白く長い廊下を進んでいくと、左右に並ぶ絵画が視界の端に映った。写実的な作品が多く、よく見ればその光景は薫生にも馴染みのあるものばかりだ。中学校の校庭。二人で過ごした教室。一緒に遊んだ薫生の子供部屋。時折仲間たちとバスケットボールをした市立公園。親友の家の居間の、テーブルに置かれた林檎等の果実。

 中でも一際薫生の目を引いたものがあった。赤々と燃え盛る、藍色の瓦屋根の家の外観を描いた絵画だ。十年前の今日見た光景をそのまま切り取ったかのように、脳裏に焼き付いたイメージと寸分も違わなかった。まるで誰かに、自分の思考を覗き見られたかのように。

 そんなことあるはずがないと慌ててかぶりを振って、もういくらか歩を進めれば、少年の元へと辿り着くことができた。十字に交差した廊下を見渡せば、絵画が飾られているのは今来た方だけで、あとには全ていくつも扉が並んでいるのだった。

「随分扉がたくさんあるんだね。全部部屋なの?」

「開けてみる?」

 火傷の少年は、薫生を見上げて悪戯っぽく尋ねた。

「え? 開けちゃっていいのかなあ」

「いいよ。俺はさっきの他にもいくつか近づかない方がいいって言われてる扉があるけど、あなたは大丈夫だと思う」

「じゃあ、この扉は何だろう」

 好奇心には打ち勝てず、家の外観には似つかわしくないアンティーク風の豪奢な装飾の扉を開けてみる。その先では、霊媒師らしき人物を中心に円卓を取り囲む人々が、交霊会を行っている。薄暗い部屋の中に、煙のようなエクトプラズムが漂い始める。

 薫生はバタン、と扉を閉じた。

「え?」

 火傷の少年を振り返ったが、彼が動じた様子はない。

「そこはいつもそんな感じだよ」

「知り合い……?」

「知らない」

「知らない人なんだ?」

「だって関わらない方がよさそうじゃない?」

 火傷の少年は朗らかに言った。

「うん、そうだな」

 全く状況を飲み込めてはいないが、その言葉については薫生は心の底から同意して、火傷の少年の元にそそくさと戻った。もう今の扉は誓って開けるまいと、固く心に決めていた。

「いやあ、いきなり強烈なとこ開けちゃったな。君はここにずっといるの?」

 どうやらここがただの民家ではなさそうなことにはさすがに気がついて、探りを入れるように薫生は尋ねた。そもそも焼け落ちたはずの家屋があるのが、やはりおかしいのだ。

「ずっとじゃないけど、よくいるよ」

「他の扉も、あんな感じ?」

「ううん、結構いろいろかな。あなたの来た扉の外はどんな場所?」

 火傷の少年は、やはり玄関扉の外が気になるようだった。

「どんなって、普通の町かな。そんなに都会でもないし、田舎でもない。近くに中学校があって、あ、あと今は桜がもうじき見頃だ」

「へえ。じゃあ、結構普通の人間の町なんだね」

「普通の人間の町って、はは、そりゃそうだよ」

 話しながら、二人はどちらともなく、延々と続く廊下を歩き始めていた。廊下が十字のように交差している場所は一箇所だけではなく、碁盤の目のように整った道は、果てしないように思えた。もう、一人で玄関扉に戻れそうにはなかった。少し先を行く少年を、薫生はそっと眺める。見れば見るほど、親友と異なるところは右頬の火傷しか見つからない。耳のすっきりとしたラインまで同じだ。火傷は、ひそやかで綺麗だった。

「その火傷、どうしたの?」

 少年の横顔に惹き付けられたまま、薫生は尋ねた。常であれば口にしないような無粋な問いかけだったが、そんなことも忘れてしまうくらい、彼に見惚れていた。

「ああ、気になる?」

 火傷の少年は、自分より上背のある薫生を振り返ると、視線に気づいて右頬にふれた。

「大体取ってもらったんだけど、ここだけ残っちゃったんだよね」

「取る?」

 少年が何気なく発した言葉は、しかし薫生の鼓膜には酷く奇妙に響いた。

「うん。神様に?」

「……神様?」

「そう。前の記憶と名前と一緒に、回収してもらったんだ。あなた、当たり前みたいに言ったけど、ここはもう人間の町じゃないよ。俺も、人間じゃないし」

 火傷の少年は、どこか試すように薫生の顔色を窺っていた。

「人間じゃないなら、幽霊とか?」

「ううん、幽霊じゃない」

 火傷の少年は躊躇うように睫毛を伏せ、人差し指の先に乗った桜貝のような爪で、火傷の頬を掻いた。

「天使って言えばわかる?」

 薫生は思わず口を噤んだ。

「元は天使じゃなかったみたいなんだけどね。天使になる前に自分が何だったのかは知らない。ここは天界の神殿で、扉は時間も空間も捻じ曲げていろんなところに繋がってるんだ」

「そっか。君は、天使なんだね」

 その姿を改めてとっくりと見つめて、確かめるように薫生は言った。

「うん」

 薫生が疑うような素振りを見せなかったからだろうか。火傷の少年は安堵した表情を浮かべ、はにかむように微笑んだ。その笑顔のいとけなさに、火傷の少年がそれまで見せていた表情が、記憶にある親友のものよりも随分大人びていたことに、薫生はやっと気がついた。

