4章『事後』
ここにある、完成された世界の構築。
誰にも阻むことは許されない、うつくしく完璧な一つの物語が、そこにはあった。
和泉の絵が完成した。
階段を上っているような、地を踏みしめる抑揚の表面化。けがれなき陰の色。それらが中心へ向かって円状に狭まり、同時にまた広がってゆく。
壁には幼い頃の思い出の品が大量に詰まった箪笥の中のような色。光の色は三日月。背中はひどくくすんだ灰。
目障りなものなど何も無い。うつくしすぎる絵。
そんなものを隣で作られた、俺の身にもなってほしい。
そのつもりじゃなくても、嫉妬してしまう。どうしてこんなに綺麗なんだ。
なんであんな思いをしたんだろう。なんであんな有頂天になっていたのだろう。見ろ、この美術の真髄を、まさしく神に愛された子だ。
答えは見つからない。俺の絵は駄目だったのか?綺麗じゃなかったのか?和泉は俺に同情してくれていたのか。俺の汚い、醜悪な絵を蔑んでいたのか。
どんなに力を入れても、どんなに時間をかけても埋まることのないその差。走っても、走っても、背中は見えない。足跡だけがみつかってゆく。
削りに削った俺の色。背景は青。羊は灰。
後生だ、俺の絵を切り裂いてほしい。願いが叶うのなら、歪から出てきた神の手が、巨大なペインティングナイフを持ち、俺の50号を俺ごと引き裂くのだ。
俺の臓物はどんな色なんだろう。
随分時が経ったような気がするし、一瞬だったような気もする。なんだかよくわからない。俺は本当に生きているのか。心臓の音が聞こえない。もしかして、ここはとっくにあの世なのかもしれない。
「水野くん!」和泉の声が聞こえた。
目の前が開けた。明るくて、又ちょっと目を瞑った。先程の俺を呼ぶ声が何度も頭で反響していた。
俺ってこんな弱かったのか。
「大丈夫?ボーっとしてたけど…」
「…おう、今日はもう帰るのか?」
「そのつもりだけど…水野くんは?」
「俺はもうちょっと制作してくよ」
和泉はこちらを心配しながら、扉を開け廊下に出ていった。
俺の隣に、イーゼルが無いのが不自然だ。
いつものように話しかけてくる和泉が居ないのが不自然だ。あるのは俺と俺の絵だけ。
もう放課後で、西日がキャンバスに灼き付いた。
だらだらと、意味の無いことを考え込んでしまった。意味の無い…
明日の為に、和泉の絵が準備室に運ばれてゆく時、この絵を競争相手としてでは無く…診査する側として目を通す老体たちの、なんと幸運なことよ。そう俺は思った。感受性を揺さぶられて、感嘆するだけの楽なお仕事。
俺にもできるならやってみたいもんだ。
天才たちの絵を、今時の子の作品はこんななのかと評価してみたい。いずれ収まる棺桶の中で、今世は名作の多い巡年だったと…。
間違っても一番いい賞以外を与えるなよ。その他に与えたのを知ると、俺は途端に現世を諦めてしまうぞ。
これ以上の名作があって堪るか。
終わってしまった、俺の今年が。来年はどんな作品を描こうか。和泉より良い作品が描けるかな。どうだろう、俺にはもう無理なんじゃないかな。
俺はもう、俺が凄いと思える絵画を描けない…。
自分の目線で、好意を持てるというのは、とても有難い事だったのだな。終った後で気づくものだ…。
足元が段々揺れて蠢いた。沈んでゆく感覚とともに、背後に奇妙な視線を感じた。それは、まるで三者視点で自分を見つめる監視者の目線。これを捕まえるものは一体何だ。俺の下にあるこの虚構、それは何者だ。
光が眩しく、キャンバスの縁に飾られた立派な油絵の具の塊が、非現実と妄想の境目で俺のことを監視している。つまり、本当にいかれちまったのだ。
俺のことを憎む誰か…其れは俺以外在るまい。尤もその俺すら、本物かどうか試しがつかんのだから…。
この後に、俺は一つの作品を完成させることになる。綺麗という言葉…それから最も悠く離れた非常な程の醜い絵…。だが、これが自分なのだと身を持って教えてやろう。和泉に、俺の世界の何たるかを脳髄の線に至る迄。
茶色と金色の時計 静谷 清 @Sizutani38
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