狂愛
ハチ
第1話
おや、と思いました。今日は、どこやらおかしい。あの方は寒がりだから、家に帰ってきて、「ただいま」と大きな声で叫ぶと、そのまま乱暴な足音を鳴らしながら寝室にこもり、すやすやと寝てしまいます。そして、しばらくし、あの方のいびきを聞くというのが日常なのですが、やはり、おかしい。
彼の声はよく通りますので、たとえ一言であったとしても、(おんぼろな家に住んでいるからか)家全体に衝撃が走るほどで、聞き逃すことなどないはずなのです。
今日は、妙に静か。
無音。まさにそれです。生活音と呼ばれるものが、全くと言っていいほどせず、ここにただ一人、座っています。時間は確かに過ぎているのに、変化がない。まるで、私が死んでいるのかとさえ思われました。そのくらいには異様な空間でした。
「ああ、どうしましょう」
耐えられず、思わず独り言を言ってしまいました。大丈夫、あの方はきっと、大丈夫、そう心で唱えてしまいました。他人からしてみれば、惨めで、弱々しい言葉に見えるかもしれませんが、そうではなくて、これは気高く強い、女の行動なのです。あの方を信じるという、信念なのです。決して私は、弱くない。
あの方がいつ帰ってきてもいいように、寝室の布団(いつもは、先に寝るあの方が敷いています)を準備しておこうと思い、私は前を向きました。すると、近所に住んでいるサチおばちゃん(本名は幸子なのですが、皆からそう呼ばれています)が、
「キヨちゃん、キヨちゃん、やばいよ」
と私の名前を叫びながらドアを叩いたので、
「こんな時間にどうしました?」
と冷静に聞きました。よく見かけるサチおばちゃんですが、直接関わることは少なかったので、少し驚きました。しかし、サチおばちゃんはそんなこと気にせず、
「茂君が」
とあの方の名前を言いました。
一
二年前の九月一日。あの震災で私達は出会いましたが、起こる出来事の全てが偶然の産物で、少しでも違っていたのなら、私達は恐らく赤の他人であって、相手のことはお互いに知らず、この激動の人生を歩まず暮らしていたのではないでしょうか。
偶然、私を見つけて、偶然、助けてもらって、偶然、恋に落ちて、ただ、それだけのことなのです。何の変哲もない、人生の一コマなのです。しかし、私達のような人間は、その偶然に運命などという名前を付け舞い上がり、そして、わかりもしない未来について話し合います。
「この世に運命なんてないのよ、あなたも、きっとそう」
昔、お母様が、目を細め遠くを見ながら、言いました。どこの家庭もお見合いですぐ結婚してしまうので、きっと、そのことを伝えたかったのでしょう。私もそうなるとわかっていましたし、受け入れていました。
それが、あの方と出会ったことで、変わってしまったのです。
偶然であることには変わりないのですが、私も、運命と言ってみたくなってしまいました。彼と共に歩みたくなってしまいました。私が前を歩いて、彼がついてきて、いつもは頼りない彼を引っ張ってあげる、これは、恩返しなの、でも、いざという時はかっこいいから、たまには助けてもらおうかしら、そんな妄想をしてしまう程でした。
きっともう、私は、恋に落ちていました。お母様のあの言葉を聞いて、最も愚かで、必要がないものだと思っていた現象に、私はまんまとはまっていたのです。
あの震災で逃げ遅れていた私の手を引き、導いてくれたあの方の顔が、それから、一切離れなくなってしまい、私は彼のことばかり考えるようになりました。朝は彼の夢で目を覚まし、夜は彼を頭に浮かべ眠りにつく、どんな時でも、彼ばかり。あの方が、生活の中心となっていました。
この時、彼のことが好きだ、と、私は初めて自覚しました。
それと同時に、運命の残酷さについても、痛感せざるを得なくなりました。
避難先でもあの方とは交流があり、彼も私を気にかけてくれて、さらに惹かれていったのですが、それと同時に、幼い頃に聞かされ続けた「運命なんてない」という言葉が脳裏をよぎり、距離は近づいているのに、どんどん彼が遠のいていく気がしました。
この頃の私を振り返ると、ひとつ、大きな見落としがあると、今になってわかりました。
彼が私のことを好いているかも定かではないのにも関わらず、私は、彼との関係性をにやりと気持ちの悪い表情をしながら、ひたすら妄想にふけるのでした。
なんて恥ずかしいのでしょう。