「でもあなたの来た扉の外が普通の人間の町なら、なんで俺はあそこに近づかない方がいいって言われてるんだろう。それは、よくわからないや」

 火傷の少年は不思議そうに元来た方を見やった。

「……さあ、どうしてだろうね」

 自分の口から告げるのも気が引けて、薫生は曖昧にそう返し、辺りへと視線を移した。

「他にはどんな扉に近づかない方がいいって言われてるの?」

「えっと、たとえばあそことか」

 火傷の少年は廊下の少し先を示した。


    2−A


 そう記されたプレートが壁から突き出しているのを見ただけで、そこが何の扉かはわかった。連れ立って近づいてみればやはり、艶やかに光る木の引き戸は、中学校の教室の扉だ。

「懐かしいな」

 思わず口にした言葉に、火傷の少年は驚いて薫生を見上げた。

「あなたはこの扉も知ってるの?」

「うん、よく知ってるよ」

「そうなんだ……」

 火傷の少年は感慨深そうに呟いて、木の引き戸へと視線を移した。

「でも、近づくのがよくないなら入るのはやめておこうか」

 神様の訓示に逆らうような真似をしてしまったことに気がついて、薫生は扉にふれかけていたすんでのところで手を引っ込め、その場を離れようとした。

「あなたは天使になる前の俺に、関係がある人なんじゃないかな」

 背後からそう声が掛かり、薫生はどきりとして足を止めた。

「辛い出来事を思い出すから、開けるときは覚悟を持つようにって、神様はそうおっしゃった。あなたの来た扉も、この扉も、どんな風に前の俺に関わっているのかはわからないけど、今がその時のような気がする。ここにいて、呼び鈴が鳴ったのは初めてなんだ」

 薫生はいくらか躊躇しつつも、火傷の少年を振り返った。

「入ってみる?」

「うん」

 薫生の声音とは裏腹に、火傷の少年の返事には寸分の迷いも隙もなかった。彼は自ら扉に手を掛けて開け、興味深そうに視線を巡らせながら中に入っていった。後に続いて見回した教室は、中学生だった当時のままだ。がらんとしていて人気がない。しかし、各々の机には鞄がぶら下がっていて、その様相からここが十年前の教室だと確信できる。

 親友の席はすぐにわかった。窓辺の彼の席の脇にはいつも、アコースティックギターのケースが掛けられているからだ。

「机がいっぱいだ。あれは?」

 火傷の少年は親友の席に、真っ直ぐに歩いていく。彼は慈しむように、アコースティックギターの黒いハードケースにふれた。

「これ、知ってる。開けてみてもいいのかな」

「いいんじゃない? 誰も見てないし」

 本当のところを言えば、火傷の少年をどこまで綿貫千春の記憶に近づけていいものか、恐れがあった。辛い出来事を思い出させることになるのは明らかだったからだ。しかし、そのアコースティックギターが親友の物である以上、他人が止めるべきではなかった。

「じゃあ、開けてみるよ」

 火傷の少年はハードケースを机の上に乗せて、慎重に開けた。その明るい木材の色合いは、薫生にとっても懐かしいものだった。

「うん、やっぱり知ってる。楽器だよね」

「アコギだな」

 火傷の少年は親友の席の椅子を引いて掛け、アコースティックギターとピックを構えた。

「ここを押さえて、これで弾く」

 火傷の少年はぽろぽろとギターを奏でながら、鼻歌のようにメロディーを口ずさむ。覚えのある歌だった。親友によくリクエストした、レット・イット・ビーだ。その姿は、やはり右頬の火傷以外親友と何ら変わらず、薫生は呆けたようにそこに立ち尽くしていた。


 And when the broken-hearted people

 Living in the world agree

 There will be an answer

 Let it be


 程なくして小さな演奏会が終わり、ふと、不自然な沈黙と共に、火傷の少年はアコースティックギターを下ろした。その静けさに、薫生ははっとする。

 ──辛い出来事を思い出すから、開けるときは覚悟を持つように。

「あれ……」

 火傷の少年は、きゅっと眉根を寄せた。

「どうした?」

 薫生は目線の高さを彼に合わせ、気遣うように尋ねた。

「俺、ここに来る前は、あなたと同じだったような……」

「同じ?」

「人間だったような、気がする?」

 薫生が息を飲むのと同時に、火傷の少年は俯いていた顔を勢いよく跳ね上げた。

「ねえ、あなたは前の俺のこと知ってるの?」

 その言葉に、薫生は押し黙らざるを得ない。

「……焦ることはないんじゃない?」

 それだけ言って、屈めていた身をもたげた。突然火傷の少年が言い募った言葉に、どう答えるのが正しいのか、薫生にはわからなかった。

「アコギ、片付けておきなよ。俺は先に出てるね」

 今、彼の目前にいる、大人になりきれなかった不完全な自分が、惨めで居た堪れなかった。薫生は火傷の少年に背を向けると、教室の扉の外へと出て行った。

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