3章『無題』

 一人でいるのは怖いですか?一人じゃなければ、怖くないですか?僕は今まで一人で、生きてきました。不都合なことは何も無い、平凡な人生でした。人が人として生きるために、他人が必要なのだとしたら、僕はもしかしたら、人ではない何かなのかも知れません。


 好きなことはありません。生きることに興味を持てません。でも、死ぬつもりはありません。死ぬのは怖いです。普通のことです。


 僕は最近、友だちができました。水野くんという人です。彼は僕の話を、嫌がりもせず聞いてくれます。それが嬉しかったです。もしかしたら、人には人が必要、というのはこの様な事を言っているのでしょうか。


 彼の絵を、褒めてみました。僕は、絵が上手いとよく言われるので、絵が上手い僕から褒められたら水野くんも、喜んでくれるかなと思いました。喜んでくれたのか、そうでないのか。未だよく分かりませんが、一つ分かったことがあります。


 僕には彼が必要です。


 彼にも僕が必要でしょうか。




 和泉は、天井を見ていた。電気のついていないLEDは、役目を終えた顔をしていた。どうせこれから電気を点けるのに。部屋は暗く、カーテンから漏れ出た日光が目元を照らす。起きているのに起き上がらない自分を、太陽が不思議がっているみたいだった。


 彼はいつも不安定だ。目の前で起こっていることに、何も興味がない。ただ事象をどう捉えるべきかを真剣に悩む。眼の前のことに思いを馳せるのではなく、それに対しどう脳内で思案するかに苦しむ。太陽は太陽の光を放つ存在、ドアはドアの向こうへと導く存在、筆は筆で描けるものを作り出す存在。彼にとって、それらはそんな程度の存在でしかない。


 彼は階段を降りる。彼が踏む段の連なりは、朝の体を支える。鏡を見て、ねぐせが酷い頭をくしで必死にとかす。ぐっと力を込めないと、時々髪の毛に絡まって進まなくなる。きれいに磨かれ、ぴかぴかと光を反射する洗面台に髪の毛がプツっ、プツっと一本ずつ落ちてゆく。髪の毛は自分の居場所ではないところに落ち、流されてしまう。千切れる髪の毛は、逆らう僕自身だ。ある全体性の流れから逆らう存在は、上空の存在に淘汰とうたされる。千切れ落ちる髪の毛を見ながら和泉は、弛緩しかんした脳で考えていた。


 学校へ、自転車を漕ぎながら彼は、学校へ行こうか行かまいか悩んでいる。今日は少し暑い。熱気で疲労が溜まり、絵が描けないかもしれないと思う。そうやって毎朝馬鹿みたいな考えをするなんてと思うかもしれないが、彼は実際今日は太陽が眩しいとか、今日は空気が乾燥しているなどの理由で学校を休むことがある。そのため水野から心配されていることに本人は気づいていない。


 彼が学校に着いて一番にやることは、水野への挨拶だ。以前は習慣化していなかったが、ここ数日和泉は、水野への思いを友情だと思うことにしたのでそんな習慣がついた。席についてバッグを机に下ろすと、すぐに水野の下ヘ向かう。彼には何人か友人が居るが、水野は比較的早く学校に来るタイプなので、朝は大抵一人で居ることのほうが多い。そしてそれは、友人と呼べるかも怪しい軽薄な人間関係を未だ断ち切れていない和泉も、同じだった。彼は水野と親しくなる以前、「まあ持っておいたほうが良いか」ぐらいの感覚で友人を何人か保有していた。しかし最近の無断欠席や水野の方に気が散って彼らの話の輪に入らないなどの理由で、もはや話しかけもしない間柄になっていた。しかし、それでも以前親しくしていたのは事実なのでその人達の前で水野と話していると、「もうアイツはうちのグループじゃないんだな」と思われてしまう。どうせ喋りもしない奴らなのに。だが和泉は、関係の断ち切りは自分に非がある状態で推し進めたくないという、何とも傲慢な信念があった。


 然しそんなもの、居ない間に水野と話すという手段の前では、些末さまつな事情である。ましてや今の和泉は水野という人間に対してしか、これほどの情熱を持てない人間なのだ。そして挨拶は、最も身近なコミュニケーションだ。一言、「お早う」と言うだけで大抵意識がこちらに向き、返事が返ってくる。会話の切り出しに「挨拶」は最も適しているのだ。しかも手軽だ。どんな相手にも挨拶は通用する武器なのだ。


「お早う水野くん」


「おう、お早う」


「デッサンのモチーフ、今日多分変わるよ」


「面倒臭くないやつなら良いよな」


「僕は何でも良いけど」


「うわ、嫌味か?」


「いや、そんなつもりじゃないよ」


 時々笑顔や相槌あいづちを混ぜて、こんな会話をする。朝の日課だ。そして、娯楽でもある。しかし和泉はこのようなことをしつつも、周りのことを注意深く見ている。この会話を二人の友人に見られるわけにはいかないからだ。いや、水野の方ならまだ良いが和泉の方の友人は駄目だ。気にしていない体でしっかり値踏みしてくる。ドアの方を見て、時間を確認し、彼等がやってくる前に自分の席に戻る。面倒臭いことのように思えるが、もう慣れたことなので平然とこなしていた。


