四月の町は僕にうそぶく

蜜蝋文庫

 少年だったあの日のまま、薫生かおるの心は時を止めて、ただ色褪せてしまった。

「また明日ね」

 市民公園のアーチの向かいにはコンビニがある。バスケットボールを抱えた腕で、器用にソーダ味のアイスキャンディーの包みを開けて咥えながら、友人は笑って手を振った。

「おう、借りてたゲーム持ってく」

 こちらも同じアイスキャンディーを齧りながら大きく手を振り返して、家路へと駆け出す。

 中学校の春休みがじきに終わる三月最後の日。遠野薫生とおのかおるとその友人である綿貫千春わたぬきちはるは、こうしていつも通りの帰路に着いた。長期休暇中ではあったが、二人は学校がある時と大差ないほどの頻度で遊ぶ、親友同士と言って差し支えない間柄だった。千春は母方の祖母がイギリス人のクォーターであり、色素が薄く、つり目がちの涼しげな目元が印象的な少年だった。明るく朗らかな性格で、人好きのする笑顔の彼の周囲には、いつもたくさんの友人がいた。

 そんな彼の親友であれたことは、薫生の小さな誇りだった。たとえそれが、たまたま家がごく近所であったという偶然による産物であったとしても、子供の薫生には無関係だった。

 四時間目の後の昼休み、友人たちと談笑をしながら給食を食べ終わると、千春はよく2年A組の教室の窓辺の席で、アコースティックギターをぽろぽろとかき鳴らした。

「リクエストある?」

 と戯れに訊かれると、薫生は決まって、

「レット・イット・ビー」

 と、ちょっと自分が賢くなったような気がしながら言ったものだった。

「レット・イット・ビーね」

 すると千春は心得たように頷いて、弾き語りを披露してくれる。

 薫生がその曲を知ったのは、千春が歌っているのを聴いたのが最初だった。タイトルも、千春から教わった。英語の歌詞の意味するところは、さほど勉強ができるわけでもない中学生の薫生にはよくわからなかったが、伸びやかな歌声は心地がよかった。

 綿貫千春は、薫生の自慢の親友だったのだ。



 四月一日、千春の家に遊びに行く。桜並木の道すがら、天に向かって立ち昇る黒煙が見えていた。消防車のサイレンがそう遠くないところから聞こえていた。晴れ渡った空に、春風に攫われた淡い花弁がはらはらと舞い遊ぶ。近隣で火災でもあったのだろう。しかし自分には千春との約束がある。そんなことを考え、通い慣れた道を足取りも軽く歩く。

 まさか、想像だにしていなかったのだ。辿り着いた先の千春の家が、今まさに赤々と燃え盛る炎に包まれているだなんて。

 呆然と立ち尽くす薫生の他にも、消火作業を眺める野次馬が集まっていた。

「一家全員、中に取り残されたままだそうだよ」

「もう助からないだろうねえ……」

 周囲の大人たちは他人事のように話している。

 間近で見る大きな炎に、頬が熱く火照っていた。吸い込まれるように一歩踏み出すと、

「危ないよ、君」

 と知らない大人に腕を掴まれた。薫生はそれ以上炎に近づこうとはせず、ただ目前で焼け落ちていく家屋を見上げていた。藍色の瓦屋根が、黒く煤けていくのが見えた。

 ──また明日ね。

 千春と交わしたあの約束は嘘になった。そう思ったのだ。

 今日は世界が自分に嘘をついた日だと。



 何かが欠け落ちたような日々を生き続けて、体ばかりは大人になった。今日は中学校の同窓会がある。長らく離れていた町に、薫生は久しぶりに足を運んでいた。

 あの火事から十年の節目の日であり、親友の命日である。同窓会もその日に合わせて開催が取り決められたのだろう。一次会は中学校の校舎で開かれる。重い足取りで、道のりを歩く。町並みは随分移ろったが、桜並木だけはあの頃と変わらない。薫生を取り巻く世界も変わってはいない。綿貫千春はどこか遠くへ消え失せてしまって、もう決して帰ってはこない。

 当時の友人たちに会っても、その中に彼の姿は見つからないという事実が、心に重くのしかかっていた。それに、中学校へ向かうには、焼け跡のある通りを過ぎなければならない。もう何か新しい建物が建設されているだろうか。それを目の当たりして、自分はどんな思いをするだろうか。のろのろと通りに差し掛かった薫生は、しかし己の目を疑うことになった。

 整然と敷き詰められた藍色の瓦屋根。白いモルタルの外壁。そこにあるのは見間違うはずもなく、あの日焼け落ちてしまった親友の家だったのだ。

 薫生は思わず玄関の前に立っていた。見覚えのある古く黄ばんだ呼び鈴を押すと、遠くでベルが鳴った。家の中から足音が聞こえてくることもなく、暫くののちおもむろに扉が開いた。