しかし、当時の私は真面目であり、おふざけをする余裕などなく、あの方のことを一途に考えて、行動していました。そんなことをしているうちに、私の願いは、婦人雑誌のように輝かしく叶えられ、彼もまた私に惹かれていったらしいのですが、しかし、やはりお母様の言葉が胸に引っかかってしまい、それからというもの、私の妄想は、お母様に対する批判へと変化してしまいました。
……ああ、これもただの偶然なのでしょうかお母様! 私にはそう思えません。これこそ、私が理想としていた運命ではないのでしょうか、この世に運命は存在していて、お母様はただ知らないだけではないでしょうか。無知は、罪ね。
お母様に対する大きな感情が溢れ出し、そして、私は初めて意思を持ちました。今まで、所謂、家庭のお人形とでも言いましょうか、そのようになっていた私が、自己決定を成し遂げたのです。
この瞬間、私は決心しました。私、悪い子になります。
震災の混乱も少し落ち着き、ようやく、人々に余裕が出てきてすぐ、私は彼の手を引いて逃げ出しました。家族も、友人も、何もかも捨てて。そして、都心部から北の方へ行き、自然が増えてきた辺りに、私達は住み始めました。
お金は、彼のほんの少しの稼ぎだけであり、今までの生活に比べると、贅沢なんてもってのほかなのですが、それでも、近所の人と交流しながら過ごす時間は尊いものでした。
その中でも、特に輝いていたのが、サチおばちゃんでした。朝になると家の前を掃除しながら、
「おはよう!」
と誰よりも大きな声で言い、笑顔でこちらに手を振ってきます。そして、夕方になると、
「今日もお疲れ様!」
とこれまた元気な声で言うのでした。
サチおばちゃんの声で一日の始まりと終わりを知る、というのがこの町のルーティンであり、少なくとも私はそれに勇気を貰っていて、身近な存在のように感じていたのですが、よく考えてみるとあまり関わりはありませんでした。
だから、やはり、今日は何もかもがおかしいのです。
なぜ、サチおばちゃんは慌てて、しかも、私の家を訪ねあの方の名前を呼んでいるのでしょうか。
「やばいよ、やばいんだよ、キヨちゃん」
「本当にどうされたのですか? 一旦落ち着いてください」
「だから、茂君が」
肩を掴まれました。
「痛い」
思わず、声が漏れてしまいました。
「あ、ああ、ごめん」
申し訳なさそうに下を向くのを見て、非常事態なのだろうということがわかりました。しかも、あの方が関わっている。私は動揺を悟られないように、
「ですから、あの方がどうされたのですか? とりあえず落ち着いてください。お茶をご用意するので、さあ」
とだけ言って、サチおばちゃんを家の中に通しました。
二
「だからさあ」
少しは落ち着いたものの、まだ気持ちが静まる気配のないサチおばちゃんが、机をどんっと叩きました。焦っているのか、普段より早口に感じます。そのままの勢いでサチおばちゃんは、
「今日ね、茂君とすれ違って、様子がおかしかったから後をつけたんだけど、そしたらさ、洋服を着た男の人たちに連れ去られちゃって、私、怖くて、動けなくて……。さっきまでその場で固まってたんだけど、やばいと思って伝えに来たの」
と一息で言って、大きなため息をつきました。
「あの方が、連れ去られた……」
私は、サチおばちゃんの言葉を復唱することしか出来ませんでした。先程までは、気のせいだ、と言い聞かせ、何とか持ちこたえていましたが、最悪の事態を知らされたことで、全身の力が抜けてしまいました。
治安維持法。
そのような法律が制定されたと、少し前に耳にしました。あの方は確かに、少し左翼的な思想を持っていて、左翼関係の活動にも参加していたので、きっと、目を付けられてしまい、警察に逮捕されたのでしょう。
それにショックを受ける間もなく、
「キヨちゃん、捜しに行くよ」
と言って、サチおばちゃんが私の手を引いたので驚きました。理解ができないのではなく、なぜ、こんなに優しいのか、巻き込んで迷惑ではないのか、というような驚きでした。しかし、彼女の目を見て、私の心配は杞憂であったことがわかりました。自分の考えはどれだけ失礼だったのか、と思いました。
私は、心の底から感謝しました。サチおばちゃんの衝動性に救われた気がしました。
「行くってどこに?」
「わかんないよ、でも、じっとしているよりはいいでしょう? もしかしたら、その辺にいるかもしれない、私の、見間違いかもしれない。ひとつ確かなのは」
鋭い目で見つめられました。
「は、はい」
少し身構えてしまいます。
「……茂君は生きてるよ。彼はキヨちゃんを本気で愛している」
