檸檬
鍵崎佐吉
檸檬
ファーストキスはレモンの味だった。
彼に勧められたレモン味のお酒はアルコール特有の苦みも感じなかったし、ほとんどレモンソーダと変わらないように思えた。そうなると自分がちゃんとお酒を飲めている事実そのものになんだか嬉しくなってきて、私のそんな様子を見ていた彼も楽しそうに笑っていた。気づいた時には三つも缶が開いてしまっていて、その頃にはもう私は完全に出来上がっていた。朦朧とした意識の中で少しずつ隠していたはずの素肌が空気の冷たさを感じているのを自覚して、それでも私はいつまでもこの甘い微睡の中で彼に全てを預けていたかった。ふと口の中に何かが入り込んできて、その熱と仄かな酸味が私の一番大切な思い出になった。
彼は忙しいとかお金がないとか理由をつけてあまりデートをしたがらなかったけど、一度だけ二人でテーマパークに遊びに行った。一番お気に入りの服を着て、くたくたになるまで遊びまわって、売店の前のベンチで少し休憩する。レモン味のシャーベットを食べながらなんとなく商品を眺めていたら、彼がお揃いの黄色いストラップを買ってくれた。そして思い出したようにポケットから自分の家の合鍵を出して、それにつけておいて、と言って渡してくれた。それは私にとって運命の扉を開ける魔法の鍵だった。
私と違って彼はほとんど仕送りを貰っていなかったから、学費はともかくとしても生活費を賄うためにはバイトをしなければならなかった。それだけじゃなくサークルの仲間や飲み屋で知り合った友人に誘われて出掛けることも多かったから、自分の家や生活はどうしても荒れがちになってしまう。私は三日に一回は必ず彼の家に行って、食事を作ってあげたりそのまま朝まで二人で過ごしたりした。彼が留守で会えなかった時も掃除や洗濯を代わりにやってあげて、そうやって彼の息づかいを感じながら一人で過ごす時間も私は嫌いじゃなかった。
ストラップにつづられた「Happiness Everywhere」という文字を見るたびに、私たちはどこにいても繋がっているんだと思えた。そんな幸せがいつまでも続いていくんだと、そう信じ込んでいた。
珍しく大学で彼を見かけたので声をかけようとして、私は思わず息を飲んだ。彼の隣には私とは似ても似つかない茶髪の派手な女が寄り添っていて、二人は時折微笑みを浮かべながら並んで歩いている。私はとっさに物陰に隠れて息を潜めた。そうした直後になんでそんなことをしたのか自問する。だって彼の隣にいるべきは私の方で、だから私がこんな風にこそこそする必要なんてないはずだ。だけど私は今の彼と正面から向き合うことはできなかった。得体の知れない不安が私の頭の中にじわじわと滲んできて、軽い目まいと吐き気を感じるほどだ。
二人はそのまま連れ立って大学を出て、何か談笑をしながら駅の方へと歩いて行く。その光景と互いの距離感はどう見てもカップルのそれにしか見えない。私は自分の心の整理もできないまま、ただ二人の後をこっそりとつけていく。駅に着き電車に乗り、二人は同じ駅で降りてまた並んで歩き始める。ようやく二人が立ち止まったのは明らかにそっち系のホテルの前だった。それから先起こるであろうことに私は耐えられなくなって、ほとんど走り出すようにその場を後にした。
何度も彼に連絡をしようとして、その度にあの光景がフラッシュバックして私の思考を真っ黒に塗りつぶしてしまう。彼の家の合鍵を握りしめて、縋るような思いでようやくメッセージを打ち込んだ。
『今日大学で見かけたよ』
『一緒にいたあの女の子誰?』
返信は来なかった。一週間経っても、一か月経っても、既読すらつかなかった。それを確かめるたびに彼と過ごした日々が色あせて干乾びていくのを感じた。もうとっくに手遅れだってわかっているのに、なぜか日を追うごとに強くなる焦燥感が不快でたまらなかった。
だから私は彼の家に行くことにした。私たちが終わったのなら、最初から私を愛してなんかいなかったのなら、彼の口から直接そう言って欲しかった。そうすればきっと私は全部あきらめて自由になれる。そう考えたらむしろ少しずつ前向きな気持ちになっていって、どうせ最後になるのならとびきり可愛い私で会いに行ってやろうという心境になってくる。たっぷり時間をかけて支度を整えて、通いなれた道を一歩ずつ歩んでいく。
久々に訪れた彼の住むアパートは、当然外観は少しも変わっていないのにいくらか背が高くなったように見える。階段を上って二階の彼の部屋の前につく。カーテンはぴったりと締まっていて中の様子はわからない。深呼吸を一つして、私は覚悟を決めてゆっくりとインターホンを押した。安っぽい電子音が廊下に響き、私の神経を尖らせる。だけど部屋の中からは何のリアクションも感じられない。念のためもう一度インターホンを押してから、私は落胆と安堵の入り混じったような心地で息を吐きだす。もしかしたら彼はもうここには帰らないつもりなのかもしれない。それが現実的に可能な事なのかどうかはわからないが、なんとなくそんな気がした。そう考えたらこうやってドアの前でなす術もなく立ち尽くしていることにどうしても耐えられなくなって、私はほとんど衝動的に合鍵を差し込んでドアを開けた。
案の定部屋の中には人の気配はない。それどころか私が最後にここを訪れた時から少しも変わっていなかった。やっぱり彼はここにはもう帰らないんだ。今頃あの女の家にでも転がり込んで、どうやって私からこの部屋の合鍵を回収するか考えているのかもしれない。机の上には以前私が残したメモがそのままになっている。
『洗濯物溜めすぎ! 忙しいのはわかるけど私に頼り過ぎないように』
そっか、必要なかったんだ、私。その瞬間ずっと自分に纏わりついていた何かが解けていくような気がして、だったらもう全部終わりにしようと思った。新しいメモをちぎってそこに別れの言葉を書き残す。だけど結局彼を呪う言葉は書けなかった。
『爆発しろ』
この部屋も、あの茶髪女も、積み重ねた二人の時間も、全部跡形もなく吹っ飛んでしまえばいい。笑っちゃうくらい幼稚で単純な、だけどそれが私の本心だった。その上にそっと合鍵を置いて私は部屋を後にする。もう戸締りなんかしてやらない。いつか怯えた表情の彼が恐る恐るこの部屋に帰って来た時のことを想像して、私はひっそりと笑みを浮かべる。それが私にできる精いっぱいの仕返しだった。
夕焼けに染まる街はまるでレモンを溶かし込んだような黄金色に輝いていた。
檸檬 鍵崎佐吉 @gizagiza
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