 彼はよく並列思考を行う。水野との会話を楽しみながら、他のことも思野に入れる。主に他愛もないことだが、この日は水野のことを考えていた。回避とは別に、目の前の男のことを観察する。何故この男はいくら挨拶が万能だといっても、毎回嫌な顔一つせず迎えてくれるのだろうか。嫌じゃないのか、もしくは詮方せんかたなく受け入れているのか。


 和泉は自分への評価が低い。良否はともかく、彼はそのせいで水野からの尊敬の念に気付いていない。その理由は和泉が鈍感だから、ではなく水野の感情の不安定さにある。唯の尊敬だけなら、彼はとっくに和泉への感情に折り合いをつけている。それが出来ていないのは、水野が和泉を未だ「友人」だとは思っていないからだ。水野の友人認識と和泉の友人認識は異なる。友人とはいつでも遊びに行ける間柄だと思っている水野に対し、和泉は満足に会話ができたら友人だと思っている。友達ではないが、仲が悪いわけではなく、然し唯のクラスメイト程縁がないわけでもなく、それでいて尊敬のようなものをしている相手。こんなの、煩雑ぼんざつ以外の何物でもない。しかも、和泉は水野を新しく出来た気になる友人だと思っているのだから、更にくだくだしい。もういっそ、二人に共通の知人ができれば、距離は縮まるのだが。


 たらればをいってもしょうがない。距離の進め方はゆっくりとやる。和泉の強みは現状に不満を覚えないことにあるのかもしれない。すると、水野の友人である神田が目の端に映ったのに気づき、和泉は「あっそういえばバッグ、机に置いただけで中身出してなかった」と用意しておいた言い訳を言う。

「えぇ?そのぐらい、さっさとやっておけよ」と彼は返した。さ元の席に戻り、荷物を片付けていると案の定、神田が水野の方に向かい「よう」などと話しかけていた。そのうち水野の友人の一人である松本や和泉のグループもやって来たので、彼は自席に鎮座していた。何かするわけでもなく、ただ鎮座。水野以外、実践的な交友関係が無いのでこの様な場合は何もすることが出来ない。すぐに教師が来た。早く放課後にならないかなと彼は考えていた。


 とはいえ彼は授業が嫌いという訳では無かった。嫌いという感覚が分からないのだ。皆が言う、道徳的な嫌悪感が理解できなかった。彼がいる教室の、行われている授業を聴いている大半の生徒は、眼の前で汗を流し唾を飛ばす教師の話を真面目に聴いてはいない。それはただ単純に教師が嫌いだからではなく、授業が極端に無味乾燥むみかんそうだからではなく、学校という檻に入れられセコセコ働く、そのくせ大半の生徒からおちゃらけた様子で見られる千篇一律せんぺんいちりつの教師をあわれんでいるからだろう。憐れんでいても、自分だけ張り切って授業を受けていて得することなどさして無い。張り切っていても疲れるだけだからだ。毎時間、目をつぶらず聴いているフリをしておけば、授業は真面目に受けていると捉えられるのだから。彼もロクに話は聴いていないが眼だけは真っ直ぐ前を向いていた。机の上には、今やっている英語の教科書では無く美術のノートが置かれていた。この前やったデッサンの総評をまだ書いていない為、眼の前のことは確認しつつ腰を丸め、バレないよう書いていた。ようやく終わったというところでチャイムが鳴り教師が「来週はここを――」のようなことを言っているがよく聞こえない。迫りくる放課後を前にひとつひとつ授業が終わり、その度歯車が動き目標点までの段階を示す。あと四つ、三つ――


 観測者からみる目標は図らずも実際の目標と同一とは限らない。そこには、謎に満ちた真実と観測者の願望が立ち込めているからだ。彼からみる水野君も水野君からみる彼も、得てして実際の人物とは言えない。赤ん坊が生まれる瞬間、母親の胎内から出て見えた世界が全くの未知であるように、他人の脳内など、理解出来るものではないのだから。


「水野くん、今日も放課後、残るの?」返事を知って、わざと斟酌しんしゃくしている。かなり卑怯だ。


「もちろん。俺最近創作意欲、すごいんだ」


「元からそうだったら良かったのにね」


「いやぁ、元からそうだった、よ?」にやけながら彼は言う。言葉の裏には「俺たちは今ふざけているぞ」という了解がある。今私ふざけたいから、それに乗ってきてねなんていう、おちゃらけた行動を人はよくする。一種のメタコミュニケーションだ。そうやって自分が本当に伝えたいことは、相手に言葉で伝えなくて良いんだ、と安心したいが為にこんな事をする。でも、彼もそれは好きだった。


