4
次の場所へ向かうすがら、薫生は一つの扉に目を留めた。
「ねえ、ここは何だろう。ちょっと覗いていってもいい?」
薫生が示したのは、『図書館』というプレートが取り付けられた扉だ。日本語でそう記してあるわけではない。そこに刻まれた見知らぬ不可思議な文字が、自然とそう置き換えられて、意味のある言葉として理解されるのだった。
「うん、いいよ。そこは天界の図書館だって聞いてるけど、一般の人の利用する施設だから、俺も入ったことはないなあ」
火傷の少年は当たり前のことのように言った。
「一般の人? 俺みたいな人間が、天界にいるってこと?」
「あなたみたいな人が亡くなって、天に昇ってくるんだよ」
「……君とは何か違うの?」
それは君もじゃないのか、と責め立てそうになるのをどうにか押し堪え、苦心して言い換えた言葉も、さほどの意味は持たないのかもしれなかった。
「詳しいことは俺も知らない。でも、俺には仕事があるし、違うんじゃない?」
「君、働いてるんだ?」
外見だけで言えば、右頬の火傷以外中学生だった頃から少しも変わっていない彼が働いていることに、薫生は驚く。そういえば、彼の天界での暮らしはほとんど聞いていない。
「生まれつきの天使みたいに大層な仕事はさせてもらえないけどね」
火傷の少年は、仕事なんて呼ぶのは大袈裟なんだよ、と笑った。
「天界に来たばかりの人に温かい飲み物を配ったり、話し相手になったり、下働きみたいな感じかな。自分の死についてまだ動揺している人もいるし、天界への受け入れ手続きの待ち時間もあるから、俺みたいな成り上がりの天使もいないといけないんだ。人と話すのは楽しいし、自由な時間はこうして神殿で気ままに過ごせるし、気楽なもんだよ」
話しながら扉を開けると、いくつもの指に捲られてきた紙の匂いがした。老若男女様々な人々が利用している。ごくありふれた図書館のようだが、薫生は知らない場所だ。少し変わったところといえば、壁の全面が天球のようなガラス張りになっている点だろうか。青空を白い雲がゆったりと流れ、どこまでも広がる緑の草原が見える。こんなに陽光が差し込んでいては蔵書が傷んでしまいそうだが、見たところどの本も酷く黄ばんだりはしていない。
「ちょっとここの本、見ていきたいから、君も好きなところを見ててくれる?」
「うん。図書館の中にはいるから、用が済んだら声を掛けて」
火傷の少年は頷いて、図書館を散策しに行ってしまった。
書架を眺めてみると、天界の掟についての蔵書が纏められたコーナーが設けられている。火傷の少年は、きっとこれも知らないのだろう。一冊手に取って目を通せば、『図書館』のプレートと同じ種類の不可思議な文字で綴られており、読み進めると、或る文章が目に留まった。
『年若くして天界へと召された人間のうちの一部は、人間だった頃の記憶と名前を神の手ずから奪われる。というのも、年若くして命を落とす人間の中には、病魔や事故や災害などの不幸、それによる苦痛の記憶を抱えた者が一定数存在しているのだ。そういった幼い魂が歪まないよう安寧をもたらすためには、神による浄化が必要なのである。
神に愛された人間は短命だという下界の俗説があるが、これは厳密に言えば間違っている。神の寵愛故に短命なのではなく、不幸や苦痛のさなかに年若くして命を落とした人間に掛けられた慈悲が、特別な寵愛と捉えられるのだろう。
神の手ずから浄化を受けた人間は、天使と呼ばれる。人間から天使となったものが人間だった頃の記憶を取り戻すことは、時に彼らの存在さえも揺るがす。神はその心が再び傷つくことを案じ、彼らの記憶に通ずる神殿の扉には不用意に近づくべきではないこと、近づくときには辛い記憶と向き合わねばらないことを訓示している』
薫生は俄かに不安に襲われた。
存在さえも、揺るがす?
火傷の少年は、まだ、ここに存在しているだろうか?
