3
白い廊下に戻り、多種多様な扉を眺めて──決して、勝手に開けたりはしなかった──火傷の少年を待つ。道に迷わないように、教室の扉からはさほど離れないようにしていたはずだった。しかし、彼はなかなか出てこない。随分遅いな、と教室を覗き込むと、椅子もアコースティックギターも綺麗に元の位置に戻されて、火傷の少年だけが姿を消している。
「あれ、どこ行った? おーい」
はぐれてしまったのかと、急いで声を張り上げ、いくつか曲がり角を覗き込む。すぐに、ふっと一つの曲がり角を影が横切るのが見えた。きっと彼だろう。
「ああ、よかった、いたいた──」
自分が間違いを犯したことに気づいたのは、少年のすぐ背後から声を掛け、彼が振り向いてからだった。
そこにいたのは火傷の少年そっくりの、しかし明らかに異質な存在だった。顔立ちや背格好は同じだ。だが、まるで黒いベールを纏っているかのように、火傷の少年よりもワントーン沈んだ色をしている。いや、よく見ればそれはベールなどではない。全身に酷い火傷の跡があり、皮膚が引き攣り色素が沈着しているのだ。右頬の火傷だけは、少し薄い。
影の少年。そう呼ぶのがふさわしい姿のように思えた。
影の少年の瞳は暗く澱み、烈しくぎらついていた。薫生を見上げると、ゆらりと一歩、こちらに近づいた。薫生はその場に凍て付いてしまったかのように、成す術なく立ち尽くしていた。
「君は……?」
渇き切った口をどうにか動かして、それだけ言うのが精一杯だった。
目の前の存在は、危険だ。本能がそう警鐘を鳴らすのに、体が動かない。
「こっちだ!」
光が差すように掛かった声に体の硬直がほどけるのと、どこからか飛び出してきた火傷の少年が薫生の手を掴み、半ば引きずるように反対方向へと駆け出したのは、同時だった。
影の少年はその背中を、うろんに佇んだまま見送っていた。
離れたところまでやってくると、火傷の少年はようやく立ち止まった。影の少年が追ってきていないのを確かめるように背後を見やり、それから薫生の体を上から下まで見回した。
「あいつに何もされてないね?」
「う、うん。多分、大丈夫だと思う」
まだ息を切らしたまま、薫生は頷いた。
「ごめんなさい、先に言っておけばよかったね。あれはずっとここらをうろついてるんだ。姿を見たらすぐにその場を離れて。近づかない方がいい」
「あの子は、一体何なんだ?」
火傷の少年の毅然とした物言いに気圧されながらも、薫生は尋ねた。
「まるで、その、君と……」
それ以上は言っていいものかわからず、口籠る。明白に危険な存在と一緒にされて、いい心地はしないだろうと思ったのだ。彼は曖昧に微笑んで、火傷の頬を掻いた。
「なんて言ったらいいのかな。あなたはあの子のこと、聞きたい?」
「もしよければ。でも、その前に……」
ちょうど近くにあったコンビニのガラス扉を示すのを、火傷の少年は不思議そうに見た。
「コンビニ、寄っていかない? 久しぶりに全力で走ったら、ちょっと疲れちゃって」
「コンビニ? うん、いいよ。無理させちゃった?」
火傷の少年は呼気一つ乱れていない。体ばかり大人になった自分が恨めしかった。
コンビニの扉を押し開くと、いらっしゃいませ、とスタッフが言った。向こうからはこちらがどう見えているのか、些か不思議だった。店内の様相は見知らぬものだが、イートインがあるようだ。ここなら飲食をしながらゆっくり話をするのに丁度いい。
「ここは何?」
真っ直ぐに飲み物のコーナーに歩いて行く薫生の後を、火傷の少年は離れないようについていく。
「え、ここ知らない? 24時間、大体何でも買えるんだよ」
「大体何でも」
薫生がガラス越しに飲み物を物色し、そういえば、と財布の中身を検めるそばで、火傷の少年は物珍しそうに商品棚をあちこち覗き込んでいた。
「君も何か食べる?」
自分の分の麦茶のペットボトルを確保すると、薫生は業務用冷蔵庫のドアを閉めながら、相変わらず商品棚を物珍しそうに見て回っている火傷の少年にそう声を掛けた。腕時計やスマートフォンのような被害はお札と小銭には及んでおらず、身分証明証等の個人情報だけが文字化けを起こしたようになっていたが、それは気にしないことにした。