その時、私は思い出しました。あの方はいつも、私に愛していると言ってくださっていたことを。私が、
「どうして? 私に取り柄などありませんよ」
と尋ねると、
「そういうところだよ」
とあの方は答えるだけでした。彼はあまり多くのことを口にはしませんでした。それでも、愛されていたことは断言できます。私は、本当に取り柄がないと思っていましたが、それでも彼は私を求めていたことが、嬉しくて、嬉しくて、たまりませんでした。ひとりの男に愛されることの幸福さを知りました。
そんなことを考えていたら、顔が熱くなってきました。私は照れ隠しのために、
「絶対見つけましょう」
と言って、こぶしを固く握りました。
「その調子だよ」
サチおばちゃんは、この状況を楽しんでいるようにも見えました。しかし、一旦冷静に考えると、こんな時間に探したとしても見つからないので、明日、改めて出発することにしました。不安な私をひとりにさせないように、サチおばちゃんはうちに泊まってくれました。
「絶対、見つけようね。どれだけ遠くでも構わないから」
「ええ、必ず」
「いい返事だ」
サチおばちゃんは、私の頭をそっと撫でました。珍しく、ぐっすり眠ることができました。
次の日、清々しいほど天気が良く、自然までもが私達を応援しているように見えました。朝ごはんを素早くすまし、きっと、果てしなく長いであろう旅に出ました。あの方が行った場所の手がかりがあるはずもなく、本当に逮捕されていたとしても、警察が私達に情報を開示し、平和に釈放するはずがありません。無謀な行動でしょうが、なぜか見つかる気がしました。本心なのか、言い聞かせているだけなのか、それははっきりしませんが、謎の自信が満ち溢れてきました。
とりあえず、近くを探してみることにしました。と言っても、近場はあまり期待していませんでした。田舎町でも、流石にある程度は整備されていて、身を隠す場所(隠れているのか、隠されているのか、それは定かでないですが)などないはずです。しかし、念には念を、ということで探すことにしました。
二人で見慣れた街を歩いていると、彼が後ろを歩いているような錯覚に陥りました。少しでも手を後ろに振れば、彼の指先があるような気がしました。いつも、彼は後ろをついてきていたから。それでも、私はめそめそなんかしない。あの方を見つけるために、後ろは絶対に振り返らない。彼のことを、信じているから。私は悲しくなんかありません。あの方は、きっと、いるのだ。私は、出そうになる涙をこらえ、この旅が終わる頃には彼も一緒だから、と心の中で唱え、前を向きました。
隅々まで探しましたが、やはり、見つかりませんでした。しかし、収穫はありました。彼が連れて行かれるところを見た人物が、サチおばちゃんの他にもいたため、彼女の見た事件は、この街で本当に発生していて、それが彼であるということが確定しました。
「とりあえず、少し前に進んだね」
サチおばちゃんが言いました。
「そうですね」
私は、その底なしの明るさが羨ましくなりました。様々なことが起きた時、よかった出来事に目を向ける、それは、私にできるはずのない芸当でした。
「どれだけかかってもいいからね」
「ありがとうございます」
「見つかるから、焦らないで、彼は絶対生きてるからね」
「ええ」
サチおばちゃんはそのようなことを何度も言って、私を勇気づけ、全力で協力してくれました。彼女は、とても優しい顔をしていました。
三
あの方が呼んでいるような、気がする。
私達は、あの方と逃げてきた道を戻り、都心部へと向かっていました。警察は、共産主義者を血眼になって探しているようなので、きっと、大きな警察署(詳しくないので、はっきりはしませんが)に連れていかれたのだと予想し、はるばる田舎のほうから移動することにしたのです。私は少し期待していました。ここに、彼の気配を感じていました。彼の顔を見るのが待ち遠しくなり、早く目的地に到着して、と願うのですが、そう思えば思うほど体感時間は長く感じられてしまい、心臓が破裂するほど動いて、焦りすぎて感情が体から出て行ってしまいそうでした。
よほど興奮していたのか、私は珍しく貧乏ゆすりをしていたようで、サチおばちゃんに、
「こら、貧乏ゆすりしちゃいけないよ」
と止められました。はっとして彼女の顔を見ましたが、とても穏やかであり、私は驚きました。
「すみません」
私は頭を下げ、謝罪しました。