 そこに立っていたのは、十年前の親友と瓜二つの少年だった。一つ違うところといえば、少年の右頬に火傷の跡があることだ。木漏れ日が頬の片隅に細やかなまだら模様の影を落としているかのように、色素が淡く沈着しているだけの火傷だった。

「ち……」

 千春。あり得ないとはわかっていてもつい口を突いて、薫生はその名を呼ぼうとした。ところが、どういうわけだろう。いくら呼ぼうとしても、その名前は声にならない。発しようとした音が喉の奥で縫い止められてしまうような、妙な感覚がある。

「──あの、俺は」

 自分の名前を名乗ろうとしても、それは同じことだった。一体何がどうなっている?

 火傷の少年は、薫生をまじまじと見つめていた。色素の薄い睫毛がけぶり、ヘーゼルの瞳が春の日差しに透けていた。彼は、不意ににこりと笑った。

「こんにちは。どうぞ、入って」

 そう言うや否や、素早く扉の奥へと引っ込んでしまった。

「あっ、ちょっと」

 呼び止める隙もなかった。呼び鈴を押してしまった手前、後を追うしかないようだ。おそるおそる、くすんだ水色の玄関扉に手を掛け、中を覗き込む。

 外観は友人の家そのものだったが、扉の先にはまるで異なる空間が広がっていた。三和土たたきはなく、白く真っ直ぐな廊下が長く続いている。靴を脱ぐ必要はないらしい。薫生はそのまま中へ入り、後ろ手に扉を閉めた。廊下の左右には大小様々な四角形の絵画が一定の間隔を開けていくつも並んでいる。美術館のような様相だった。

 火傷の少年はどこへ行ったのだろうと姿を探せば、長い廊下の曲がり角からひょこっと顔を出し、こちらの様子を興味津々で伺っている。薫生は急いで言葉を探した。

「えっと、突然お邪魔しちゃってごめんね。そんなに距離を置かなくても、怪しい者じゃ……って言っても、説得力ないよなあ」

 突然見知らぬ他人の家を訪問するのは、確かに大分非常識な行動だったかもしれないと思い直し、薫生は途方に暮れた。

「あ、こちらこそごめんなさい」

 不躾に好奇の眼差しを向けていたことにようやく気がついたのか、火傷の少年はそう言って目を伏せたが、やはり我慢できなかったのか、再び淡い視線を薫生へと上げた。

「本当は俺、その扉に近づかない方がいいって言われてるんだ。あなたはそこから来たから」

 そう言ってから慌てたように、

「でも近づいちゃ駄目ってわけじゃないよ」

 と付け足した。

「そうなんだ。やっぱりまずかったかな。何となく上がっちゃったけど、君も困るよね」

「ううん、困らない」

 火傷の少年はやはり遠目から、呼び鈴を押されたことに気を悪くしているわけではないのを示そうとするかのように首を横に振った。

「あなたはその扉の外のことを知ってるの?」

「外のこと? 俺はただそこの通りを歩いてて、うっかり……この家の呼び鈴を押しちゃっただけなんだけど。君は外のことを知らないの?」

 薫生は不思議に思って、自分が今しがた通ってきたばかりの玄関扉を見た。外に出ようと思えばいつでも出られるし、扉の向こうにあるのは何の変哲もない町並みだ。だというのに近づかない方がいいというのは、どういうことだろう。

「うん、知らない。知ってるなら少し話していかない? 外のこと、気になる」

「話かあ」

 この後には同窓会が控えている。しかし、どうにも目の前の少年を放っておけないような気がして、薫生はひとまず袖を捲って腕時計を確かめた。

「あれ?」

 すると何やら様子がおかしい。秒針が同じところで振動を刻み続けている。

「どうしたの?」

 火傷の少年はすぐさまそう尋ねてくる。

「ごめん、ちょっと待ってね」

 壊れてしまったのだろうかと、ポケットを弄ってスマートフォンを確認すれば、画面には4月1日、12時48分と表示されている。今は同窓会のはじまる15時の少し前だったはずだ。それだけに留まらず、圏外になっている。同時に故障するなんて、そんなことがあるだろうか?

 薫生は暫し沈黙し、思案した。どうせ同窓会に行っても、親友はいないのだ。ならばこの不可思議な状況に身を委ねて、彼と話をしてみる方がよほど有意義なことのように思えた。

「うん、いいよ。少しお話ししようか」

 薫生はスマートフォンの画面を閉じると、火傷の少年の方へと一歩を踏み出した。世界が色を失くしてしまった十年ぶりに、わずかに心が弾むのを感じていた。

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