「え、いいの」
「うん、いいよ。好きなの選んで、これに入れて」
薫生は買い物かごを一つ持ってきて、手始めに麦茶のペットボトルを納めた。
「うーん、どれにしようかなあ」
火傷の少年にとって、膨大な品数の中から『好きなもの』を選別するのは、とても難しい議題のようだった。お菓子のパッケージを観察したり、惣菜パンや菓子パンが陳列されている棚を眺めたりしていたが、やがて辿り着いたのはアイスのコーナーだった。
「ここはなんだかとってもひんやりするね」
「うん。凍ってるからね」
「凍ってる?」
「アイス、知らない? 氷のお菓子だよ」
「へえ」
しげしげとケースの中を眺め、幾種類ものアイスの中から火傷の少年が手に取ったのは、生前の綿貫千春がよく食べていたソーダ味のアイスキャンディーだった。
「じゃあ、これにしようかな」
「……ああ、いいんじゃない?」
薫生の反応は、覚えずワンテンポ遅れた。火傷の少年がそれに気づいた様子はなく、麦茶のペットボトルの隣に丁寧にアイスキャンディーの包みを収めると、満足した様子だった。火傷の少年は背後で手を組んで薫生を見上げ、次に与えられる指示を待っているようだった。
「これだけでいいの? もっと入れてもいいんだよ」
「ううん、大丈夫」
「そう? じゃあお会計、済ませちゃうね」
薫生は少しの逡巡ののち、同じソーダ味のアイスキャンディーをもう一つかごに入れて、ささやかな品物の入ったそれをレジに運んだ。五百円玉を出してお釣りをもらっていると、火傷の少年はそのやり取りも涼しけな瞳でよく見ていた。
レジ袋はもらわずにテープを貼ってもらって、二人は並んでイートインの席に着いた。
「はい、どうぞ」
薫生は火傷の少年に、アイスキャンディーの包みを一つ手渡した。
「ありがとう。開けていい?」
「開けないと溶けちゃうよ」
自分の分の包みを切れ込みから千切って開けて、アイスキャンディーを食べる。安っぽいソーダの味もまた、久しぶりのものだった。火傷の少年も見よう見まねで開封したが、棒ではなくアイスキャンディーの方から開けてしまったらしい。結局口で引っ張り出してから、棒を手に持たなくてはならなかった。
「冷たいね」
と火傷の少年は言った。
「美味しい?」
薫生は、右頬の火傷を見つめていた。
「美味しい」
問いかけには、ふやけた笑顔と共にそう返事が返ってくる。
「やっぱりそれだけじゃ足りなかったんじゃない?」
自分のアイスキャンディーへ視線を戻して、薫生は尋ねた。
「お店の人に何か渡してたでしょ? あなたの物と交換しなきゃいけないなら、十分だよ」
アイスキャンディー一つずつなど、他愛もない会話をしているうちに二人ともすぐに食べ終えてしまった。薫生は麦茶のペットボトルに口を付けながら、話を切り出した。
「それで、さっきの子について聞かせてくれるんだったね」
「ああ、うん」
火傷の少年はそこで一旦口を噤み、言葉に迷っているようだった。
「あの子も俺から取ってもらったものの、成れの果てなんだ。火傷の跡があったでしょ?」
「うん。君と違って右頬以外の火傷が酷いみたいだった」
「あれは全部、元の俺にあったものなんだ。火傷と一緒に取ってもらった、悲しい、痛い、苦しい、みたいな感情が、まだここに残り続けてるんだって。だから元は俺の一部だったものなんだけど、今の俺とは別に独立した意志があるっていうか……」
火傷の少年の話はやはり現実離れしていたが、その意味するところを、今の薫生はさほどの抵抗なく理解することができた。
「今も、苦しみ続けているんだね」
彼の痛みを思って、薫生は言った。
「そうなのかな?」
火傷の少年は、これまでそのことに考えつきもしなかった様子で、びっくりした顔をした。
「そうじゃない? 俺はあの子から、怒りや恨み、憎しみみたいな感情の噴出と、強い敵意を感じたよ。呪い、みたいな。苦しみから逃れられずにいるのかも」
「呪い……」
呪い、のろい、ノロイ。
火傷の少年は暫く薫生の横顔を見つめていたが、やがてそっと目を伏せた。
「あの子がいてくれるおかげで俺が苦しまずに済んでるんだとしたら、悪いことをしちゃってるね」