「大丈夫、頭を上げて。焦る気持ちはわかるよ、でも、焦ってはだめだ。大事な時だからこそ、落ち着こう」
頭をそっと撫でてくれました。
「ありがとうございます」
「いいえ」
感謝の気持ちでいっぱいでした。これからの人生、様々なことが起きて、そして、忘れていくのでしょうが、この出来事は脳裏にくっついて離れることはないだろう、と思いました。
「そんなことをしてたら、ほら、着いたよ」
サチおばちゃんが前を指しました。それを聞いて私は宝石のように目を輝かせていたのでしょう。サチおばちゃんがくすくす、と笑いました。
「笑わなくてもいいじゃないですかあ」
「ごめん、ごめん」
謝ってはいましたが、笑いが止まる気配はありませんでした。私は、ふんっ、というように、あからさまに首を振ってみせました。
「ごめんよお」
「ひどいです」
「許しておくれ」
そんな会話をしているのに、私達の表情は笑顔でした。彼がいなくなって、笑うことが極端に減っていたので、こんなに明るい気持ちになったのはずいぶん前のことだったように思えて、懐かしく感じました。
バスを降りると、日差しが飛び込んできて、私は目を細めました。目をもう一度開いた瞬間、数年ほど前までは当たり前のように見ていた景色が、まだ震災の傷を所々に残しながら、どこまでも広がっていました。なんとも言えない、しみじみとしたような感情がこみ上げてきました。あの方と全てを捨て出ていった、幼い頃は何度も走り回った、故郷。その土地を、また、踏んでいるのだ。そして、あの方も、きっとここに。
私達は、巡回をしている警察官に、
「茂という男を知りませんか? 警察官らしき人物と一緒にいるのを見たのですが、全く心当たりがなく、(共産主義者であることは言えませんでした)もしかしたらなにかの間違いなのではと思いまして」
と尋ねました。すると警察官は、
「そんな男は知らないし、仮に知っていたとしても、我々がミスをするはずがない」
と不愛想に言いました。ここで聞き出さねばならない、と思い、何度も頭を下げましたが、しかし、まともに取り合ってもらえず、不機嫌そうな顔をして去ってしまったので、落胆しました。
それからも、私は諦めず、すれ違うほとんどの人に、
「茂という男を知らないか」
と聞いたのですが、ほとんどが首を横に振るか、更に冷たい人は返事すらしてくれませんでした。警察署の前で待機してみると、警察官に怒鳴られ追い返されるし、歩き回ると変な噂を広められ、ひそひそ、と何か哀れなものでも見つけた時のような態度をとられるのです。私はそれでも探し続けましたが、少しずつ日が暮れているのに気がついて、焦り始めました。しかし、無慈悲なもので、刻々と時間は過ぎていくのでした。時間よ止まってくれ、私を置いていかないでくれ、と何度も祈りましたが、私の願いは叶わず、とうとう日が暮れてしまいました。
結局、大した収穫もなく、ただ、東京の街を歩くことしかできなかったのです。自分の無知さを恨みました。今まで、家族に対して無知と言い、批判してきましたが、私こそが最も無知であることに気が付いて、恥ずかしくなりました。もうそれからは、ただ、自分を恥じるばかりで、彼を捜すことにすら力が入らなくなってしまい、明日からはどうすればいいのか、とばかり考えていました。このような気持ちで捜したところで見つかるはずがないのだし、それに、彼がここにいるということすら疑い始めていました。
ベンチに座り、下を向いていると、アホウドリ、という言葉がふと、頭の中に浮かんできて、私は妙に納得してしましました。そうだ。きっと、私はアホウドリなのだ。醜態を晒しているのにすら気がつかず、あほ面をばらまいているだけなのだ。
「どうしたのかい?」
心配しているような様子で、サチおばちゃんは私の顔を覗き込んできましたが、しかし、私は、
「いいえ、なんとも」
と答えるだけしかできませんでした。どんなことより、それこそ、この街でなにも手がかりが見つからないことさえも比べ物にならないほど、恐ろしかったのです。私の、この自分勝手な感情を理解することは、難解なパズルを完成させることより不可能に近いと思われます。ああ、私はどれだけ自分勝手な人間なのでしょうか。結局、自分の目の前にある幸せしか考えられないのです。
「本当に大丈夫なのかい?」
「ええ」
「私でよければなんでも聞くよ?」
「大丈夫と言っています」
「ごめんね」
誰とも話したくありませんでした。私は強引に会話を切って、宿へ向かいました。布団に横になると、よほど疲れていたのか、すぐ眠りにつくことができました。