薫生は分厚い本を抱えたまま、火傷の少年を探して書架の林を歩き回った。図書館は存外に広く、視界はすぐに阻まれるため、余計に薫生の焦りを募らせた。天界のシステムや文化に纏わる本を集めた全ての書架の間を覗き込んだが見当たらず、図書館の他の場所も見て回ることにした。こうした本は、天界に昇ってきて間もない人たちが、自分の今いる場所を理解するためにあるのだろう。
火傷の少年は貸出・返却受付を横切った先、児童書等が置かれた子供向けのスペースのそばで、小さな女の子と声を潜めて話をしていた。その姿がそこにあったことに、薫生は胸を撫で下ろす。女の子は、生きていれば幼稚園に通っているくらいの年頃だろうか。あんなに幼い子供が何故亡くなったのか、薫生は彼女が天に昇ってくるに至った経緯に思いを馳せる。
火傷の少年は人好きのする笑顔で女の子の相手をしている。見知らぬ人とも、話し慣れている様子だ。小声で話しているため、ここまではその会話の内容が聞こえてくることはない。彼の表情が大人びて見えたのは、普段から多くの人とああして話しているためかもしれない。
薫生の姿に気づいたのか、火傷の少年は女の子と二言、三言交わし、女の子がふと薫生を見た。子供特有の、得体の知れないものを見る無感情な眼差しをこちらに向けていた。火傷の少年が「ばいばい」と手を振ると、女の子は控えめに手を振り返してそれを見送った。
「本を見てたんだけど、勝手にかくれんぼ始められちゃってさ」
そのことを嫌がってはいない様子で、火傷の少年は薫生のそばへと戻ってきて言った。
「ああ、君は初対面の人にも好かれそうだよね」
今しがたのやり取りや、親友の生来の気質を思って薫生は頷いた。そう言う薫生は、子供にあまり好かれるたちではないし、薫生自身、子供は苦手だった。
「その本は?」
火傷の少年は薫生の持っている本を、吸い込まれそうな瞳で見た。
「天界の掟についての本だよ」
薫生は先ほどのページを開いて、火傷の少年の前に示した。
「へえ」
火傷の少年は横から本を覗き込み、そこに書いてある文字を追った。
「浄化、俺も受けたよ。記憶や名前や火傷を取ってもらったのがそう。右頬の火傷は、自我を保つのに必要な分だけ残さなきゃならないって、神様はおっしゃっていたけど。じゃあ俺、元は確かに人間だったんだ。病魔や事故や災害などの不幸に遭って……?」
そこで火傷の少年は、不思議そうな表情を浮かべた。
「俺、酷い死に方をしたってこと?」
「この本によれば、そうみたいだな」
火傷の少年の思考を遮るように、ぱたん、と大きな音を立てて薫生は本を閉じた。自分の与えたきっかけのせいで、火傷の少年が辛い記憶を思い出してしまうのが、急に酷く恐ろしく感じられた。
「立ち寄らせてくれてありがとう。次の扉に行こうか」
「あ、うん……」
火傷の少年は、薫生の所作に圧倒されたように頷いた。薫生は貸出・返却受付の前を再び横切って、最初に見ていた書架へ行き、本を元あった場所へ戻した。
図書館を後にし、次に案内された扉に薫生は驚いた。何かの拍子につけてしまった傷、幼い頃に貼ってそのまま掠れかけているシール。薫生があの町に住んでいた頃の、子供部屋の扉だ。思わず火傷の少年よりも先にノブに手を掛け、扉を開けていた。
「どうしたの?」
火傷の少年は、驚いて薫生を見上げた。
「ここ、俺の部屋だ」
「えっ。あなたの部屋?」
火傷の少年は部屋の中に顔を突き出して、好奇心を隠そうともせずに見回した。
「うん。って言っても、子供の頃のだけどね。今はもう引っ越しちゃってここには住んでいないよ」
靴のまま入るのはやや気が引けたが、きっと天界の力が何もなかったことにしてくれるだろうと楽観視して、薫生はそのまま中へと歩を進めた。火傷の少年もその後に続く。
十年前の空間、それも春休みだ。部屋の片隅にはクリーニングから帰ってきたばかりの制服が吊り下げられ、親友に借りていたゲームのカセットが勉強机の上に置き去りにされている。四月一日に返すはずだったそれは、結局返せないままだった。親友が家に遊びに来る時は、決まって子供部屋に二人して籠っていた。二人は部屋のテレビの前の、据え置き型のゲーム機のコントローラーを握り締めて、好きなだけ独占することを許されていた。
「なんだか、懐かしいような気がする」
火傷の少年は、床の上に放り出されたコントローラーを拾い上げて、がちゃがちゃとボタンを弄り回した。背面にもボタンがあることや、スティックの使い方も、知っている様子だった。
「あれ?」