火傷の少年は、食べ終えたアイスキャンディーの棒を手元で弄びながら、何やら物思いに耽っているようだった。
「君はあの子をどうしたい?」
何気なく、薫生は尋ねた。火傷の少年は思案しながらも、すぐに答えた。
「俺の代わりに苦しんでるなら、放っておくのはよくないと思う」
「そっか」
薫生は席を立ち、火傷の少年もそれに続く。店内に設置されたゴミ箱にアイスキャンディーのゴミを捨てて、火傷の少年がコンビニの扉を押した。ガラス扉の向こうには青空が見えていたが、彼が開けた隙間から覗く光景は、不思議と白い廊下に変わっているのだった。
「とにかく、近づかない方がいいって言われてる扉の向こうには、前の俺に纏わるものがあるのは確かみたいだ。そういう扉を回ってみるよ」
火傷の少年は言った。
「無理はするなよ」
彼が辿り着くかもしれない真実を思うと、複雑な思いで薫生は言った。
「あなたもよければ、ついてきてくれる? あの子に見つかっちゃったから、今までより気をつけながら進むことになるけど……」
「勿論」
薫生は頷いた。
火傷の少年が次に向かったのは、扉ではなかった。アーチのような形に、廊下の壁がくり抜かれている。
「ここは……?」
その形状をどこかで見た覚えがあるような気がしつつも、薫生は向こうを覗き見た。アーチの先は、屋外に繋がっていた。昔遊んでいた、広々とした市民公園だった。中学生の頃は親友を含め、何人かの仲間たちとよくバスケットボールをしていた。親友の顔を最後に見たのも、この公園で遊んだ日のことだった。
「いろんな人がいるね」
夕暮れ時の公園に、二人は連れ立って足を踏み出した。火傷の少年の言葉通り、スポーツに励む大人や学生、アスレチックで遊ぶ子供たちに紛れて、犬の散歩の人の姿も見られる。市民公園は、整えられた芝生、運動用のコート、アスレチックの広場、大きく分けて三つの区画に分けられており、利用する人々の目的も様々だった。
ぶらついているうちに、二人はバスケットボールのコートに辿り着いた。片隅に、ボールが一つ転がっている。黒の油性マジックで「綿貫」と持ち主の名前が書いてある。火傷の少年はそれを両手で拾い上げて見つめた。
「誰のだろう」
「名前が書いてあるね。──……持ち主は、見当たらないみたいだ」
読み上げようとした声は、やはり喉の奥で塞がれてしまった。まさか当時の自分たちがいるのではないかと薫生は辺りを見渡したが、そのような姿はない。
「これも使い方、知ってる」
大人からすれば小柄なその体躯が、不意に機敏に動く。コートを蹴り、軽くドリブルしてシュートを決めた。ばすん、と音を立ててボールがゴールに入るのと同時に、その様を間近で捉えた瞳が大きく見開かれる。落ちたボールは数度跳ね、また地面に転がった。
「ナイッシュー」
親友と遊んだ日々に戻ったような心地がして、薫生はそう声を掛けた。ゴールを決めたきり、その場に立ち尽くしている火傷の少年のそばに歩み寄り、ボールを邪魔にならない方につま先で小突いてから彼を見やれば、苦しげに、浅い呼吸を繰り返している。
「俺は、どうしてここにいるんだっけ?」
火傷の少年が譫言のように呟くのに、薫生はまた沈黙する。
「何か、すごく熱くて、赤くて……」
「……やめておいた方がよかった?」
「ううん、大丈夫。でも、近づかない方がいいって意味は、少しわかった気がするよ」
きっと、火事の記憶を思い出したのだろう。そう思うと、薫生の心臓はじくりと抉られるようだった。
「大分、思い出してきてる気がする」
薫生の憂いを知ってか知らずか、きっぱりとした口調で火傷の少年は言った。
二人は再び公園を横切り、程なくしてアーチの前まで辿り着いた。向こうには、そこだけ異空間が切り取られたように白い廊下が見えているが、周囲が気づく様子はない。アーチを境界にして、吸い込まれるように現れたり消えたりする人々にとっては、そこはきっとコンビニのある通りに繋がっている、ごくありふれた『市民公園のアーチ』なのだろう。出入りする人々に紛れて、素知らぬ顔をして元の場所へ戻る。
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