朝、まだ薄暗い時間でしょうか、サチおばちゃんはが私の部屋のドアを叩きました。私は、あの方が消えた日のことを思い出し、時間が戻ったのかという錯覚に陥りました。いいや、もしかすると、時間が戻ることを期待していたのかもしれません。とにかく、飛び跳ねたいほど心が躍りました。しかし、目が冴えて、何も変わっていないとわかりました。
ぐっすり眠れたからか、驚くほどに目が冴えていたので、私は一切目をこすることなく、
「なんでしょう」
と聞くと、サチおばちゃんは、
「茂君を見たんだ、早く」
と私の手を強引に掴みました。目覚めたときの高揚が蘇ってきました。やはり、いたのだ。私は間違っていなかったのだ。今までの苦労が報われた気がしました。
「あの方はどこに?」
「わかんない。でも、見たんだ」
確信があるような言い方でした。あれほど探して見つからなかったのにも関わらず、そんな簡単に見つけることができるのか、という疑問は残りましたが、しかし、ここまで言うのであれば真実なのだろうと思い、ついて行くことにしました。サチおばちゃんは迷うことなく、すいすいと進んでいきました。
「もうすぐだよ」
少し開けたところに着いたので、私は、周りを見渡してみました。ここにきっと、彼が。自身の周りを、木陰を、建物の間を、捜す。さあ、どこに、どこに、どこに……。
「いない」
あの方は、どこにもいませんでした。朝は感じていたあの方の気配すらも、消え失せているような気がしました。
「そ、そんなはずないよ、もっと捜そうよ」
「もう、いいです」
諦め、というより、失望でした。こんな早朝に引っ張り、期待させておいて、いないというのはあんまりだと思うし、諦めないというのも図々しく感じました。彼女が抱えている問題ではないのに、なぜ、ここまで勝手に動いてしまうのか。ここまで来たら終わりです。サチおばちゃんは、明るいのではなく、自己愛が強いだけなのです。彼女を満足させてあげるために、街中をくまなく捜索しましたが、やはり、彼の姿はどこにもありませんでした。
「勘違いだったみたい。ごめんね、キヨちゃん」
サチおばちゃんは深々と頭を下げました。しかし、ただ、じっと見つめていました。自分でも驚くほどに冷酷で、冷静に対処することができました。
「大丈夫です」
「本当に、ごめんね」
縋りつくように、私の肩を持ちました。私は、さっとサチおばちゃんの手をどけて、
「いえ」
と言いました。
行く時とは比べ物にならない静けさが、帰りのバスにはありました。事件が起きすぎたことと、温度差があまりにもあったので、向かう途中の盛り上がりは幻のようで、ぼんやりとしか思い出せませんでした。バスの中でただひたすらに、もう見つからないし、見つかってほしいかもわからない、とだけ考えていました。
四
噓をつかれたのだ。気持ちというものは、高低差があればあるほどその差についていけなくなり、そして、居場所を失うのに、それを知っているはずなのに、私に対して、あの街なんかよりもっと大きな噓を、後ろめたさもなく、軽々とついたのです。騙された。信用した私が馬鹿だった。
罪の意識、というものは、いったいぜんたい、どのようなものなのでしょうか。罪悪感でしょうか、後からついて来るものでしょうか。私達は、自宅に戻り、案外短かった旅の疲れを癒していたのですが、突然、サチおばちゃんが訪ねてきて、近くのお花畑に行こう、と誘われました。きっと、お花を見せて、やっと芽生えたであろう罪の意識をなくそうと思っていたのでしょうが、罪というものは意識するだけでは無意味なのです。その自分勝手な意識のまま行動に移すと、更に困ります。自分に罪滅ぼしという名の免罪符を与えたいのであれば、意識するだけでなく、研究し、分析し、的確な態度を相手に見せなければならない。
断る気力も湧かなかったので、サチおばちゃんについて行くことにはしましたが、変に意識されているため別に面白さもなく、まあただ見慣れた道を歩くばかりで、どうやって早く帰ろうかとばかり考えていました。しびれを切らし、
「私、そろそろ……」
と言いかけたところで、サチおばちゃんに、
「見て、白いお花、綺麗だよ」
と遮られてしまい、とうとう帰るタイミングを失いました。
「ああ」
