼び鈴を押すのだ。歳の離れた、小さな友人に会うために。
四月の町は僕にうそぶく 蜜蝋文庫 @bonbonkotori
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