ふと、その手が止まり、俯きがちに佇んだ火傷の少年の唇から声がこぼれ落ちた。彼は透き通った眼差しで、薫生を見上げた。
「あなた、薫生に似てる」
その名前が音になった途端、薫生の内でふっと何かがほどけたような感覚がある。今なら彼に、名乗ることができるのだろう。それは不思議な確信だった。
「あ、薫生って俺の友達でね。鼻の形とか、雰囲気とか……」
「遠野薫生のことを言っているなら、それは俺だよ」
「え?」
ヘーゼルの瞳が揺れた。
「信じられない?」
火傷の少年の淡い視線が、戸惑いを見せて薫生を射抜いた。
「薫生なの? でも薫生は、俺と同い年のはずだよ。あなたは、大人だよね?」
その意味も知らずに、残酷な言葉を吐く火傷の少年を、薫生は静かに見つめていた。
「俺が中学生だったのは、もう十年も前なんだ」
「十年?」
俄かには信じ難い様子で、彼は繰り返した。
「そう、十年だよ」
火傷の少年がその事実を咀嚼するのには、いくらかの時間が必要だった。しかし、やがて目を伏せると、ゆっくりと身を屈めてコントローラーを床に置いた。
「そっか。俺は、十年前に死んだんだね」
その言葉への慰めも、やるせなさも、悲しみも、薫生は上手く伝える術を持たなかった。
「でも、俺、誰だったんだろう」
彼は困ったように微笑んで、火傷の頬を掻いた。生前の親友にそのような癖はなかったが、どうやらそれは今の彼の癖であるらしかった。
「薫生のことも、自分がどうして死んだかもわかるのに、自分が誰なのかわからないんだ」
「君の名前は……」
親友の名前を口にしようとして、相変わらずそれは音にならなかった。もどかしく思いながら、薫生はもう一度声を紡いだ。
「俺もここに来てからずっと、君の名前が言えないんだ。つい今しがたまで、自分の名前も口にできなかった。君が俺を呼んだら治ったんだ」
「俺が忘れてることは、言えないのかもしれないね」
何となくこの状況に察しを付けた様子で、火傷の少年は頷いた。
「薫生の名前みたいに、自分のこともまたふっと思い出せるのかもしれない。俺が近づかないように言われてる扉は、あと一つだけなんだ」
「あと一つ……」
そこへ行けば、今は他人事のように受け止めている死を、悲しみを、痛みを、苦しみを、火傷の少年は己の体験として思い出してしまうのかもしれなかった。
「神様に取ってもらったもの、全部取り戻してしまうかもしれないよ」
彼を止めたいのか、行かせたいのか、薫生自身にもわからなかった。ただ、親友の名前を呼べないことは、酷く寂しいような気がした。
「覚悟のことを言ってるなら、教室の扉を開けた時に決めたよ。それに、薫生がいるし。薫生は頼りないけど、今、ここにいてくれてよかったって、これでも思ってるんだよ?」
火傷の少年は茶化すように言った。
「頼りないって、何だよ」
火傷の少年のよそよそしさが薄れているのがわかると、薫生の緊張もいくらかほどけて、少し笑った。
「天使と比べれば、そりゃ薫生は普通の人間だからね」
「ふうん……」
彼には翼も何もないが、普通の人間とは異なる力でもあるのだろうか。
「ていうか、やば、薫生のことあなたとか言っちゃった」
「そうだよ、あんまりよそよそしいから、人違いかと思った。まあ俺も人のことは言えないけど、他に呼びようもないしな」
「初めて会う大人の人だから、ちゃんと対応しなきゃと思って。うわ、はずいな」
今更になって焦っている火傷の少年に、薫生はつい意地悪をしてみたくなった。
「恥ずかしがってもしっかり記憶したからな、お前の『あなた』呼び」
「薫生、そういうとこ大人になっても変わってないね……」
火傷の少年は恨めしそうに薫生を睨み、しかしすぐに、
「俺だってちゃんと覚えたから、薫生の『君』呼び」
と言った。元々自分が何と呼ばれていたかは、やはり思い出せないようだった。
「忘れろ、今すぐ」
薫生は火傷の少年の額を軽く小突いた。
「理不尽!」
火傷の少年は眉を顰めながらも、くすくすと笑っていた。
「ついてきてくれるよね」
まだ笑いが収まらないまま、火傷の少年は薫生に向かって手を掲げてみせた。
「勿論、ここまで来たら最後まで付き合うよ」
薫生は中学生だった時分に戻ったような心地で、その掌を軽く打ってハイタッチをした。
入ってきた扉は開きっぱなしで、白い廊下が見えているそちらへ火傷の少年は向かっていく。親友に借りていたゲームのカセットを横目で見やってから、薫生は部屋を後にした。
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