彼女の発言に違和感を覚えました。白い花。それは、本当に綺麗なのでしょうか。いいや、何色にも染まっていないから綺麗というのが、所謂、世間の常識で共通認識なのでしょうし、間違っている訳ではないのですが、私は、何者にも染まることのない純粋さと美しさを兼ね備えた黒こそが最も綺麗であり、その純粋さこそ、私達が目指すべきものなのでは、と思います。彼女の言うことは、いつも普遍的だ。綺麗な言葉を、ただ、並べているだけだ。彼女は、白だ。反対に、私は、黒かった。何者にも染まらないということは孤独であるのです。
私はこの頃、悪い癖がつきました。サチおばちゃんへの憎しみなのか、孤独であるためか、定かではありませんが、彼女の言うことに対し徹底的に批判を(口に出すことはありませんが)するようになりました。それに、彼のこと諦めだしていたこともあり、彼女の信用は落ちていくばかりでした。もう、本心すらもわからなくなっていました。彼は殺されたのです。そうに違いない。そもそも、あの恋心は本心だったのでしょうか。弱っている心を覆ってくれたから思い込んでしまっただけで、あれはただの幻想だったのではないでしょうか。
目的を失った私は、それから、欲というものがなくなりました。最低限お金だけ稼ぎ、もう後は寝るだけ。かつてのような忙しさ、楽しさというものは、どこかに捨ててしまいました。
サチおばちゃんは相変わらず、
「おはよう!」
と朝早くから言い、日が暮れだすと、
「今日もお疲れ様!」
といつものように振る舞うのでした。
日常が戻ってきましたが、私はちっとも嬉しくありませんでした。幸福をすら感じなくなっていたのでした。
サチおばちゃんは、あれからも定期的に私のところを訪ねてきました。そして、最近はどうか、だったり、きっと見つかるよ、という社交辞令みたいなことを言って、満足したら帰っていくのです。あまりにも迷惑。しかし、きっと罪の意識を引きずっているのだろうと思い、私は優しい顔をするように努めました。
今日も訪ねてきて、ハイカラな道具たちのように同じことを聞いてきたので少しうんざりしましたが、私は、お茶を出し、笑顔を作り、なんとか偽りの自分を演じることができました。
「そういえば」
サチおばちゃんが思い出したように言いました。
「キヨちゃん、まだ若いよね。一人でこんなところにいて大丈夫なのかい? 親御さんとか心配してない?」
「心配はされてないと思います」
あえて、素っ気ない態度をとりました。質問の意図を読み取れなかったのと、私の経緯をなぜ話さないといけないのかがわからなかったからです。おそらく、たいした意味はないのだろうし、ただの好奇心なのでしょうが、人間は、不確定なものを最も嫌うものなのです。この時、サチおばちゃんが恐ろしく見えました。
しかし、大きな事件が起こることはなく、ただ、日常が過ぎていきました。
五
変化が訪れたのは、何年も経ってからでした。手紙が届いていたので、中身を見てみると、それは、父からの手紙でした。
「お前の相手は見つかった。帰ってこい」
そうとだけ書かれていました。相手というのは結婚相手のことで、おそらく、様々な人に聞き、私の居場所を探したのでしょう。ここに思い残すことなどありませんし、これ以上、心配をかける訳にもいかないので、私は、実家に帰省することを決意しました。私は初めて、一人でバスに乗りました。しかし、やはり何の特別感もなく、自分が変わってしまったことを、改めて実感しました。今の自分には、何が残っているのでしょうか。明らかに感情の起伏が小さくなり、そして、残ったのは、サチおばちゃんに対する憎悪のようなものだけとなりました。もう、ただそこに存在しているだけというような、石像程度のちっぽけな存在意義しか持ち合わせていないのです。
バスから降りると、懐かしい景色が目に入ってきたのですが、違和感でしょうか、なぜか、今までとは違って見えたのです。しかし、特に気にも留めず、のそのそ、私の家まで歩きました。家について、
「ただいま帰りました」
と言うと、
「お帰りなさい」
という懐かしい声が聞こえてきました。
お母様は、予想していたより穏やかで、今まで力を入れていた肩が、がくっと崩れ落ちました。しかし、やはり父は激怒していて、開幕早々、
「今までどこに行っていたんだ」
と手紙を送り付けてきたのだからわかっているはずなのに、頑固で、面倒で、まともに話をしたことすらないのに、今更、父親ぶったような発言をしてきたので、私は、こいつに父親という自覚があったのか、と少し感心してしまいました。