「それにしても最近は以前より頻度が多いし、長く残っているよね」


「そうかな、いや、そうかもな」


「それはなんで?」


「さぁ分からないな。でももしかしたら、和泉のおかげかも」


「どうして?」


「和泉がやさしいから」


 いつの間にか筆を握っていた。来る日も来る日も筆を握る。手は、いつもと同じ様に固まっている。隣では水野君が真剣そうな表情で絵を描いている。いつもの、なんでもない風景。室内には他の生徒が毒にも薬にもならない絵を描いている。しかし僕は毒にも薬にもならない絵が大好きだ。毒も薬も、他人の人生に土足で踏み込んでくる。それこそが芸術なんだと、当たり前のように世界を切り開く。切り開かれた世界から血にも絵の具にも似た液体が染み出す。人はそれを、感動なんて言うのだろう。僕はそれが酷く攻撃的だと感じる。素晴らしい作品を見たときの暴力的な、浅ましい感動は教科書を読んだ時のような優しい、広域的こういきてきな感動より優れていると思うのだろうか。世界はそう解釈するのだろうか。


 僕の描く絵は人からどう解釈されるのだろう。彼の描く絵は誰から解釈されるのだろう。和泉はそんなことをキャンバスに向かいながら、考えていた。和泉が今描いている絵は、屍のような少年が背中を向け、暗闇と光が交錯こうさくする未来を見ている、そんな絵だ。彼の描く絵はいつも誰かが希望を持っている。絵の中の世界は、希望に満ち溢れている。それは彼の願望が反映されているわけではなく、未来はいつも明るいもので、腐っている希望は捨て置くことが理想だと思っているためだ。そんな理想を絵に映し出すことが創作だと信じている。


「駄目だ、こんなんじゃ」声が聞こえた方を向くと、発したのは水野君だった。


 がりがりと頭をかきむしり、これ見よがしに貧乏ゆすりをしていたので、心配して声を掛けようとしたら彼の前で絵を描いている女子が


「ねぇ、ガタガタするからやめてくれる?」と声を掛けた。和泉は言おうとした言葉を飲み込み前を向いてまた絵を描いた。彼女が無造作に投げた言葉は、彼が掛けようとした言葉とは真逆で、でも体の奥に詰まる、たしかに本音の言葉だった。彼はそんな事を水野君に向かって言うことはできない。言えたとしても、彼はその日のうちの大半の時間を使って悩むだろう。


 水野君はといえば、彼は先程の一連をまるで気にしておらず、一心不乱に絵を描き連ねていた。かといってすぐに筆が止まり、またうんうんうなる。そんな事をしたとて何か変わるわけでもあるまい。彼の絵は進んだり停滞ていたいしたり、だとて彼自身は何か掴んだ気でいる。立派なやつだ。


 和泉が描く絵はうまい上に、何かこちらに涙の味に似た、しょっぱい感情のプールに浮かぶ気持ちの空白を寄越してくれるのだ。そうした感情のプールに僕たちは、その絵に対する思いを浮かばせる。そんなことを僕たちは彼の絵を見るとき、無意識のうちに行っているのだ。でも和泉自身はそんな自分の絵を『綺麗』ではないと思っている。感情のプールも絵に対する純心な感想も、彼は絵に対する捻りだし思う濁った考えのように捉えていて、そうされるような色をした、自分の絵が悪いんだと思っている。それは、和泉だけが思っている。


 水野君はあの日のことを、和泉に『綺麗』だと言われたあの日を遠い昔のように思っていた。日数の問題ではなく水野の中ではそれ程の時が経っていたのだ。実際に、和泉に絵を褒められたことは誇れることなのだが、水野君はまるで生き方全てを肯定されたかのように振る舞っている。水を得た魚が、更に地に降り、空を飛び、挙句の果てに浮世を征服するほどの世迷い言、妄想を何度も何度もしている。初めて自分の人生の、主人公になった気分なのだろう。そしてそうなのだ。彼は今迄で一番主人公なのだ。


 空間の、絵の具の、テレピン油の、椅子の、調律と崩壊。ここに居る誰もがこの場の常態を、ぶち壊してやりたいと思っている。それでも、キャンバスに残るそれが、色で汚れたなにかが、なにかのまま眼の前に居てくれたら幸福といえるのだ。全部そのまま居てくれたら寄りかかれるし、見つめることが出来るから。


 和泉は横を見た。隣の彼の左手を見た。何日か前から盗み見をしているが、自分でも何故そんな事をするのか分からない。いつも彼がしている、茶色と金色の時計。最近、ベルトの部分がぼろぼろになって留め具が外れたので、時計屋で変えたんだと言っていた、茶色と金色の時計。それを話すとき少し寂しそうだったから何故か気になってしまった。初めて会った時は確か、していなかった。それなら彼は何をそんなに、あの時計に求めているのか。彼が和泉を思うとき浮かぶのは絵のこと、和泉の才だろう。なら和泉は―――彼に思い浮かべるのは色――では無いのかもしれない。もしかしたら。


 主たる世界が交わる思いを、この場に産み落としたとしたら、何を地に伏した?和泉が水野を、どう思うことが正解なのだ。教えて下さい。教えて下さい。真実はどの絵でしょうか。和泉の?水野の?関係ない人間の?


 それはおそらく、無題の絵でしょう。

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