父は、昔から、我が家の厄災でありました。朝から酒を飲み、ろくに働きもせず、ただただ大声で叫び、私達の言うことなど聞かず、お母様のおかげで生活できているのに偉そうな、俗に言う、暴君のような人でした。父を尊敬したことなんて、一度もありません。しかし、お母様は可憐でした。美しく、軽やかでした。変わっていない父を抱えるお母様と、私の現状とを照らし合わせて、母がなぜあそこまで恋愛に消極的だったのか、ということをようやく理解できました。
「早く入りなさい」
うめくような低い声で、父が言いました。私は、父に手を引かれながら、半ば強制的に家の中へ放り込まれました。中でまた、
「どこに行っていた」
と聞かれました。私は無視をするような形で、下を向いていました。
「こっちを見なさい」
そんな態度が気に食わなかったのか、私の髪の毛を掴み、前を向かせ、睨み付けてきました。私は特に驚きもせず、まだ黙ったままにしました。すると、それが逆鱗に触れたようで、来客がドアを叩くまで、私をぶっていました。外面の良さは相変わらずのようで、来客が来た瞬間、気持ち悪い笑顔を作り、「はーい」と愛想よさそうに出ていきました。
それから、数日後のことです。私の結婚相手らしき人物が、家を訪ねてきました。
「お、おじゃまします」
と変に緊張した様子で必ず言葉の前に「あ」だったり「お」をつけ、私が出迎えると、やはり、
「あ、ありがとうございます」
と無駄な言葉を発するのでした。この、清という男は、うちの雰囲気に相応しくない程に、礼儀正しい人物でありました。私が、
「ご趣味は?」
と尋ねると、
「あ、趣味は詩を書くことです」
と(一言発する癖はありましたが)高貴な趣味を教え、私の様々な質問にも、嫌な顔一つせず回答しました。私は、この人にしようと思いました。この人ならきっと、私を幸せにはしてくれなくとも、ある程度の生活と、ある程度の愛情を与えてくれることでしょう。人生には一種の妥協のようなものも必要なのです。それを、あの短い旅路で知りました。頑張りすぎても、意味がない。
それからも何度か交流をして、私は、この人と結婚する、と両親に言いました。すると、二人は笑顔になり舞い上がりました。珍しく父が感情を表に出していたので、少し驚きました。あの人にもその旨を伝えると、控えめでしたが、喜んでいるようでした。
そうして、私達は結婚しました。式は盛大に行われ、いろいろなところから人が招かれたので、私は身構えてしまいましたが、しかし、皆、私達の結婚を祝福し、盛り上げてくれているようだったのと、あの人もまた楽しんでいるようでしたので、それ以降は自然体でいることができたのです。
「おめでとう」
お母様が、涙の溜まった目を必死に隠しながら言いました。父はいつものように不愛想ではありましたが、(人前なのもあるでしょうが)凶暴性はなく、一応、祝福しているようでした。
家は、あの人の実家の近くに買いました。お義母様がどうやら病気のようで、その看病のためでもありました。
ようやく結婚し、平穏な生活が幕を開けたのです。
六
東京の街を歩いていたら、サチおばちゃんと遭遇しました。そして、
「茂君が帰って来たんだよ!」
と私の肩を力強く掴み、目を輝かせながら言いました。しかし、私は、
「そうですか」
とだけ返し、笑顔を作りました。サチおばちゃんは混乱しているようでした。なぜ喜ばないのか、と言いたそうでした。そうだとわかっていましたが、私は、知らないふりをして、サチおばちゃんの前を去りました。もう興味がないのか、それとも、結婚してしまったからなのか定かではありませんが、何の悲しみも喜びもなく、受け流すことができました。奇跡が起きるにしては、少し遅すぎたのかもしれません。
家に帰ると、ちょうどあの人も帰宅したところのようでした。
「ただいま」
「おかえり」
そう、彼が言った後に、
「僕を愛しているかい?」
と聞いてきました。これは、いつものことでありました。私の態度が素っ気なく見えるそうで、彼はよく、私にそれとなく聞いてくるのです。
「ええ、もちろん」
私はいつものように答えました。彼は納得していないようでしたが、
「わかったよ、ありがとう」
と言って、寂しそうな、それこそ雨の日の子供のような表情をして、下を向きました。私はあまり気にすることなく、夕飯を作り始めました。
今日は特に美味しくできました。彼も、大きな口で、うなずきながら食べていました。私が、
「美味しいですか?」
と尋ねると、
「美味しいよ」
と何度も言っていました。お世辞のようには見えなかったので、噓をつけない人なのだろう、と思いました。彼は本物の善人でありました。仏と形容しても違和感がないくらいに。しかし、面白みのない男でもあり、この人と結婚してよかったとは感じているのですが、刺激ということになると、少し心もとない部分はありました。やはり、あの方と出会った時とはまるで違っていて、お世辞にも幸せとは言えませんでした。あの、恋に一生懸命だった私は、もういないのです。
それからも彼は、
「美味しい、美味しい」
と言いながら、ひたすらにご飯を食べていました。私はほとんど話さないので、この、きっと彼からすれば気まずいであろう空間をなんとかしようと迷走しているようにも見えました。
「ありがとうございます」
それにしても、何度も何度も同じことを言うので、私は、助け舟を出してあげました。この時、あの癖はなくなっていたのでもう気にしていなかったのですが、やはり人と関わるのは苦手なようで、人が変わるのは難しいことだということを、目の前で実感することができました。
七
それから、また数年経ち、私達に子供ができました。子供は小さな小さな女の子で、あの人は嬉しそうに、しかし、割れ物を持つように慎重に、娘を抱きかかえていました。
「そんなに緊張しなくてもいいのですよ」
「で、でも」
私は、その態度を見て、笑ってしまいました。そして、
「愛しています」
と言いました。なぜ言ってしまったのかは、私もわかりませんが、ごく自然にこの言葉が口から洩れました。彼は、更に嬉しそうで、今にも踊りだしそうでした。
「なぜ、そんなに喜んでいるのですか?」
「いや、久しぶりに言われたなって」
この時、私がどれだけ素っ気なくしていたのか、ということを思い知らされました。これからはもう少し優しくするように努めよう、と決心しました。
娘は健康的に、すくすく育って、髪も伸び、和服も様になって、我が家の星とでも言いたいくらいの人気者に変貌していました。私はいつもじっと座って眺めていましたが、彼は、娘とよく遊び、泥だらけになって帰ってくるのが日常茶飯事で、私はよく、
「洗濯が大変です」
と愚直をこぼしてはいましたが、しかし、元気なことは娘の成長にいいことなので、特にとがめることせず、ただ見守っていました。
今日は親戚があつまっていて、娘はその中の男の子と仲良くなったようで、二人で家の中を走り回っていました。それを、皆、目をそらすことなく眺め続けていました。
「可愛いねえ」
「仲良くなってよかった」
「あの二人、お似合いだな」
と、それぞれが好きなように盛り上がっていました。また、親戚の集まりが終わり、片付けをしていると、娘が、
「あたし、三郎くん(と親戚の男の子の名前を挙げ)のこと、好き!」
と言ってきました。私は、子供の言うことなんて、幻想に満ち溢れていて、とても信用できるものではないとわかっていたので、
「そう、よかったね」
と受け流しました。
娘はいつまで、その三郎君とやらを好いていられるのでしょう。私は、知っています。抱いている恋心なんてものは、夢のように綺麗で、そして、儚く過ぎ去っていくのだということを。親戚たちだって酔っぱらっていたのですから本気ではないのだし、娘だっていつか別の男を好きになる日がくるでしょう。そして、惹かれ合って、この人と一緒にいたい、と思うはずです。しかし、その恋が叶うことはありません。それは、私が今までの人生で嫌でも痛感させられた、紛れもない事実なのでした。
娘はそれからも諦めませんでした。何か話す機会があると、私に対して、
「三郎くんのことが好きなの!」
と何度も言ってきました。私はその度に
「よかったね」
と娘に興味のない肯定をし続けました。
「お母さま、ちゃんと聞いてる?」
その日は珍しく、更に会話をしようとしてきました。
「ええ、どこが好きなの?」
「だって、かっこいいじゃない」
「いいわね」
ああ、なんて無知なのでしょう、なんて純粋なのでしょう。まだこの世の穢れも、恐ろしさも知らない目をしています。
「もう、あたしは本気よ」
「わかっているわ」
「ほんとうに?」
「なにもかもよ」
これ以上、夢を見せ続け、大人になってから絶望するのはあまりにも可哀想だったので、私はお母様のように微笑み、
「運命なんてないのよ」
と伝えてやりました。
狂愛 ハチ @hachi_0908
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